第652話 サマーセット、領都モンディアル
サマーセット領の領都モンディアルへ辿り着いた頃には、空はすでに西へ傾き始めていた。
水平線の向こうでは夕陽が海を赤く染め、金色の光が波間に砕けている。
潮風は昼間よりも少し冷たくなっていたが、不快さはない。むしろ長旅で熱を帯びた身体には心地よかった。海から流れてくる風が、街全体へ塩の香りを運んでいる。
街道の先に見えてきたモンディアルは、やはり帝国内でも屈指の港湾都市と呼ばれるだけの規模がある。
遠目にも分かるほど高く厚い城壁。
その向こうには、無数の建物が折り重なるように並び立っている。海鳥の鳴き声が頭上を横切り、さらに視線を奥へ向ければ、巨大な港が見えた。
海には大小様々な帆船が停泊している。大型商船、漁船、帝国海軍の軍船らしきものまで混ざっていた。
荷揚げ場では、巨大な木製クレーンらしき設備が軋みを上げながら動いている。縄が引かれ、荷箱が持ち上がり、甲板から次々と積荷が降ろされていた。
やがて馬車列は正門前へ辿り着く。
巨大な城門には、既に何台もの荷馬車が列を作っていた。税の確認を受ける商人、荷物を検められる旅人、傭兵らしき男たち――人の流れは多い。
そんな中、ビック家の馬車列が近づくと、門番たちの空気がわずかに変わった。
視線が集まる。衛兵たちが警戒半分、緊張半分といった顔で近づいてきた。
普通ならば、ここで御者が身分を告げるのだが、その前に馬車の窓が静かに開いた。
中からヴェゼルが姿を見せる。だが、その落ち着きは年齢と噛み合っていない。
御者が口を開くより先に、ヴェゼル自身が名乗る。穏やかな声だった。
「フリード・フォン・ビック騎士爵の嫡男、ヴェゼルとその一行です。ローグ・フォン・サマーセット子爵様と、私の父、それと妹に会いに来ました」
言葉を聞いた瞬間、衛兵たちの表情が変わる。どうやら既に話は通っていたらしい。
門番の一人が、慌てるように背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、ヴェゼル様。すでにローグ子爵様より通達を受けております。領館まで我々がご案内いたします」
声色には明確な敬意があった。
背後では他の衛兵たちも慌ただしく動き始め、ほどなくして前方に二騎、後方にも二騎がつき、馬車列はそのままモンディアル市街へと入っていった。
もっとも、街中へ入れば速度は自然と落ちる。
石畳を車輪がごとごとと鳴らし、馬がゆっくり歩を進めていく。
巨大港湾都市だけあって、人通りは非常に多い。潮風の匂いに混じり、焼いた魚の香りや香辛料の刺激臭まで漂ってくる。
遠くでは酒場から笑い声が漏れ、鍛冶場では鉄を打つ甲高い音が響き、港側では船乗りたちの怒鳴り声が飛び交っていた。
活気がある。それも、帝都とはまた違う種類の熱量だった。
ヴェゼルは小窓から外を眺めながら、その景色を静かに目で追っていた。
視界の奥には巨大な港が見える。停泊中の大型船が幾重にも並んでいる。その規模だけでも、この街が帝国有数の交易都市であることを十分に物語っていた。
向かい側では、アプローズがほとんど窓へ張り付くようにして外を見ている。
「僕、海を見るの初めてなんです……!」
声には隠しきれない高揚が混じっていた。窓へ顔を寄せ、きらきらと目を輝かせている。
その様子を見て、ヴェゼルは少しだけ口元を緩めた。
後ろの馬車のプロフィアとナーロも「海を見たことがない」と言っていたはずだ。きっと今頃、同じように窓へ齧りついているに違いない。
サクラも一瞬だけヴェゼルのポケットから顔を出した。小さな鼻をひくひくと動かし、周囲の空気を嗅ぐ。
「……なんか変な匂いね」
それだけ言うと、即座に引っ込んだ。どうやら海の匂いはお気に召さなかったらしい。
ヴェゼルは思わず苦笑する。
そんなふうに進むうち、馬車列は二十分も経たぬうちに領館へ到着した。
ローグ家の領館は、港町の中心部からやや高台へ寄せるように建てられていた。
白い石造りの外壁に、深い青を基調とした旗が掲げられている。派手さはない。だが、交易で栄える家らしく、堅実さと豊かさを感じさせる造りだった。
正門前で護衛騎馬が門番へ短く言葉を交わす。重厚な鉄門がゆっくりと開かれた。
馬車はそのまま中庭へ入っていく。どうやら先触れが届いていたらしい。
馬車が完全に止まり切る前から、玄関前にはすでに人影が並んでいた。
ローグ子爵一家。
フリード。そして胸のポケットにはジャスティが収まっている。
そして――。ヴェゼルの視線が、ぴたりと止まる。
アクティがいた。
柔らかな夕陽を受けながら、アクティは穏やかに微笑んでいる。
隣ではスイフトと手を繋ぎ、いつものように静かな笑みを浮かべていた。
その姿を、小窓越しに見た瞬間だった。
ヴェゼルの中で何かが切れた。馬車がまだ完全に停止する前だというのに、ほとんど反射で扉を開ける。
「ヴェゼル様!?」
誰かが慌てた声を上げた。だが、もう耳には入っていない。
石畳へ飛び降り、そのまま駆け出す。
夕暮れの風が頬を打つ。距離など、一瞬だった。
気づけばヴェゼルは、アクティの前へ膝をついていた。
そのまま抱きつく。
「……っ」
喉が詰まり、声にならない。張りつめていたものが、一気に崩れ落ちる。
教国との騒乱。
アクティが傷ついたあの日。
張り詰め続けていた緊張が、ようやく解けたのだ。知らないうちに、涙が落ちていた。
アクティは少し困ったように笑いながら、ヴェゼルの頭をゆっくり撫でる。
ぽん、ぽん、と。いつもと何一つ変わらない手つきだった。
「泣き虫なお兄様ですね」
少しだけ皮肉の混じった声音。その瞬間、ヴェゼルは心の底から安堵した。
ああ、いつものアクティだ。そのことが、何より嬉しかった。
ヴェゼルはようやく顔を上げ、改めてアクティを見る。
傷跡は、綺麗に消えていた。
エリクサーを使ったのだろう。ただ、一部だけ髪がまだ完全には戻っていない。焼け落ちた辺りだけが短く、不揃いになっている。
だが、生きている。笑っている。
それだけで十分だった。
ヴェゼルはようやく、深く息を吐いた。
すると、その時だった。アクティの腰の小さなポケットが、もぞりと動く。
ヴェゼルがそちらへ視線を向けると、布の隙間から恐る恐る小さな顔が覗いた。
淡い光を宿した羽。見慣れた小さな妖精。
アリアだった。
「……ご無沙汰…でした」
おずおずとした声だった。どこかおどおどとして、それでいて、ちゃんと挨拶をしなければならないと思っているのが分かる。
ヴェゼルは思わず吹き出しそうになりながら、柔らかく笑った。
「うん。久しぶりだね」
その瞬間、アリアは少しだけほっとしたように肩を落とす。以前よりも、どこか表情が柔らかい。
そのやり取りを見ていたオデッセイが、ふっと口元を緩めながら歩み寄ってくる。
相変わらず隙のない立ち姿だった。オデッセイはヴェゼルの前へ立つと、軽く頭を小突く。
こつん、と乾いた音がした。
「また見ない間に大きくなったわね」
呆れ半分、嬉しさ半分。
そんな声だった。ヴェゼルは少し目を瞬かせる。
オデッセイと会うのは、およそ二ヶ月ぶり。
本来なら、そこまで長い時間ではない。だが、この二ヶ月で起きた出来事があまりにも濃すぎた。
もはや半年以上離れていたような感覚すらある。ヴェゼルは少し考えてから首を傾げた。
「そうかな? 自分では分からないよ」
「親は分かるものよ」オデッセイは即答した。
その声音には妙な確信がある。
ヴェゼルは苦笑するしかなかった。
少し後ろでは、フリードが豪快に笑っていた。
「あははっ! たしかに面構えは変わったかもな!」
いつもの大声だ。
その隣では、エスパーダまで静かに笑っている。どこか満足そうにヴェゼルを見ていた。
「まぁ……帝都などという面倒な場所を生きて帰れば、少しは男にもなりますかね」
皮肉なのか褒めているのか分からない口調だったが、その目には確かな親しみがあった。
周囲を見れば、ローグ子爵一家も穏やかな顔をしている。
アルトは微笑みながらこちらを見ていたし、スイフトはアクティの隣でにこにこと笑っていた。
その空気を壊さぬように、ローグ子爵が一歩前へ出る。
「ここで立ち話というのも何だ。さぁ、中へ」
落ち着いた声だった。
「ヴェゼル殿一行を歓迎するよ」
その言葉に、周囲の空気がさらに和らぐ。使用人たちもどこか嬉しそうだった。
帝都での騒動は、すでにある程度伝わっているのだろう。
それでもこうして笑顔で迎えられている。
その事実が、ヴェゼルには妙に胸へ染みた。
潮風が、中庭を静かに吹き抜けていく。
長い旅だった。肉体的な距離だけではない。
教国での戦争から始まり、帝都での政治的対立、辺境伯との騒乱。数え切れないほどの緊張と駆け引き。
張り詰め続けていた糸が、ようやく少しだけ緩む。
ヴェゼルは静かに息を吐いた。
――帰ってきた。
その実感が、今になってようやく胸へ落ちてきていた。




