13 「いいよ、とにかくそれ、終わらせて!?」
「すごい量ですね、改めてみると」
イーリスは独り、残された部屋で苦笑する。渡された紙の束も大量にあるが、アヴィの言うところのSDカードも膨大な量である。中身はどれほどあるのか予想がつかないし、果たして足りるだろうか、と。
「……無理と思ったほうがいいですよね、きっと」
下手に半端なところで記述が止まると、全てやり直すことになる。それを考えたら、最初から別の手段を取るべきだと言えた。それに、全ての小片から情報が読み取れるとは限らない。まずは生死を判別するべきだろう。
「小片の生死判別――各情報の見出しによる分類を実行」
とりあえず手探りなので、術式に落とし込みはせず、分類だけを実施する。大半は生きていたが、一割程度は死んでいたらしい。だが、一割である。たぶん、誤差の範囲だろう。
「ああ、そういえば写真だけのものがありましたね」
家族写真のようなものだったり、動物の写真だったり。研究の役には立たないが、ほんわか出来るそれらも、別にする。これらはきっと、研究所の職員たちの思い出なのだろう。そんなものが、各種の情報と一緒くたになっているというところに笑えるが、そこはそれ、やはり生きているからには有機的な思いもあるのだろう。ということで、そういった写真しかないものは、更に別で纏め上げる。これらの処理は後日でいいし、そのまま消えてしまっても…まあ、いいのではないだろうか。思い出など、他人に見られたいものではないだろう。
分類した分から、一番量が少ない山を選び、手元に寄せる。自分の髪を一本引き抜いて布状に作り変え、それを包んだ。更に数本を引き抜いて、水晶のような珠を幾つも作る。
妖魔の身体と言うのは、圧縮された妖力の塊という見方が出来る。故に、こんな真似が出来るのだ。もっとも、やりすぎれば先のイーリスのように消滅が待っているので、好んでする真似ではない。
布にして包んだのは、術のターゲットを指定するためだ。
「読み取った情報は…文字として記録しましょうか」
まずは一枚、小片を水晶に呑ませて術の起動。程なくして水晶の内部に塵のような何かが渦を巻き始めた。読み出しと記録の成功である。その珠を覗き込めば、たぶんとてつもなく小さな文字が読めるだろうが、流石にこれでは役に立たない。
「記録した情報は……投射?」
呟くと同時に四方に文字が投射された。それが小片の中身であることは間違いないのだが、非常に読みにくい。
「前方のみ、広く、巻物のように」
意識するだけで上下し、適度な文字として読めるものになる。何か別のことに応用が利きそうだなと思いつつも、小片を抜いて中身が間違いなく転写されていることを確認し、術式としての確定を決めた。これならば妖力珠が素地となっているので、容量に不足が合ったら追加可能である。いつまで持つかは分からないので、物理的に書き出してもらわなければならないが…まあそれは、ラースに任せてしまって問題ないだろうと放置することにした。
「”自動編纂”として術式確定」
手順を確定し、読みだした小片を使って再確認。どうやら問題はなさそうだ。…まあ、ラースがこの情報珠を扱えるかという不安はあるが、腐っても魔王である。それくらいは問題ないだろう。…壊れないように、強化はするつもりだが。
「”並列起動”――”自動編纂”開始」
水晶が幾つも作り出されて、勝手に小片を飲み込み始めた。
”並列起動”は、同じ術式を複数同時に展開して自動制御する、イーリス得意の術式である。ただしこれを始めると、自我の大半が制御に追われて周囲を認識出来なくなる。なので、今回は十個までにとどめている。情報の吸出しが終われば開放し、新たに作り出していくので、無理はないだろう。
ちなみにこの並列起動、現状の使い手はイーリスのみである。
小片が処理されるにつれて、水晶球は黒く染まっていく。よくよく見れば、文字がそのまま小さくなっているだけなのが分かるかもしれないが、それこそ砂粒よりも小さいそれを術式無しに読み解ける者などいないだろう。もっとも、ラースがこれを国外に持ち出させることなど有り得ないが。
(いや……術式が重要……)
常の数分の一以下の思考速度で、イーリスは考える。術式を知る者以外に読み解けないとなれば、機密文書として引っ張り凧だ。それはたぶん、目端の利く馬鹿でも同じことだから、知られないように気をつけなければならない。あのころのようにまた、囚われる子供たちが出来てしまう。
読み込みの終わった小片を分類し、片付ける。その動作もかなりゆっくりだが、術の影響下にあるイーリスはそのことに気づいていない。
(そう言えばこの”自動書記”…誰に教わった……?)
自力で編み出したわけではない、そのことは確実だ。何しろあのころ、報告書は全て手書きしていたのだから。そのころに妖力珠への記録を思いついていれば、そんな面倒をしたはずがない。それにこの術、習得に苦労した覚えがある。術ではなく術式と理解している以上は、考案者がいるはずだ。ああ、それならばその術者にも、言い含めなければならない。
(誰です……誰に教わりました……?)
教わったときの状況は、思い出せない。だが、何のためにこの術を望んだかと考えると、情報の記録が主目的だろう。今の自分に必要がない術式である以上は、まだ必要だったころ――恐らくは、二代目の側近として諸国を放浪していたころに習得しているはずだ。
(…小片のことを…情報媒体だと、どこで知った……?)
小片の存在自体は、知っていた。そう、世界中を巡り歩いていた間には遺跡も訪れて、正体を探ってみようと幾つかを拾ったことは覚えている。ああ、そうだ。だからそれを国へ持ち帰って、書庫の主に聞こうと――……。
(書庫の主……に……会った、のか…?)
わからない。書庫の主とは誰のことだ?
少なくともラースではないし、デカラビアでもない。彼らはあのころから庭園の主で…そういえば、ラースと知り合ったのはいつだ?
デカラビアは覚えている、彼を連れてきたのは自分だったのだから。
(彼女は…人間……どうして…ラースに……?)
”彷徨える泉”に入り浸ったがために妖化したが、彼女は人間だった。ラースに押し付け…預けたのは、もちろん植物狂いというその一点だ。けれど、…どうしてラースに預けようと思ったのかが思い出せない。
(ラース…いつ、から……?)
友人ではあるが、彼は妖皇宮住まいの身であり、自分は当時、世界を放浪していた。知り合う機会など、どこにあっただろう?
初代妖皇の側近だった彼を、いつから親しく呼ぶようになった?
各地で見つけた妖化植物や動物を彼に預けた。悪いようにはしないと確信を持って。そこまで信頼出来るようなった切欠は、なんだった……?
(――誰だ…ラースではないなら、いったい……?)
デカラビアに至っては、出自も相まって習得には至ってない。だから彼女のはずがない。悔しそうな顔をしていたことを思い出して、イーリスは笑う。そのくせ、植物の扱いは天下一品なのだから、見事に植物特化した魔王さまたちだ、と。
(それなら逆に……情報処理に特化した、魔王……?)
ふと、気づく。ああ、それならあるかもしれない。
初代が国を建てるときに、側近は何人もいた。出来立ての国と侮って、傲慢な外交を突きつけてくる国もあっただろう。だが戦争で黙らせた話は、聞いた覚えがない。ならば相手の国を黙らせる情報戦だったはず。であれば、自動書記はそこで生まれた可能性が高い。
(どう…して…)
直接の知人ではないかもしれない。けれど、術の製作者であるなら、一度は顔を合わせているはずだ。なのに、どうして思い出せない?
そんなことを考えていたせいか、術式から解放された水晶珠をイーリスは取り落とした。机から転がり落ちるそれを受け止めようと手を伸ばしたが、ずきりとした頭痛に動きが止まる。
しまったなと暴走に気づくが、もう遅かった。
(制御が…利かない――)
朦朧とし始めた意識の中で、イーリスは思う。
(彼女が…いたら…)
虹色の光を見る彼に、その言葉が記憶に残ることはない。
※ ※ ※
「うっわ…何、これ」
「あちゃー……イーリスくん、暴走させちゃったかぁ」
戻った二人は、その惨状に言葉を失った。
意識のないイーリスと、宙に浮く幾つもの珠から、ラースは状況を把握した。遥か昔、この術を習得したての彼が同じように意識を失ったことを、覚えていたためだ。
そして、そのときの解決策も忘れてはいない。いない、けれど。
「…僕じゃ無理だしなぁ……」
暴走した妖力を制御し、適切に術に振り分ける。或いは全ての妖力を白紙に戻して、術そのものを停止させる。そのどちらかが必要なのだが、他人の妖力を操れる技能がないラースには、どちらも不可能だ。アヴィには更に無理だろう、まだ術の練習を始めたばかりだし。
そう思って彼を見るが、――何故か、別人を見たような気がした。
「――」
アヴィは恐れる様子もなく、イーリスに手を触れて目を閉じた。唇が動いているのは、何か呟いているせいだろうか。まるで人間が魔法を使っているかのようだ。何をしているのか分からないから、本当は止めるべきなのだろうと思うけれど――あまりに落ち着いた様子だったから、声をかけあぐねている間に、術は正常化されたようだ。それでもまだ、彼は目を覚まさないけれど。
「え…って、待ってアヴィくん、まだ君には早いよ!?」
宙に浮いていた珠が、整列する。くるくると回りだして、術が再開されたことを示しながら。イーリスの意識が戻らない以上、それはアヴィが術の権限を受け取り、代行していることになる。自分でさえ理解出来なかった術式を、平行稼動で。
無理だとは思わないけれど、側近筆頭を勤めた魔王の代行をするには、彼は若すぎる。
(勿体無い、けど。どうせ、使えてないものだし)
術を壊すしかないと、ラースは覚悟を決めた。壊せば当然、珠は失われる。下手をすると、小片も壊れてしまうだろう。だとしても、彼らを失うよりは、ずっといい。
けれど、どうしようかと考える。術の制御を奪うことなど自分には出来ない。やるなら意識を刈り取るしかないけれど、術式が発動している以上は今のイーリスと同じ状態になるだけのはず。いっそ、奪うよりも術式を壊したほうがいいのか。だがそれこそ、アヴィの無事は保証できない。どん、と思わず机を叩く。
「ああもう…っ、なんで安全機構組み込んでないんだよ、こんな複雑な術にっ」
「ご安心ください、マラクスさま。妖力不足で処理が遅くなっただけですから」
そんなふうにはっきりと言葉が返り、ラースは刮目して彼を見る。今、…なんと言った?
「今、妖力の補充経路を確立しました。――後は、お任せしますね」
赤い瞳で微笑んだアヴィが倒れるのを、ラースは慌てて支えた。イーリスはと見れば、どうにか意識が戻ったようだ。
「すま…ない…」
「いいよ、とにかくそれ、終わらせて!?」
悲鳴のごとく叫ぶラースに頷いて、イーリスは意識を術へと戻した。先ほどまでよりも滑らかに、そして速く、水晶珠は黒に染まっていく。
本来なら水晶珠を増やして読み込み続けるそれを、イーリスは強制的に終わらせる。読み込みかけた分だけを完成させて、ぐったりと壁にもたれた。
「悪い…久々だったから、感覚が狂った……あのころは、もっと自在に操れたのに」
それは、とラースは答えかけて口を噤んだ。あのころ、と。まだ彼が外遊官として名を馳せていたころ、同じように術を頼んだことがある。一度ではなく、何度も。その何れも、彼は見事に術を制御していた。今と違って、練成する妖力に余裕があったからだ。
実を言えば、妖魔といえど妖力の練成は、身体に負担がかかる。ただ、それは人間でいうところの駆け足程度のものなので、誰も気にしないのだ。
今の彼は、…気づいていないけれど、妖力を練成するだけでもその身体に負担がかかっている。術を使うことを避けるのも、すぐに疲れて眠るのも、そこに起因する。
「…もう、心配したよ。こんなに一度にやらなくなっていいよ?あのころだって、ここまで大量に処理したことないよね?」
「まあ、な。でも別に、連続処理するだけだから対して負担はかからないはずだったんだ」
「無理しちゃだめだよ、歳なんだから」
「歳って」
苦笑するのは、実はラースのほうが年上だからである。彼ら妖魔は年齢を気にしないとは言え、流石に初代側近である彼らよりは、イーリスのほうが若いのである。
「少し、休もう? アヴィ君も休ませたいし」
「……ああ、そうだな」
自分はここで適当に横になればいいが、何があったのか混乱しているアヴィはそうもいかない。そう考えて、イーリスは同意した。しかし、ラースにしてみればどちらかというと、術を暴走させた彼のほうが心配である。アヴィのほうは、……あれは、アヴィなのかという疑問が浮かんで、ようやく気づいた。違和感はその瞳にあったのだということに。
(――君じゃ、ないね)
名を思い出せない親友に、心の裡で問いかける。くすりと笑うだけで答えない彼女の瞳は、――赤いのだ。でも、自分を「マラクスさま」などとは呼ばない。
「アヴィくん、行くよ。歩けるね?」
しゃんと立ち上がった彼は本人に任せ、イーリスを伴って部屋を出る。連れ出した先は寝室――ではなくて、日が降り注ぐ、植物園の一角だ。そこには中央に噴水が設えられている。
「わ、すごい。本物?」
「うん、本物。ほら、水路があるでしょ。そこで、循環させてるんだ。見て来る?」
「水路? うわ、なにこれ、硝子!?」
アヴィが素直に覗き込むそこには、硝子で閉じた水路が設えられている。正しくは水晶を整形した板なのだが、皆が硝子というのでそれに倣ったまでである。一度振り返ったアヴィは一瞬だけ、戸惑ったような顔を見せた。ちらりとイーリスを見てその意味を悟ったマラクスは苦笑する。この場合はまあ、知らない振りがいいのだろうなと。
「イーリスくんは、休ませるから。水路、見ておいで?」
噴水から流れる水は幾つにも枝分かれする水路を抜けて外へ出る。この温室はかなり広いので、戻ってくるまでには彼も落ち着くだろう。言外の意味を悟ったか、アヴィは素直に頷いて歩いて行った。
「しばらく、眠って? …あ、寝室のほうがいい?」
こぼした涙を戸惑い顔で拭うイーリスに、そんなふうに声をかける。いや、とイーリスから答えが返り、肘掛を枕に横になった。誰の趣味かは知らないが、肘掛までついたベンチとしてもデザインされている噴水である。閉じられた目から一筋、流れた涙は跡にもならない。
そうだね、とラースは口の中で呟く。僕の記憶でも、君はよくここで眠っているよ、と。やがて彼が寝息を立て始めたころ、アヴィが一回りしたのか、反対側から戻ってきた。
「ああ、寝たんだ?」
「うん、ちょっと無理、しちゃったから。どう、すごかったでしょ?」
「すごいって言うか、おかしくないか、これ? なんで水が循環してんの?」
「あはは、そういう術陣。噴水と、水路の設計は人間だよ」
そもそもこの妖皇宮は、初代が人間の建築士に作らせたものである。迷路庭園も、もともと散策用の庭だったところをラースが改造しただけなのだ。そのころには初代は行方不明になっていたから、見せられなかったのが残念だと、彼は悔しげである。
「この噴水、迷路庭園に、あったんだ。ちょっとした理由があって、こっちに隠しちゃったけど」
「隠した?」
「うん、ここ、さっきの部屋からしか、来られない」
閉ざされた温室の、更に隠された一角なのだと告げられてアヴィは呆れた。それも術の賜物だというのだから、本当に妖魔という輩はすごいものである。
「そこはちょっと、御幣がありますわね」
見覚えの在る籠を持った女性が、香ばしい匂いを漂わせながら現れた。その籠の中には、見覚えのない瓶が入っているが、ワインだろうか。
「訂正しておきますわ。研究室に入れる者しか来られない、が正しいのですよ」
はい、とそれをラースに押し付ける仕草は、何やらとても慣れていて、親しさを感じさせる風情であった。ただまあ、…色気はまったくない。着飾れば相応に美しく気品も漂うだろうに、どう見てもその姿は研究者――それも、無頓着にもほどがあるだろうと言いたくなるような、白衣姿である。妖魔という輩は自在に衣服を創れるのだから、もう少し洒落っ気があってもいいのではないか。せっかくの…そう、イーリスには劣るけれど十分な美女なのだから。
(……ん? なんでオレ、そんなこと思ってんだ?)
籠の中身をつまみながら何やら言い合っている二人を見つつ、アヴィは内心で首を傾げる。いや、確かにイーリスは美女…美少女だが、気品とか洒落っ気とか、そんなもの自分にわかるはずがない。まるで批評のような感想だし、それはイーリスにも抱かなかったのに、どうしてだろう?
「あのね、アヴィくん。この子も魔王の一人、だよ」
「え?」
「初めまして。エレーミア妖皇国魔王が一人、デカラビアと申します。…イーリスさまには、植物狂とか呼ばれておりますが、お好きに呼んで下さいませ」
むしろ望むところです、と笑う様は、魔王がどうかはともかくとして、人の上に立つに相応しい気品を備えているように見えた。どうしてこんな女性を植物狂いと呼ぶのだろうと、疑問に思わせるほどに。
「相変わらず、だねえ。植物狂いっていうか、狐ちゃんだよね」
「三つ子の魂百までと申しますから」
そんな会話を彼らが交わしていたことと、デカラビアが元は人間で、貴族の娘で、妖化植物に傾倒するあまりに妖魔と化したのだとアヴィが知るのは、当分先のことである。
「あ、猫?」
「あら、来ましたか。あらあらあら」
「うわぁ…いいなぁ……」
先ほど姿を消したはずの巨大猫が、噴水の水を飲んでいた。何かまるで、猫のための循環水装置に見えるほどの対比である。そこで寝転がるイーリスは、もうどう見ても人形でしかない。ちょっとそのまま猫に持っていかれるのではなかろうか、と心配になるほどである。ラースが羨ましがっているのは、その尻尾がイーリスをつっついて遊んでいるからだろうか。当人はと言えば、気持ちよさそうにされるがままである。
すすすす、とアヴィが近づく。イーリスを素通りして、猫の喉元へ。ちらり、と視線をくれた猫を、まるで許可を貰ったのだというかの如くに撫で始めた。
「なんかすごく幸せそう」
「ですわね」
くすくすと笑いあう二人も知らぬとばかりに抱きついてみたり、そのもふもふに顔を埋めてみたりとやりたい放題である。猫に警戒心がなくてよかったね、とはラース胸中の呟きである。
「――あら。珍しい」
「ん? 珍しいって?」
「ほら、瞳の色が赤いですわ。髪の色と違いますよ」
「え」
確かに、とラースはそれを認めた。自分も、デカラビアも。イーリスだって、瞳の色と髪の色は同じなのだ。いや、アヴィだってよくよく思い出せば、少なくとも赤ではなかった。赤い瞳と思ったのは、さきほどのあの一瞬だ。
「……っ、君、だれ!?」
慌てて誰何するラースに、アヴィの反応はない。無視というか、聞こえていない様子で猫に夢中である。デカラビアはラースの反応自体がわからないと、不思議そうな顔だ。
「ねえ君! さっき妖力制御したって言った子だよね、アヴィくんじゃないよねっ?」
再度の問いかけに、ちょっとだけ反応があった。顔をすりすりと毛皮に埋めつつ、視線だけラースに向けたのである。とても幸せそうである。そして気づいたのは、何やら猫が緊張しているかのように、動きがぎこちなくなっているということだ。
人懐っこいとはいえ、猫である。苦手なものからは逃げるが勝ちと、ラースが学んだうくらいには猫のままである。どうしてそんな体制で緊張しつつも逃げないのか、まさかアヴィ――いや、あの赤い瞳の持ち主が怖いのか。いやでも猫だし、逃げるし逃げられるし。
そんな堂々巡りから抜け出せなくなったラースと、視線だけは向けつつも猫を撫でる手を止めない少年と、固まったままの猫にデカラビアが溜息をつく。
「ねえ、そちらの方。お名前を伺ってもよろしくて?」
んー、という感じに、アヴィが首を傾げる。そしてそのまま、目を閉じてくず折れた。その瞬間に、猫が脱兎のごとく逃げていって、ごいんと音がした。
「あらあらあら」
「あーあ……」
けっこう大きな音がしたのだが、あまり心配していない二人である。まあ、音だけだろうとか、痛覚を切ればいいから大したことはないだろうという頭が根底にあるせいだ。むろん、メモリアであるアーヴェントに、それが出来るはずもなく、ぶつけた頭を抱えてうずくまっている。
「…痛そうですわ?」
「そうだね…って、あ!」
ラースが慌てて駆け寄って、抑えているところを離させて代わりに手を翳す。ぶつけたところは思い切り色が変わっていた。このあたりも人間を模しているだけあって、ほぼ同様の変化が起きるし、痛みもある。そして彼はメモリアなので、痛みを切ったりする方法を理解しているのかという問題があったのである。
「な…なにが、あった……!?」
「ごめん、わかんない」
アヴィの涙目になりながらの問いかけだったが、ラースだって何が起きたか理解しているわけではない。他に答えようがないのである。ただどうやら、アヴィの中にもう一人いるんだろうなということはわかった。けれど、そんな話は聞いたことがない。世界を放浪していた彼なら知っているだろうかとも思わなくはないけれど、長い付き合いの自分が聞いた覚えがないのだから、たぶん知らないのだ。たぶん、きっと、隠したり、は…いや、職制がらみだとけっこう隠すか。でも場合、どうやったら職制に抵触出来るのだろう? うん、ちょっと無理。やっぱり知らないってことで。
ラースは結論を出した。
「…なに…やってる……?」
身体は起こさないままだったが、イーリスが問いかけた。頭を抑えるアヴィは答えられず、ラースも唸った。
「瞳の色が違うのって、そんなに大事ですの?」
「え」
イーリスが目を開き、慌てたように体を起こす。だが、まだ回復していなかったのか頭を抑えた。
「植物狂――どういう、ことだ?」
どういうも何も、とあきれたように言葉が返される。
「そこの坊やの目が赤いから珍しいですわねと…あ、ら?」
「たぶん、こっちが本当の色だと思うよ? 君、心当たり在る?」
涙目のアヴィの瞳は、深い青――つまりは、髪の色と同じである。それは当たり前だが、心当たりはなくもない。
「――なくもない、程度だ。赤い瞳のアヴィには、一度だけ会った」
会ったというか、見たというか。言葉を交わしたわけではないけれど。そう、イーリスは答える。
「そんな特徴、あったっけ?」
「あったら教えてる」
それがメモリアという種についてだと、わからないイーリスではない。別に植物狂に知られても問題はないが、一応は気遣ったのだろうとあっさり答える。それを聞いたラースが笑ったが、まさか隠し事をしていないことが嬉しくてだとか、イーリスに分かろうはずもない。それよりも、何の話かと涙目になっている少年がちょっと可哀想である。だがどうやって説明したものか。自分自身にも分かっていないのに。
どうしようかと考え始めたそこへ、りりんと何かの音が聞こえた。
「――あら?」
「誰か来たね」
首を傾げるデカラビアとラースに心当たりはないらしい。となると、当然彼らの視線はイーリスたちへと注がれる。だが、イーリスとてここに来ていることを誰に知らせたわけでもない。レディと約束した時間にはまだかなりあるし、首を振るしかないのである。
不思議そうな顔ではあったが、デカラビアが出迎えに行く。この辺りは阿吽の呼吸――というより、ラースに客あしらいが出来ないため、彼女が買って出ているというのが正しいだろう。それは助かるんだが、とラースを見上げる。
「…思い切り、頭ぶつけてたからね」
「頭って」
それ、と噴水の縁を示されて、イーリスは肩を竦めた。うん、間違いなく痛い。何しろこの噴水は、大理石だ。本物の。
「痛み、切れないんだね」
「流石にな。それに、不要だろ?」
「怪我の治療方法くらいは教えてもいいと思うけど」
「……まあ、そうだな」
流石にまさかここでそれが必要になるとか思いもしなかったのである。それに、痛いのは確かだし直せたほうがいいのも事実だが、放置したところで大したものではないし、いずれは治る。人間同様…いや、それよりは遥かに早く治るだけの治癒能力は持っているのだ。
「けっこうスパルタ?」
「…本来の意味とは違うんだが」
「――”スパルタ”。古代の都市国家スパルタで行われた教育を指す。厳しいこと、自律させることを目的とする教育であると誤解されることが多いが、実際には「親元から引き離し、国に忠誠を誓う優秀な兵士」を育てるための教育である。軍隊教育とは、得てしてそんなものであることを忘れてはならない」
え、とラースがアヴィを見る。諦めた風情の彼とイーリスを見比べていると一瞬、周囲がぶれたような感覚があった。彼にとっては慣れた感覚なので一瞬だけ目を閉じてやり過ごす。むろん、イーリスもそれに気づいて対処しただろうし、問題は……。
「…大丈夫?」
「……うん、まあ。別に。特には」
「普通は大丈夫だよ。あれのほうが特殊なんだ」
ベンチに座ったイーリスと、その脇で地面に座り込んだアヴィはそんな会話を交わしていた。強制召還と言っていたし、何があったのか予想はついたが、確認は後回しだ。この空間移動がデカラビアの仕業であることはイーリスなら気づくだろうから、答え合わせもしなくていい。問題は予告もなくこんなことをした理由のほうだが、彼相手では仕方が無いなと納得もする。
「やあ、久しぶり、勇者くん。招待した覚えはないんだけど?」
「ああ、すぐに行くよ。レディのお使いでフェネクスたちを迎えに来ただけだからさ」
そう、とラースは目を細めた。妖皇宮の統率者である彼女なら、ここへの訪問も可能だ。条件を限定すれば、使いのものを送り込むくらいも出来るだろう。だが可能な限り関わりたくはないし、とっとと追い出したい。こればかりは、イーリスといえど譲れない。
「予定より早いけど、仕立て屋が空いたから、来いってさ」
「――ああ、そういうことですか」
「あら、”妖皇宮の仕立て屋”ですの?」
その話か、とイーリスはしぶしぶ頷いた。まだ時間はあると思っていたし、もう少し休んで行きたいところだが…勇者だけで帰るはずもない。
「羨ましいですわね。中々時間が合わなくて、わたくし、注文出来ずにおりますのよ」
「悪いな、この二人の分だけ無理やりねじ込んだんだ。ま、頑張れよ」
表面上の会話――アヴィにもそれと悟らせるくらいの空虚なやり取りが、彼らの関係を物語る。詳しくはイーリスに確認するべきだろうが、下手に突くとまずそうだということは、流石に分かった。だから立ち上がったイーリスに、素直に従う。
「また来てよ、フェネクスくん。…いつでもいいから、さ」
「――ええ、マラクス。近いうちにまた、伺いますね」
「ねえフェネクスさま、わたくしもお連れくださいな?」
「デカラビア……今日のところは採寸ですから、面白くはありませんよ。仮縫いがあがったらお見せしますよ」
それがとりあえずの、退席挨拶であった。




