12 「ねぇ。どうして、術を教えてないの?」
「そういえば、術の練習って何かやった?」
「術?」
イーリスが追加のお茶を淹れると席を外したところで、ラースが問いかけた。んー、と考えてみるが、練習らしいことをやった覚えはない。寝間着に着替えるときは勝手に出来ていたし、今朝は――結局出来なくて、イーリス作の衣服だし、と。
「ああ、そうなんだ。んー…まあ、術って自然に出来るものではあるんだけど、さ。教えてもらったほうが飲み込みやすい術ってのも、あるんだよね。例えば」
ラースがその手に種を一つ、生み出した。どこからも出さずに掌に現れたから、たぶんそういうことなのだろう。その種が徐々に透明になっていき、芽が生えた。根は見えないけれど茎が伸びて、葉が茂り、やがて一輪、硝子の花が咲いた。
「硝化の術だよ。妖化しやすいから、気をつけないとあれだけど。出来て損はない。覚える?」
「え。教えてくれるのか?」
「これ、出来るとけっこう便利だから。応用も効くし」
アヴィよりも楽しげな笑みで、ラースは術の説明を始めた。妖力を集中させる辺りはすぐに飲み込み、硝化状態の種を作ることは出来た。けれど、成長させるところまで辿り着かない。試しにとラースが創った種を借りてやってみたけれど、やはりそこからは全く反応がなく、先へ進まない。
「ラース。…私にも出来ないことを教えてどうしようというんです?」
「出来るかもしれないよ?」
淹れなおしたお茶を並べながら、イーリスが溜息を吐いた。一瞬遅れてアヴィがそれに気づき、更にさかのぼってその言葉を思い出し、…愕然となる。
「ちょっと待て。イーリスにも出来ない?」
「ええ、出来ませんよ。難しいんですよ、硝化したままで成長させるのは」
「イーリス?」
ラースが驚いたような顔で、イーリスを見た。あ、とアヴィが固まるが、イーリスは笑って問題ないと答える。
「アヴィにもらった名です。まだ、誰にも言っていませんから内緒ですよ?」
驚いた表情が笑みへと変わり、ラースが頷いた。
「それから、彼はアーヴェント。これも、誰にも言ってないですからね?」
うん、とラースは笑った。イーリスに信頼されているというが、うれしいのだろうか。
「あのね、アヴィ君。それ、あげるから時々、練習してみて」
うん、とアヴィは頷いた。いい子、とその頭を撫でたラースは、イーリスを見上げる。
「ねぇ。どうして、術を教えてないの?」
「どうしてと言われましても。……現界したの、昨日ですし」
「昨日!?」
びっくり、とラースに見つめられて、アヴィは困惑する。そう言えばいろいろあったけれど、一晩が経っただけだなあと思ってみたりもした。
「それで、これ? すごく、覚えが早い。ねえアヴィ君。こういうの、は?」
空にした茶碗を取り、引き裂くような仕草――で、二つの小さな茶碗を作り出す。
「あれ?」
「相変わらずですね。質量を二倍にしなければ、そうなりますよ?」
笑いながらイーリスも茶碗を手にして、引き裂く――こちらは、同じ大きさで二つ、そっくり同じものが作られた。
「え、え?」
「僕がやったのは、カップを分解して、きっちり半分にして再構成…かな」
「カップを分解するところまでは同じですが、私はその後で同じだけ質量を複製してから再構成ですね。ちゃんと使えますよ」
アヴィもやってみようと思うものの、自分のカップにはまだしっかり、お茶が入ったままである。
「それ、失敗すると大変。これで、やってみて」
背宛にしていたクッションを、ラースが示す。頷いてそれを受け取り、彼らと同じく二つに裂く。と。
「え」
「あはは、それなに、便利そう」
「器用なことを……」
三者三様の反応は、長細い二つのクッションが出来上がったためである。もちろん模様は真っ二つなので、並べると一つの絵になるという面白クッションである。
「それ、そのままにしておいてよ。今度はこれでやってみて」
更に別のクッションを渡されて、アヴィはむむむと眉根を寄せた。イーリスと同じようにしたつもりだったので、何がまずかったのか分からない。とりあえず同じように裂いてみるが、やはり左右で分かれたクッションが出来てしまう。
「アヴィ。それをそのまま、複製したらどうです?」
「えっと…こう、か?」
二つを重ねて、両手で持つ。それをまた引き裂くと――クッションが四つになった。
「…どこかでこんな歌を聞いた気がしますね」
「あれ、引き裂くじゃなくて叩くだし、三つまでだけどね。アヴィくん、どこまでやれるんだろ?」
納得いかないらしく、アーヴェントが四つのクッションを重ねてまだやろうとしていた。流石にやり方を教えてみようかとイーリスが声をかけようとしたところで。
ぼふん
間の抜けた音がして、羽毛が舞った。
「アヴィ!?」
「ちょ、だめ、これだめ、なんでーっ」
げほげほと咳き込むアーヴェントと、あわあわわと焦るラースのために、イーリスはとりあえず自体の収拾を図った。舞い散る羽毛を――クッションのカバーとその中身を標的として定め、全てを己の手元に集める。集めたそれを困った顔で見て。
「これ、…どうしましょう?」
ラースに処理を振った。実は修復が苦手で、壊れたものに関しては作り直してしまうのだ。
「…それにこれ、…ずいぶん弱ってますね。使い物になります?」
残骸となった布を見て、首を傾げた。ところどころ薄くなっていて、恐らくは経年劣化でかなりボロボロになっていたのだろう。そこにアヴィの術が加わったので、耐え切れなかったというところか。複製したところで、クッションには戻りそうにない。
「あー…ちょっと無理っぽいねぇ。うん、いいよ。僕がやる」
それを見たラースは旋風の制御を受け取り、小さく小さく小さく纏めて、水晶球のような何かを作った。羽根が舞う水晶球という、置物としても面白い一品である。
「あら、面白いものを作りましたね。どうします?」
「飾っておくよ。僕の妖力だから、何かあると不味い、し」
それがいいか、とイーリスは頷いた。
彼の妖力は、植物と非常に相性がいい。妖力を使って育てた草木は妖化しやすくなるが、彼の場合はその八割が妖化するようになってしまうのだ。まかり間違ってこの水晶が人間の魔法使いの手に渡り、そのことに気づかれたら――大変なことになる。
それはそれとして、と二人はアヴィを見た。彼は呆けたように二人を見ているのだが。
「アヴィ君アヴィ君?」
「今のはラースのミスですからね。気にしなくていいですよ?」
「え、違うでしょ。イーリスが保険かけなかったせいでしょ?」
「それは認めますが、まさかこんなにボロボロなものを使ってるなんて、思わないじゃないですか」
「君が来なかったからだよ? 忘れちゃった?」
「え?」
どうやらそのクッションはイーリスが国外で入手したもので、相当に古いものらしい。弱ってきた気がして使わないよう、誰も入れないこの部屋に大切に置いていたものを、彼もいるしと気軽に提供したら、こういうことになったそうだ。ということを把握できる程度には、アヴィも正気に返ったのだが。
(あれ? 痴話喧嘩に聞こえるのは気のせい…だよな?)
まあそれは、男女で楽しげに言い合いをしているから、という状況が一役買っているのだろう。
やがて話がまとまり、イーリスが国外へ出たときに、同じようなものを探して贈る、ということで落ち着いた。
ラースは策士かもしれない、とイーリスから見えない角度で笑った彼を思う。この場合、土産とは別枠になるだろうと考えると、嵌められたのではないかとちょっぴり心配になるアヴィである。問題は、彼が策士なのかイーリスが付き合っただけなのか、それとも単にイーリスが策に弱いのか、出会って数日の自分では、そこがわからないことなのだが。
「でもさ。いつになるのかな、それ? 期待していいの?」
「…近いうちに、としか」
ラースが苦笑しつつ問いかければ、イーリスも言葉を濁した。やはり魔王ともなると、国外へ出ることに制限があるのかなとアヴィなどは思うのだが、口にする前にそれは否定された。
「フェネクスは外遊官を示す称号でもあるので、本来はいつでも出られるんですよ?」
「内政に一切関わらないしねー。あ、外遊官てねぇ、エミーリア独自の官位だよ。他国でいう外交官みたいなものかな」
「ありえないくらいの自由裁量ですけどね」
国外を回り、各地の情報を得て、必要なときには独自の判断で動く。エミーリアは責任を負わない代わりに、一切制限をかけない。外遊官とは、そのために作られた対外的な官位であり、実は国内への影響は全くない。初代がそのつもりで作った官位なので、変更が効かないらしい。
「ありえないよねー、全く」
「まあ、私としては助かりますけどね。内政なんて、冗談じゃありませんから」
「あはは。…ところでさ、イーリス。何で女性型のままなの? アヴィ君には振られたんでしょ?」
「私だってわかりませんよ。目覚めたらこの姿だったんですから」
強引な話に運びに付き合ったのは、アヴィへの配慮である。流石に内政どうこうは、しっかりと勉強させないとわからないだろう。
「ふーん……」
ちろり、とアヴィを見る。ぎく、とアヴィが身を震わせてあいまいに笑う。
「一度は解かれたんですけどね」
「ん? 解かれた?」
「ええ、”異域”で見せましたけど、一瞬で。あれほど鮮やかに振られた記憶は、ついぞありませんね」
「? でも、解かれてないよね?」
「これは今朝方、目覚めたらこうなってたんですよ」
もう一度溜息をついて、混沌領域での出来事を手短に聞かせると、ありえないとラースが絶句する。
「イーリスの女性形ってすっごい美女だよ!? なんでそんなこと出来るの、もったいない!?」
「そこかよ!? 術が解けたほうじゃないのかよ!?」
「そこもすごいけどさ、女性形見せたってことはそういう意図があるんだよ、据え膳だよ!?」
「男が裸の美女になったからってその気になるかーっ! つかさっきしたよな、その話終わったよな!?」
イーリスは机に肘を突きつつ、額を押さえた。なんかもう、溜息のつきすぎである。幸せが遠くに逃げ去っていて、取り戻せないのではなかろうかと思ってしまうほどの、長い溜息だ。しかし、傍から見ると彼の言うとおりけっこうな美女なので、なかなか様になっている。
「アヴィ。玩具にされてますよ?」
ぼそり、とその頭を小突きながら、イーリスが二人に割り込む。絶妙な間がそこで生まれて、アヴィは己の声を呑み、ラースは苦笑した。
「もう、ばらさないで?」
「……え?」
つまんない、とラースは口を尖らせた。それでも、ぽかんとしたアヴィの反応は気に入ったのか、その口にぐいぐいと菓子を一つ、押し付ける。ほとんど反射的にアヴィはそれを食べ、二人は顔を見合わせた。
その瞬間、アヴィの脳裏を走る記憶――そう、混沌領域での、イーリスのあの態度。
「……類友かよ!?」
「貴方も友人ですよ?」
「あはは、種族特性かもよ、アヴィくん?」
無意識に距離を取ろうとしたアヴィを二人は両側から捕らえ、身動きを許さない。
類友。類は友を呼ぶ。ああ、確かにこの二人はそっくりだ、友であることは紛うこともないだろう。だが、とアヴィは二人をじっと見て。
「俺は違う……!」
「えー、友達になってくれないの?」
わざとらしく悲しげな顔を作るラースには、流石にアヴィとは言え絆されない。しかし、それでイーリスが終わらせるはずもなく。
「いえいえ、友人ですよ。楽しくからかわれてくれるじゃないですか。ああ、アヴィ。類友が嫌なら同類項でもいいですよ?」
「あぁ、そのほうがいいかも。種族特性だもんねぇ。ほらほら、括弧でくくれば一緒だよ?」
「意味が違うーっ」
合ってますよ、とイーリスは苦笑する。数学的に見れば違うかもしれないが、言葉の意味としては『同じ類のもの、仲間』となるので、間違いではない。けれどまあ、この手のネタでからかうのは控えようかと、こっそり反省したイーリスである。ラースは遠慮なくアヴィの頭を抱え込み、ぐしゃぐしゃと撫でて楽しんでいる。流石にちょっと控えさせようかと思ったが、逆にアヴィから目配せが来て――どうやら、これでいい、らしい。
子供を見守る親の目になっているイーリスが微苦笑し、…その視界の奥で何かを見る。
「って、ラース後ろっ、棚っ!」
じゃれている二人の後ろでぐらりと揺れる棚、それが視界の奥に見えた何かだと気づき、イーリスが反射的に制止する。結果、二人にぶつかる事態は避けられたのだが。
「おわっ!?」
「えー? なんで、なんでー?」
アヴィはそれが静止していることに驚き、ラースはそもそも、それが倒れてきたことに驚いた。そんな感じだろうなとイーリスは見当をつける。そして問題は、ととりあえず止めただけのそれである。
「これ。どうしましょう?」
つい先ほどと同じ台詞を吐いてみた。ちょっとだけ、ニュアンスを変えて。
何しろやったのは、中身が飛び散らないように静止したのみ。先ほどのような標的固定ですらなくて、本当に止めただけなのだ。術の形すら取れていないので、ラースに譲渡することも出来そうにない。
「戻せない?」
「無理ですよ、どこにあったら知らないんですから」
「うー……」
しばらく見ていたラースは、泣きそうな顔をイーリスに向けた。
「……ねぇ、イーリスくん」
「はいはい、手伝いますよ。”自動書記”でいいです?」
「うん! 紙、用意するから待ってて」
ラースが部屋を出た後、イーリスがアヴィの頭を撫でた。
「ごめんなさい、ちょっと手伝いますね」
「それは、いいけど。オレ、どうしよ。やることないなら散歩してきていい?」
「一人は駄目ですよ。ラースに案内させましょうか?」
聞けば、イーリスの言う”自動書記”、これは一人で稼動させる術式であり、ラースの手も余る。ここでお茶をしてもいいけれど、稼働中は術式内に篭ることになるので、彼らの相手は出来ない。なのでどうせ二人でいるなら、散歩しつつ、いろいろ教えてもらえばいい、ということらしい。
程なく戻ったラースも同意し、二人はイーリスを置いて部屋を出た。
※ ※ ※
「へぇ、妖化植物ってそうやって作るんだ?」
「うん、僕たちはそう。でもねぇ、けっこう自力で妖化しちゃう植物ってのもあるよ。例えば、これ。鈴蘭なんだけどねぇ」
「…二種類?」
群生した白い鈴蘭の一角に、それはあった。黒い花が鈴生りに咲いていて、その葉も茎も、暗緑色だ。見た目は悪くないが、異彩を放っている。
「普通の鈴蘭も毒持ちだけど、妖化鈴蘭は、黒いから覚えておいて。出来れば駆除したほうがいいよ。これね、暗くなると毒素を吐くの。日が当たってる間は平気なんだけどね」
どんな毒かと聞けば、人間程度の生き物は一呼吸で死ぬレベルらしい。妖魔は死んだりしないものの、疼くような痛みに始まり、全身から魔素の制御が失われる。呼吸による魔素の吸収も出来なくなるため身体維持が困難になり、活動不能に陥るのだとか。
なかなか、恐ろしい毒である。
「ちなみに体験者はイーリスくんだよ」
「はい?」
「一晩中苦しんで、日に当たったらしばらくして落ち着いたんだって。見つけたら全部駆除するからって、一株だけ持ってきてくれたんだよ」
「そこまでするか!?」
「妖化のきっかけが、”彷徨える泉”だからねぇ。あ、”彷徨える泉”って、…わからないか、その様子だと」
頷くアヴィをベンチに誘い、ラースは腰を下ろさせた。
「んっとねぇ。君がイーリス君と出会ったのは、”異域”って呼ばれてる異空間なんだ。イーリス君曰く、「魔素で満たされた世界で、魔素以外不要な世界」なんだってさ」
こんな感じだよ、と目の前に丸く黒い大きな珠を浮き上がらせて、アヴィに示す。何やら表面がぶよぶよしていて、気持ち悪いながらもつい、アヴィは指を伸ばし。
「おわっ!? 破れたぞ、おい!?」
「うん。それ、見てて」
まるで水が噴出したかのように黒いそれが勢いよく吐き出され、地面へ落ちる。穴がすぐに修復されたせいか、ほんの小さな染みのようなものに留まった。
「こんな感じで、魔素が溢れると”彷徨える泉”になるんだってさ。僕たちからすると、ただの魔素溜なんだけどね」
「魔素溜まり?」
「うん、魔素が一時的に濃くなっただけのものだよ。”彷徨える泉”って、人間が言い出したらしいから」
「これもかよ」
あはは、とラースは笑う。何しろ妖魔という同族は、目の前のことをそのまま受け入れることに長けている。さほどのこだわりもないので、そういうものかと納得してしまえるのである。もちろん、”異域”からの魔素に限らないので、自然に発生することもあるらしい。
「区別はつかないけどねー」
人間たちの間では、「珍しい植物を生み出す特殊な泉」という扱いらしい。実際にはそんな優しいものではないのだが、これほどの毒を生み出す植物は珍しく、専門の狩人がいる。そしてその何人かは、ラースの知人らしい。
「フェネクスくんだけだと、流石にねー」
何しろ世界は広い、そして”彷徨える泉”は各地に湧いては消える。彼一人では網羅も出来ないから。ということらしい。
「あ、そうだ。妖化ってねえ、植物だけじゃないんだよ?」
にこっとアヴィに笑いかけて、ラースは指笛を鳴らした。長く、長く、短く、長く――吹き終わると同時に、ガサリと頭上の枝がしなる。それに釣られて振り仰げば、…巨大な黒猫が、枝の上に足を揃えて座っていた。
「いやいやいや無理だから無理、どう見てもありえねぇからそれ!?」
巨大、である。たぶん、アヴィより背が高いだろう。体格はそれに見合ったものだが、足元にある枝がありえない。というより、本物の猫でなければ折れるのではないかと思えるくらいに細い枝先に、お座りしているのだ。どうみても、尻は枝に乗っていないのに、どうやって座っているのだろう。
「あはは、あれが妖化猫だよ。”彷徨える泉”のせいで変化したけど、この子はわりと大人し目の変化だったから、イーリスくんが連れてきたんだよねぇ」
先の鈴蘭に引き続き、これも招待主はイーリスらしい。いったい彼は、何をしていたのだろうか。いや、何を考えているのだろうか。
ぼよん、と音を立てて猫が飛び降りる。比喩…ではなく、枝がしなったときに聞こえたのが、そんな音だった。ふんふんと匂いを嗅ぎ、身体を擦り付けるその仕草は、どうみてもただの巨大な猫である。その人懐っこさにアヴィは一瞬で落とされて、もふっ、と巨大猫に抱きついた。猫は嫌がる様子もなく、されるがままになっている。
「これが凶暴なほうに妖化することもあってねぇ。危ないから、”彷徨える泉”を封じるのが、魔王の義務だよ。ま、ほとんどイーリスくんの専売だけどねぇ」
数秒を於いて、アヴィが弾かれたように顔を上げた。
”彷徨える泉”はどこに出来るかわからない。そして、いつまで残るかも分からない。故に探し出すこと自体は義務ではなく、行き会ったら封じること。その程度の義務らしいが、絶対でもあるらしい。 現状はさきほどのような症状が起きることから、単独での国外探索が禁じられており、館に引き篭もってしまっているのだとか。
「引き篭もってる癖に遊びに来てくれないし、お土産もないし。腐ってるくらいなら国なんか捨てちゃっていいのにさ」
「おいこら魔王。まずいだろそれ」
「えー。だってこの国、彼がいなくても回るし。外交官扱いなのは、世界中を巡り歩くときに面倒が起きないようにってだけだし。あ、ちなみに戸籍とかないから、一般人は出入りも自由だよ?」
何げに酷いことを言っているが、実際のところ、彼は国外を歩き回るのが仕事だったので、内政には何も影響が無いのは事実である。ある程度、外交側には影響があったようだが。
「へ? 戸籍がない?」
「うん、ないよ。僕ら魔王は、一応それっぽいものがあるけどね。初代ちゃんが作ったんだよ。全部違ってて、本人以外には触れないんだ」
ほら、と襟につけていた徽章を示す。促されるままにそれに指を触れると、確かにそこにあるのにすり抜けてしまう。触っている感覚もなく、奇妙な感じだ。
本人の妖力と連動していて、全て違う模様となる。妖皇宮には徽章鑑があり、持ち主の特定が可能ということだった。各国から問い合わせがあればそれを答えるが、基本は新しい魔王が誕生した際に写しを送ることになっている。そんなことを話したあと、そうそうとラースは笑った。
「同意なしに触れると酷い目に遭うから」
「は? いやちょ、…先に言えよそれ!?」
「大丈夫だよー? 怪しい人の見分けにも使えるから、覚えておきなよ」
ラースはさらりと流したが、今まさに触れているアヴィにして見れば……である。
その後は二人で植物園を回り、各種の薬草や妖化薬草などの話に終始した。常時妖化しているものや、花が咲く時期だけとか日光があたらないときだけのような、条件付で妖化する草もある。恐らくそれは、通常の交配で生まれた二世代目、三世代目といったものなのだろう。驚いたのは、その殆どをイーリスが採取してきたという話だった。
植物の妖化は数日程度で成り、世代交代してもその特徴が引き継がれるから見つけやすいだろうねとラースは笑ったが、それにしても、十や二十では効かないそれらを律儀に持ち帰ってくるというのだから、大したものである。ちなみに毒性のあるなしは、やはりイーリス自身が体験しているそうだ。後でいくつか聞いてみようと、アヴィはこっそり胸のうちに記憶した。
妖化猫のような動物は、同族と番えば子孫が残るはずだが、今のところ、それは見つかっていない。植物と違って移動出来るし、妖化までに死ぬことのほうが多いせいだろうと、ラースは予想している。
そんなことを話しているうちに、猫はいなくなっていた。
「たぶん、食事じゃないかな。僕らと違って、普通の生き物みたいなとこ、あるし」
何を食べているのかと興味本位で聞いてみれば、猫を気に入っている住民たちがなんやかや、獲物を用意していくらしい。もちろん、その住民とは皆、妖魔だそうだ。ただ時々、気が向くと自分で狩りに出て、けっこうな大物を取ってくるのだとか。骨やらの残骸は、全て粉にして肥料扱いにする辺りは、慣れた様子である。
「見せられるところは見せたかな。そろそろイーリス君の作業も終わってるだろうし、戻ろうか」
一応研究室があるのだが、そこはフェネクスにも見せたことが無いので、秘密である。
妖魔ってのは何でも出来るようで、けっこうできなかったりします。どちらかというと特化型が多いイメージですかね?




