第98話:日誌のペンの色
放課後。
冬の終わりの少し寂しい夕暮れの光が、誰もいなくなった前方の机を静かに照らし、長い影を後ろへと伸ばしていた。
今日のクラスの日直である宮本蓮と白石真白の二人は、教区の前に並んで、今日一日の出来事を記録する日誌を書いていた。
教室内はいつの間にか、蓮と真白の二人きりになっていた。開け放たれた窓からは冷たい冬の風が吹き込んでおり、夕暮れのオレンジ色の光が、教卓の上の三色ボールペンをキラキラと輝かせている。
蓮が教卓の上で日誌の文章を一生懸命に考えていると、隣でペンのボタンをカチカチと鳴らしていた真白の手が不意に止まった。
振り返ると、真白が三色ボールペンを自分の背中の後ろへと隠し、じっと蓮のことを見つめていた。その瞳には、早くも新しい悪戯を思いついたとき特有の、あの怪しい光が灯っている。
「ねえ、宮本くん。日直最後の『勝負』、しない?」
(やっぱり、このまま無事に終わらせてくれるわけがないよな……)
蓮はペンを置き、小さく溜め息を吐きながらも、どこか予想通りでホッとしている自分に苦笑した。
「何の勝負だよ。僕は早くこれを終わらせて帰りたいんだ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。今から私がこの日誌の『天気の欄』の『晴れ』の文字に、何色のインクで丸をつけるか、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の帰り道、私が購買のいちごオレを本当に、今度こそルール詐欺なしで奢ってあげる。でも、もし外れたら……明日の朝の登校中、私がもらったあのチャコールグレーのマフラーを、宮本くんが自分の手で私の首に優しく巻き直してね。はい、どっち?」
真白は三色ボールペンを後ろに隠したまま、ふふんとあからさまに不敵な笑みを浮かべた。
(またあの罰ゲームか……! これは絶対に阻止しないと、本当に心臓が持たない!)
蓮は俄然やる気になり、首元のチャコールグレーの手編みのマフラーをきゅっと締め直して、日誌のルールを思い出した。
(日誌は学校の公式な書類だ。普通の常識からして、丸をつける色は『黒』か、あるいは目立たせるための『赤』の二択に決まってる。真白さんは僕を引っ掛けようと、あえて『赤』にしてくるか、あるいは普通のストレートな選択肢として『黒』を選ぶか……。いや、待てよ? 三色ボールペンの色は黒、赤、青だ。真白さんのこれまでのずる賢いパターンを思い出すんだ。あいつは僕が黒か赤で迷うのを見越して、あえて『青』を選ぶっていう、とんでもない規格外の選択をしてくるかもしれない!)
真白のこれまでの行動パターンを総動員し、蓮の脳内コンピューターがフル回転を始める。彼女の白い頬が、夕暮れのオレンジ色の光を浴びて、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。
(だったら、あいつの予想のさらに上をいってやる!)
蓮は意気込んで、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……青だろ。真白さん、日誌のルールを無視して、僕が黒か赤で迷うのを引っ掛けるために、あえて青色のインクで丸をつけるつもりなんだろ。そのずる賢い顔を見れば全部分かるぞ!」
蓮がニヤリと勝利を確信して言い放つと、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
しかし、彼女はすぐにクスッと楽しそうに笑い、後ろに隠していた右手を取り出すと、カチッと音を立てて『青』のボタンを押し、綺麗に青い丸をつけた。
「はい、大正解。普通の青色でしたー! 宮本くん、私のこと本当によく見てるね」
「よし! 勝った!」
蓮は心の中で大歓声をあげた。ついに、あのからかい上手な真白に、完全な勝利を収めたのだ。
「うん、宮本くんの勝ち。……でもね、宮本くん。なんで私が青色にしたか、分かる?」
真白はボールペンを教卓の上に置くと、窓の外の夜空を指差した。
「え? 僕を引っ掛けるためだろ?」
「違うよ。今日の放課後の空、雲が一つもなくて、すっごく青くて綺麗だったから。だから、今日の天気の思い出として、青色にしたの。……ねえ、宮本くん。二人きりの日直なんだから、こういう特別な色にするのも、悪くないでしょ?」
真白はマフラーに顔を深くうずめ、蓮の顔を上目遣いにじっと見つめてきた。その耳たぶは、夕日のオレンジ色を吸い込んで、これ以上ないほどに真っ赤に染まっていた。
「っ……!?!?!?」
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、胸の奥がドクンと波打つ。
勝負には勝ったはずなのに、彼女のストレートな言葉の破壊力の前に、蓮は完全に言い返す言葉を失ってしまった。結局、勝っても負けても、彼は彼女の言葉一つで簡単に照らされてしまうのだ。
放課後の誰もいない教室。
勝負に勝って嬉しいはずなのに、二人の間にある静かな空間は、冬の寒さを完全に忘れさせてしまうほどに、優しく、そしてどこまでも温かい熱を帯びていくのだった。
「よし、日誌も書けたし、帰ろう」
「うん、帰ろっか、宮本くん」
真白は日誌をパタンと閉じると、蓮の少し斜め前を、トコトコと楽しそうな足取りで歩き出すのだった。




