第96話:傘の水滴
冬の終わりの放課後は、昼過ぎから降り始めた冷たい雨によって、一段と底冷えが厳しくなっていた。
すべての授業が終わり、終礼の挨拶が終わると同時に、教室内は湿った空気と解放感に包まれた。生徒たちがそれぞれの傘を手に持って足早に廊下へと飛び出していく中、宮本蓮は一番後ろの廊下側の席で、カバンのジッパーを閉めて立ち上がった。
ふと隣の席を見ると、白石真白も自分のカバンを肩にかけ、机の上に置いていたネイビーのビニール傘を手の中でくるくると回していた。お団子頭を少し揺らしながら、彼女はマフラーに顔を半分うずめ、ニヤニヤとしたいつもの意地悪な笑みを蓮に向けてきた。
「宮本くん、帰ろ? 外、結構本降りだよ。早く行かないと足元ぐっしょりになっちゃうよ」
「分かってるよ。真白さんこそ、また傘を忘れて立ち往生しないように、今日はちゃんと持ってきて良かったな」
蓮が2週間前の雨の日の相合い傘の件を少し意地悪に引き合いに出すと、真白は動じるどころか、ふふんと鼻を鳴らした。
「忘れてないよー。今日は完璧だもん。……ねえ、宮本くん。せっかくの雨だし、昇降口で『勝負』しない?」
(また始まった……。本当に雨の日だろうが何だろうが勝負なんだな、あいつは)
蓮は苦笑いしながらも、いつもの調子にどこか安心している自分に気づき、並んで階段を下りながら身構えた。
「何の勝負だよ。傘を使った勝負か?」
「そう! 今から昇降口の大きな軒下に出て、傘を開くでしょ? その前に、私がこの傘をパタパタって外に向けて振ったとき、水滴が『右』と『左』のどっちの方向に多く飛ぶか、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の帰り道、駅前の自販機で温かいココアを本当に、今度こそルール詐欺なしで奢ってあげる。でも、もし外れたら……明日の朝の登校中、私がもらったあのチャコールグレーのマフラーを、宮本くんが私の首に優しく巻き直してね。はい、どっち?」
真白は昇降口のガラス扉の前で立ち止まり、ニヤニヤと楽しそうに蓮の顔を覗き込んできた。
(僕が真白さんにマフラーを巻き直す……!?)
蓮の心臓が、早くもドタバタと大きな音を立てて暴れ始めた。恋人同士という明確な関係にはあえて踏み出さない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、真白はいつもこうして、蓮の防衛線を軽々と飛び越えるような恥ずかしい罰ゲームを放り込んでくる。
(絶対に負けられない……! これは物理的な風の向きを計算すれば勝てるはずだ!)
蓮はガラス扉の向こうの雨の様子をじっくりと観察した。風は建物の隙間から、ゆるやかに左から右へと吹き抜けている。
(風が左から右に吹いてるってことは、真白さんが傘をパタパタと振ったとき、水滴は風下にあたる『右側』に多く流されるはずだ。これなら確率とかじゃなく、完全な科学的根拠がある!)
蓮は自信を込めて、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……右側だろ。風が左から右に吹いてるんだから、水滴は物理的に右に多く飛ぶに決まってるじゃんか。今度こそ僕の勝ちだな」
少し勝ち誇ったように笑ってみせる。
すると、真白は「ふーん、右側ね」とクスッと含み笑いを漏らした。そして、ガラス扉を開けて大きな軒下へと一歩足を踏み出した。
真白は傘を左右にパタパタと振る動作を……しなかった。
彼女は自分の手元で傘をパッと半開きにすると、そのままフィギュアスケートの選手のように、傘の柄を両手で持ってぐるぐると激しく回転させ始めたのだ。
遠心力によって、傘に溜まっていた大量の水滴が、右だけでなく左、前、後ろ、すべての方向に向かって豪快に弾き飛ばされた。
「わあ、冷たっ! おい、真白さん!」
蓮は慌てて後ろに飛び退いたが、時すでに遅く、彼の制服のブレザーの袖にいくつかの水滴がパラパラと吹き付けていた。
「ザ・ン・ネ・ン。正解は『全部の方向』でしたー! 宮本くん、また風の向きなんて難しく考えすぎてハズレ!」
真白は傘を回転させるのを止めると、自分のチェック柄のマフラーに顔を深くうずめ、カバンを胸に抱いたまま、今日一番の本当に楽しそうな満面の笑顔を咲かせた。その頬は、悪戯が成功したせいで、ほんのりときれいな桜色に染まっている。
「ずるいぞ! 右か左かって最初に言ってたじゃんか! 全方位に飛ばすなんて完全に反則だろ!」
「反則じゃないよー。私は『どっちの方向に多く飛ぶか』って聞いただけで、右か左かの二択だなんて一言も言ってないもん。全部の方向に同じくらい多く飛びました。というわけで、明日の朝、マフラー巻き直してね?」
真白はニヤニヤと嬉しそうに蓮のことを見つめると、ネイビーの傘を大きく広げて、雨の坂道をトコトコと楽しそうな足取りで歩き出した。
結局、雨の日の短い戦いでも、蓮は彼女の手のひらの上で完全に転がされただけだった。
付き合うとか、特別な関係になるとか、そんなことよりも、この夕暮れの昇降口で、毎日くだらない勝負を仕掛けられ、それに本気で悔しがって言い返す。そんな二人の、いつも通りの「照れたら負け」のからかい合いの日常こそが、何よりも温かい熱を帯びていくのだった。
「見てろよ、明日の朝の勝負こそ、僕が絶対に勝つからな」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
真白は雨の音に負けないくらいの、満足そうな最高の笑顔で、蓮のことを見つめ返すのだった。




