第94話:自販機のボタン
すべての授業が終わり、終礼の挨拶が終わると同時に、教室内は一気に解放感に包まれた。
宮本蓮は、昨日の勝負の約束通り、購買の飲料用自販機の前で真白にいちごオレを奢るため、カバンを肩にかけて1階の廊下を歩いていた。
放課後の購買部は、昼間の大混雑が嘘のようにひっそりとしていた。
お弁当やパンの棚はすでに空っぽで、奥にある大きな飲料用自販機の赤い明かりだけが、薄暗い空間にぽつんと灯っている。真白は自販機のボタンの前に立って、嬉しそうに振り返った。
「宮本くん、約束のいちごオレ、ありがとね。……じゃあさ、ボタンを押す前にもう一回だけ『おまけの勝負』、しない?」
(また始まった……。本当に最後の最後まで勝負なんだな、あいつは)
蓮はカバンを肩にかけ直しながら、苦笑いして身構えた。
「何の勝負だよ。早くボタン押して帰ろうぜ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。私がこれから、右手と左手、どっちの指でこのいちごオレのボタンを押すか当ててみて? もし宮本くんの予想が当たったら、今日のいちごオレ代、私が自分で払ってあげる。でも、もし外れたら……明日の朝も私のカバンを持って登校すること。はい、どっち?」
真白はボタンの前に立ち、ニヤニヤと楽しそうに蓮の顔を覗き込んできた。
(右手か、左手か……)
蓮は真白の現在の姿勢をじっくりと観察した。彼女は左側にスクールバッグを少し重そうに持っている。つまり、左手はカバンのストラップを握って塞がっている状態だ。普通に考えれば、空いている右手を使ってボタンを押すのが最も自然である。
「……右手だろ。真白さん、左手にカバン持ってるんだから、右手しか空いてないじゃんか」
蓮が自信満々に答えると、真白はふふっと不敵な笑みを浮かべた。
彼女はあえて自分のカバンを床にストンと置き、完全に自由になった左手を使って、人差し指でいちごオレのボタンをカチッと押した。ガコン、と重い音を立ててパックが落ちてくる。
「ハズレ。いちごオレは左手で押したほうが、なんとなく美味しい気がするの。宮本くん、私のカバンを置くっていう選択肢を忘れてたね」
「なっ……! カバンを置くのは反則だろ! 完全に右手で押す流れだったじゃんか!」
蓮が言い返すと、真白は冷たいいちごオレのパックを両手で愛おしそうに包み、ストローをちゅーっと一口飲んでふにゃりと目を細めた。その笑顔を見て、蓮は何も言えなくなり、自分の緑茶のパックを一口すするのだった。
「というわけで、明日の朝も私のカバン持ちね。楽しみにしてるよ、宮本くん」
真白は嬉しそうにカバンを持ち直すと、トコトコと楽しそうな足取りで昇降口へと歩き出した。
結局、放課後の短い戦いでも、蓮は彼女の手のひらの上で転がされただけだった。
付き合うとか、特別な関係になるとか、そんなことよりも、この夕暮れの自販機前で、毎日くだらない勝負を仕掛けられ、それに本気で悔しがって言い返す。そんな二人の日常こそが、何よりも温かい熱を帯びていくのだった。
「明日の朝の勝負こそ、僕が絶対に勝つからな」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
真白はマフラーの奥から、満足そうな最高の笑顔で、蓮のことを見つめ返すのだった。




