第92話:上履きの左右
冬の澄み切った朝。
校庭の隅に残った雪がサラサラと音を立てて風に舞う中、宮本蓮は首元をすっぽりと包み込むチャコールグレーの手編みのマフラーの感触を確かめながら、昇降口の冷たいコンクリートの床の上に立っていた。
下駄箱から取り出した上履きを前にして、蓮が靴紐を解いていると、すぐ隣からトコトコと軽快な足音が近づいてきた。見ると、自分のチェック柄のマフラーに顔を半分うずめた真白が、カバンを両手で持ちながら並んで立っていた。彼女の瞳は、蓮の首元にあるマフラーを捉えた瞬間、パッと嬉しそうに輝いた。
「おはよ、宮本くん! 今日もちゃんとマフラー巻いてきてくれたんだね。すっごく似合ってるよ」
「お、おはよ、真白さん。……もらったものはちゃんと使うよ。本当に温かいし。それより、早く履き替えないと遅れるぞ」
蓮はあえて冷静さを装い、ぶっきらぼうなトーンを意識して答えた。ここでデレデレした態度を見せたら、それこそ格好の餌食になってしまう。
すると、真白は上履きを地面に並べながら、マフラーを少し下げてニヤリと笑った。
「ふふ、素直でよろしい。……じゃあさ、宮本くん。朝一番の、下駄箱勝負、しない?」
(また始まった……。本当に朝から元気だな、あいつは)
蓮は苦笑いしながらも、いつもの日常のペースに戻ってきたことに、どこか安心している自分に気づき、歩きながら身構えた。
「何の勝負だよ。早く履き替えて階段上ろうぜ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。私が今から、右足と左足のどっちの足から先に上履きを履くか、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の放課後、私がまた購買のいちごオレを奢ってあげる。でも、もし外れたら……今日の放課後の日直の仕事、私の分の黒板消しも宮本くんがやってね。はい、どっち?」
真白は下駄箱の前で、上履きに足を合わせるポーズをしながら蓮の顔を覗き込んできた。
(右足か、左足か……)
蓮は頭の中で必死にシミュレーションを行った。真白は右利きなのを思い出し、人間は利き足から動かすことが多いという知識から『右足』と答えるのが最も論理的だと判断した。これなら確率は高いはずだ。
「……右足だろ。真白さん、右利きだし、普通は利き足から動かすもんだからな」
蓮が自信満々に答えると、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかし、彼女はすぐにクスッと含み笑いを漏らし、わざと蓮の目の前で左足を大きく上げ、バランスを取りながら左足から器用に履き替えてみせる。
「ザンネン。正解は左足でしたー! 宮本くん、また理屈っぽく考えすぎてハズレ!」
「なっ……! お前、それ僕の予想を聞いてからわざと左から履いただろ! ズルだろ!」
「ズルくないよー。私は宮本くんに見られてるときは、いつも左から履くんだよ? 引っかかる宮本くんが可愛すぎるのが悪いの」
真白はクスッと笑って、蓮を追い越して階段をトコトコと上っていった。
「おい、真白さん! 本当に今思いついたマイルールだろ!」
蓮が顔を赤くして階段を駆け上がると、真白は教室の前の廊下で立ち止まり、振り返って勝ち誇ったような最高の笑顔を浮かべた。
結局、朝一番の短い戦いでも、蓮は彼女の手のひらの上で転がされただけだった。
付き合うとか、特別な関係になるとか、そんなことよりも、この一番後ろの席へと向かう階段で、毎日くだらない勝負を仕掛けられ、それに本気で悔しがって言い返す。そんな二人の日常こそが、何よりも特別で、大切にしたい時間なのだった。
「見てろよ、次のお昼休みの勝負こそ、僕が絶対に勝つからな」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
真白はマフラーの奥から、満足そうな最高の笑顔で、蓮のことを見つめ返すのだった。




