第89話:放課後の居残りと二つの黒板消し
すべての授業が終わり、終礼の挨拶が終わると同時に、教室内は一気に解放感に包まれた。部活動へ向かう生徒たちが慌ただしそうにカバンを持って飛び出していき、残った生徒たちも雑談を交わしながら次々と帰りの支度を始めていく。
宮本蓮は、自分のカバンにノートを詰め込みながら、今日の朝の勝負を思い出して小さく溜め息を吐いた。
朝の登校中に真白と交わした勝負に負けた結果、今日の放課後は、日直でもないのに真白の分の黒板消しまで代わりに引き受けるという罰ゲームが待っているのだ。
ガタガタと椅子を引く音がして、隣の席の真白が立ち上がった。
彼女は自分のカバンを机の上に置くと、首元のチェック柄のマフラーを少しだけ整え、蓮の方を振り返って、にこりと微笑んだ。
「宮本くん、約束の黒板消し、よろしくね? 私はここで日誌を書きながら、宮本くんの頑張る姿を応援してあげるから」
「……応援するくらいなら、片方くらい消してくれたっていいだろ。だいたい、朝の勝負はただのタイミングの悪さで負けただけなんだからな」
「あはは、勝負は勝負だよ。ほらほら、早く始めないと鍵閉めの人に来られちゃうよ」
真白はトコトコと教頭の方へと歩いていき、教卓の上に置かれていた二つの黒板消しのうち、一つを蓮に手渡した。
蓮は観念して黒板消しを受け取り、教壇の上へと上がった。
教室内はいつの間にか、蓮と真白の二人きりになっていた。開け放たれた窓からは冷たい冬の風が吹き込んでおり、夕暮れのオレンジ色の光が、黒板から舞い上がる細かなチョークの白い粉をキラキラと輝かせている。
蓮が右手と左手にそれぞれ黒板消しを持ち、二刀流のようにしてさらさらと今日の板書を消し始めていると、教卓で日誌を書いていたはずの真白が、ペンを置く小さな音が響いた。
振り返ると、真白が教卓に両肘を突き、手のひらで顎を支えながら、じっと蓮のことを見つめていた。その瞳には、早くも新しい悪戯を思いついたとき特有の、あの怪しい光が灯っている。
「ねえ、宮本くん。黒板消しを頑張る宮本くんに、本日最後の『おまけの勝負』を仕掛けちゃおうかな」
(やっぱり、このまま無事に終わらせてくれるわけがないよな……)
蓮は黒板を消す手を止め、小さく溜め息を吐きながらも、どこか予想通りでホッとしている自分に苦笑した。
「何の勝負だよ。僕は早くこれを終わらせて帰りたいんだ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。今から私が、この教卓の下に手を隠して、左右どちらの手で『チョーク』を持っているかを宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の帰り道、私が購買のいちごオレを本当に、今度こそルール詐欺なしで奢ってあげる。でも、もし外れたら……明日も私のカバンを持って登校すること。はい、どっち?」
真白は両手を教卓の下へと隠し、ふふんとあからさまに不敵な笑みを浮かべた。
(明日の朝もカバン持ち……! これは絶対に阻止しないと、木村たちにまた何を言われるか分かったもんじゃない!)
蓮は俄然やる気になり、首元のチャコールグレーの手編みのマフラーをきゅっと締め直して、真白の表情をじっと凝視した。
(待てよ。チョークを隠す勝負。真白さんは右利きだから、普通に考えれば右手に持っている可能性が高い。でも、お昼休みや授業中の勝負を思い出すと、あいつは僕が『右』って答えるのを見越して、あえて『左』にしてくるはず。……いや、さらにその裏をかいて、最初から『両手』に何も持っていないっていう引っ掛けか!? 昨日の海でのシーグラスの勝負だって、あいつは僕の手のひらを握ってくるっていう、とんでもない反則技を使ってきたんだからな!)
真白のこれまでのずる賢いパターンを思い出し、蓮の脳内コンピューターがフル回転を始める。あいつは僕が勝手に深読みして自爆するのを待っているのだ。
(だったら、あいつの予想のさらに上をいってやる!)
蓮は意気込んで、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……どっちの手にも持ってないだろ。真白さん、後ろや下に隠すフリをして、最初からチョークのケースに戻してるんだ。そのずる賢い顔を見れば全部分かるぞ!」
蓮がニヤリと勝利を確信して言い放つと、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、すぐにクスッと楽しそうに笑った。
物理的な物の有無。これなら、後からルールを誤魔化すことはできない。
真白は隠していた両手を、教卓の上へとパッと差し出してみせた。
彼女の『左手』には、しっかりと一本の白いチョークが握られていた。
「ザ・ン・ネ・ン。普通に左手に持ってましたー! 宮本くん、また深読みしすぎでハズレ!」
「あ……! くそ、普通に持ってたのかよ!」
蓮はガックリと肩を落とした。あいつの裏の裏をかこうとした結果、ただのストレートな選択肢に自滅してしまったのだ。本当に真白の心理戦には敵わない。
「あはは! 宮本くんって、勝負になると急に難しく考えちゃうから、簡単に騙せちゃう。新学期になっても、私の手のひらの上で転がされっぱなしだね。というわけで、明日の朝もカバン持ち、よろしくね?」
真白は嬉しそうにチョークをケースに戻すと、日誌をパタンと閉じた。
「うるさいな……。明日の朝の勝負こそ、僕が絶対に勝つからな。……あ、でも、勝負は僕の負けだから、明日の朝も約束通りカバンは持ってやるよ」
蓮が少し照れくさそうにそっぽを向いて、残りの黒板を勢いよく消しながら言うと、真白はカバンを持つ手を止めた。
彼女はゆっくりと蓮の方を振り返り、マフラーのない無防備な首元を少しだけすくめながら、夕暮れのオレンジ色の光の中で、本当に嬉しそうな、だけど少しだけ照れくさそうな不思議な笑顔を浮かべた。
「……うん。楽しみにしてるね、宮本くん」
その声は、いつものからかいのトーンではなく、どこか等身大の女の子の、ほんの少しの本音が混ざっているような、深い響きを持っていた。
(っ……!)
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、胸の奥がドクンと波打つ。恋人という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、彼女はいつも、蓮の心の最も柔らかいところに、すとんと足を踏み入れてくるのだ。
蓮は慌てて残りの黒板を消し終え、黒板消しを粉受けに戻したが、顔の赤みはちっとも引く気配がなかった。
放課後の誰もいない教室。
からかわれて悔しいはずなのに、二人の間にあるチョークの白い粉が舞う空間は、冬の寒さを完全に忘れさせてしまうほどに、優しく、そしてどこまでも温かい熱を帯びていくのだった。
「よし、仕事も終わったし、帰ろう」
「うん、帰ろっか、宮本くん」
真白は自分のカバンを肩にかけると、蓮の少し斜め前を、トコトコと楽しそうな足取りで歩き出すのだった。




