第85話:波打ち際の境界線
流木の上から立ち上がり、二人はさらに海の近く、波が白く泡立っては消えていく波打ち際へとトコトコと歩みを進めた。
近くで見る冬の終わりの海は、驚くほど透き通っていて、引き波のたびに濡れた砂が夕暮れ前の光を反射して鏡のように輝いている。ザザーン、と規則正しく響く重い波の音が、二人の足元をかすめるようにして通り過ぎていった。
「ねえ、宮本くん。せっかくここまで来たんだから、もっと海を近くで感じられる勝負、しよ?」
真白はつま先を波の限界ラインに合わせると、首元のチェック柄のマフラーを少しだけ下にずらして、ニヤリといつもの不敵な笑みを蓮に向けた。
「海を近くでって……まさか、この冷たい水の中に足を入れるとか言わないだろうな。いくら何でも風邪ひくぞ」
「入れないよー。靴が濡れたら冷たいもん。ルールは簡単、二人で並んで波打ち際に立つでしょ? それで、押し寄せてくる波を、どちらが『一歩も後ろに下がらずに、ギリギリでかわせるか』を競うの。波が来て、自分の靴が濡れちゃったら負け。でも、怖がって波が来るよりずっと前に後ろに下がっちゃっても負け。要するに、一番波の近くでギリギリまで踏みとどまれた方の勝ちね」
真白は自分のブーツの先で、湿った砂の上に一本の横線を引いた。
「波のギリギリを見極める勝負、か……」
蓮は首元のチャコールグレーの手編みのマフラーに顎をうずめ、腕を組んで考えた。
これは自然の波のリズムを相手にした、純粋な度胸と観察力の勝負だ。お昼休みのお弁当のときみたいに、真白が後から言葉の綾でルールを誤魔化す余地は少ない。波の大きさをじっくりと見極めれば、男子である自分のほうが一歩踏み込む度胸はあるはずだ。
「よし、乗った。これなら僕のほうが有利だ。僕が勝ったら、今日の帰りに駅前の自販機で温かいココアを本当に奢れよ。真白さんが勝ったらどうするんだ?」
「私が勝ったら……うーん、じゃあ、新学期が始まってからの1週間、毎朝の登校中に、宮本くんが私のカバンを代わりに持って歩くこと! はい、二人で一緒に入って、勝負スタート!」
真白はそう言うと、蓮のすぐ隣、肩が触れ合いそうな距離に並んで、引いた線の目の前に立った。
二人の目の前で、一度大きく波が引いていく。
海底の砂が波に洗われてサラサラと音を立て、海が大きく息を吸い込むようにして、次の波の力を蓄えているのが分かった。
(……来るぞ。次の波は、さっきのより少し大きそうだ)
蓮はグッと足に力を入れ、白いスニーカーの先を砂にめり込ませて身構えた。
ザザーン、と大きな音がして、白く泡立つ波が二人の足元に向かって勢いよく押し寄せてくる。
(ここだ……! この波は、あの小さな貝殻の手前あたりで止まるはず……!)
蓮の脳内コンピューターが、これまでの波のパターンから限界点を弾き出す。しかし、波は想像以上のスピードで砂の上を滑り込んできた。
(うわ、思ったより伸びてくる!?)
蓮は靴が濡れる恐怖に一瞬だけ負け、無意識に半歩後ろへと飛び退いてしまった。
その直後、波は蓮が最初に立っていた場所を数センチだけ掠め、白く泡立ったままスッと引いていった。
「あ……」
蓮が声を漏らし、慌てて自分の足元を見た。スニーカーは一切濡れていない。しかし、最初に決めた位置からは確実に下がってしまっていた。
勝負に負けたか、と思って蓮が隣を見ると、真白はなんと、蓮が最初に立っていたあの線の位置から、一歩も後ろに下がらずにそのまま立っていた。
彼女のブーツの先は、波が押し寄せた跡でほんのりと濡れた砂の、まさに極限のラインを保っていた。
「え……っ!? 真白さん、靴、濡れてないのか!?」
「濡れてないよー。ほら、セーフ」
真白はブーツのつま先を蓮に見せるようにして、少しだけ片足を上げてみせた。本当にあと数ミリで水が浸水するかという、信じられないほどの神がかり的な見極めだった。
「なっ……! お前、それ危ないだろ! あとちょっとで靴が完全に水没してただろ!」
「危なくないよ。私は波の大きさをちゃーんと見てたんだもん。……それにね、宮本くんが私の隣で、波が来るたびにすっごいハラハラして私のことばっかり見てるのが、影で丸見えだったよ?」
真白はクスッと笑って、蓮の顔を覗き込んできた。
(影……?)
蓮がハッとして足元を見ると、傾きかけた夕日のせいで、二人の長い影が砂浜の後ろへと伸びていた。蓮が波を見ながらも、隣の真白が濡れないか心配で、何度も彼女の横顔をチラチラと盗み見ていた様子が、影の動きで完全にバレていたのだ。
「……また負けたよ。本当に、真白さんの度胸はどうなってるんだよ」
蓮はがっくりと肩を落とした。あいつの度胸を読み違えただけでなく、自分の動揺や視線まで、影を使って完全にコントロールされてしまっていたのだ。本当に真白の心理戦と行動力には敵わない。
「あはは! 宮本くん、波が来たときに『うわっ』って可愛い声が出てたよ。というわけで、新学期の最初の1週間、私のカバン持ち、よろしくね?」
真白はカバンを両手で持ち直し、ニヤニヤと嬉しそうに蓮のことを見つめた。
「分かったよ。約束だから、ちゃんと持ってやるよ……」
蓮が顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて小さく呟くと、真白は自分のチェック柄のマフラーに顔を深くうずめ、本当に嬉しそうにくすくすと笑い声を響かせた。その耳たぶが、夕日のオレンジ色を吸い込んで、ほんのりときれいな桜色に染まっているのを、蓮は見逃さなかった。
恋人同士という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、二人は学校の外の広い海という舞台でも、いつもと変わらない「照れたら負け」のからかい合いを全力で楽しんでいた。
「見てろよ、次の勝負こそ、僕が絶対に勝つからな」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
真白は波の音に負けないくらいの、満足そうな最高の笑顔で、蓮のことを見つめ返すのだった。




