第84話:堤防の向こう側と二人の足跡
コンクリートの古い階段を一段ずつ上るたびに、潮の匂いが少しずつ濃くなっていく。
宮本蓮が最後のステップを踏みしめて堤防の上へと辿り着いた瞬間、視界が一気に開け、冬の終わりの柔らかな日差しを浴びてキラキラと輝く、一面の青い海が目の前に広がった。
遮るもののない広い空と、水平線まで続く穏やかな水面。
夏のような大混雑は微塵もなく、砂浜には人影もまばらで、ただ規則正しい波の音だけが周囲を心地よく包み込んでいる。吹き抜ける潮風はまだ冷たいけれど、どこか春の訪れを予感させるような、不思議な温かみが混ざり合っていた。
「わあ……! すごいよ、宮本くん! 見て見て!」
隣に並んだ真白は、カバンを片手に持ったまま、もう片方の手で海を指差して子供のように目を輝かせた。風が強く吹くたびに、彼女の結んだ髪とチェック柄のマフラーの端がさらさらと揺れる。
「本当に、誰もいない貸し切り状態だな。……でも、風が結構強いから、遮るものがないと余計に寒く感じるな」
蓮が首元のチャコールグレーの手編みのマフラーを少し引き上げながら言うと、真白はふっと蓮の方を振り返り、マフラーの奥からニヤリといつもの意地悪な笑みを覗かせた。
「寒いなら、もっとトコトコ歩いて体を動かさなきゃダメだよ。ほら、砂浜の方に下りてみよ?」
真白は堤防から砂浜へと続くスロープを軽やかな足取りで下りていき、水分を含んで少し固くなった砂の上に足を踏み入れた。蓮もその後を追うようにして、一歩ずつ砂を踏みしめて彼女の隣へと並んだ。
さらさらとした乾いた砂から、波打ち際に近い湿った砂へと変わる境界線。
二人が歩いた後ろには、蓮の大きなスニーカーの跡と、真白の小さなブーツの跡が、綺麗に2列に並んで刻まれていく。
真白は自分の足元と蓮の足元を交互に見比べると、急に足を止めて、蓮の前に回り込んだ。
「ねえ、宮本くん。海に来た記念に、砂浜ならではの『勝負』をしようよ」
(やっぱり、砂浜に下りても勝負なんだな……)
蓮は苦笑いしながらも、どこか予想通りでホッとしている自分に気づき、バックパックのストラップをぎゅっと握りしめて身構えた。
「何の勝負だよ。まさか、砂の上にどっちが大きく名前を書けるか、とか言わないだろうな」
「言わないよー、そんなの恥ずかしいもん。今日のルールはね、今からあそこの大きな流木があるところまで、二人で並んで歩くの。ただ普通に歩くんじゃなくて、私が宮本くんの『足跡』を綺麗に踏みながらついていくから、宮本くんは私に一度も後ろを振り返らずに、かつ、私の歩幅を狂わせるように歩いてみて。もし流木に着くまでの間に、宮本くんが私を一度でも振り返っちゃうか、私のブーツの足跡が宮本くんのスニーカーの跡からはみ出したら、宮本くんの負け。無事に流木まで、私が一度もはみ出さずに踏み続けられたら、私の勝ちね」
真白は数メートル先にある、波に洗われて白くなった一本の流木を指差した。
「僕の足跡を踏んで歩く……? ってことは、僕が急に大股で歩いたり、小刻みにステップを踏んだりして、真白さんの歩幅を狂わせれば僕の勝ちってことだろ?」
蓮が確認すると、真白は「そうだよ」とコクンと深く頷いた。
「よし、乗った。これなら僕が自由に歩き方を変えられるんだから、僕のほうが圧倒的に有利だ。僕が勝ったら、今日の帰りに駅前の自販機で冷たいココアを本当に奢れよ。真白さんが勝ったらどうするんだ?」
「私が勝ったら……今日の夜、冬休みの思い出の写真として、さっき駅前で撮った宮本くんの拗ねてる写真を、クラスのグループラインに貼っちゃおうかな」
「それは絶対にやめろ! 完全に脅迫じゃないか!」
「あはは、じゃあ嫌なら勝てばいいだけだよ。はい、勝負スタート!」
真白はそう言うと、すっと蓮の真後ろの位置へと回り込み、蓮のかかとの後ろに自分のブーツのつま先をぴったりと合わせた。
(絶対に負けられない……! あいつの歩幅は僕より小さいんだから、急に大股で歩けば絶対に足跡からはみ出すはずだ!)
蓮は前を向いたまま、最初の一歩を大きく踏み出した。
ザクッ、と砂を踏みしめる音が響く。
背後からは、トコトコと真白がすぐさま蓮の足跡を正確に踏み込んでくる気配が伝わってきた。影を見ると、彼女の影が蓮の影のすぐ後ろで、一生懸命に大股で足を伸ばしているのが分かる。
(よし、次は小さく二歩……!)
蓮は急に歩幅を狭め、ちょこちょこと小刻みに歩いてみた。
後ろの真白も「おっとっと……」と声を漏らしながらも、上手にバランスを取って蓮の足跡の中に自分の足を収めているようだった。
「ねえ、宮本くん」
歩きながら、真白の声が蓮の背中のすぐ後ろから聞こえた。学校の教室よりも、通学路よりも、遮るもののない砂浜の上だからこそ、彼女の声がやけにクリアに耳の奥へと届く。
「な、何だよ。話しかけても僕は振り返らないからな」
「うん、振り返らなくていいよ。……ただね、宮本くんの足跡、こうして踏んでみると、やっぱり私よりずっと大きいなあって思って」
「……男なんだから、当たり前だろ」
「そうだね。……でも、歩幅を急に変えられると、なんだか一緒にフォークダンスを踊ってるみたいで、ちょっと面白いね」
「っ……!」
蓮の背筋がびくりと跳ね上がった。フォークダンス、という単語に、急に猛烈な照れくささが込み上げてくる。影を見ると、真白の影が蓮の背中に触れそうなくらいに近づいていた。
(落ち着け、あいつは僕を動揺させて、振り返らせようとしてるんだ。罠にハマるな!)
蓮は必死にポーカーフェイスを維持し、流木までの距離を測った。あと数メートル。
(ここで最後の一撃だ。思いっきり大きくジャンプして、あいつが届かないくらい遠くに足跡をつけてやる!)
蓮はグッと膝を曲げ、前方に向かって勢いよく大ジャンプを放った。
ザザッ、と砂を巻き上げながら、流木のすぐ手前に見事な着地を決める。これなら、真白の歩幅では絶対に届かないはずだ。
勝った、と思って蓮が今度こそ「どうだ!」と振り返ろうとした、その瞬間だった。
「――はい、はみ出さずに着地成功!」
不意に、すぐ真後ろから真白の声が聞こえた。
驚いて蓮が完全に振り返ると、真白は蓮がジャンプした瞬間に、彼女自身も蓮の背中を追いかけるようにして、砂の上をぴょんと大きくジャンプしていたのだ。
そして、蓮のスニーカーの跡のなかに、彼女のブーツの先が奇跡的にぴったりと収まっていた。
「え……!? お前、ジャンプしてついてきたのかよ!」
「うん。宮本くんが急に膝を曲げたから、ジャンプするって簡単に予想できちゃった。だから、私も一緒に飛んだんだもん」
真白は流木の前でくるりと振り返り、カバンを胸に抱いたまま、今日一番の本当に楽しそうな満面の笑顔を咲かせた。その頬は、運動したせいで、ほんのりときれいな桜色に染まっている。
「……また負けたよ。本当に、真白さんのジャンプ力どうなってるんだよ」
蓮はがっくりと肩を落とした。あいつの裏をかこうと大技を出した結果、着地のタイミングまで完全に読まれてしまっていたのだ。本当に真白の心理戦と行動力には敵わない。
「あはは! 宮本くん、ジャンプするときに『ふんっ』って可愛い声が出てたよ。というわけで、グループラインに写真、貼っちゃおうかなー」
真白はスマートフォンを取り出して、ニヤニヤと画面をタップするフリをしてみせた。
「本当にやめてくれ! 頼むから、他の罰ゲームにしてくれ!」
蓮が顔を真っ赤にして必死に拝み込むと、真白はしばらくその様子を面白そうに眺めていたが、やがてスマートフォンをカバンに仕舞い、マフラーに顔を深くうずめてクスクスと笑った。
「ふふ、冗談だよ。本当に貼ったりしないよ。……でも、次の勝負で宮本くんが勝つまでは、その写真は私の携帯の中に『人質』として保管しておくからね?」
真白はそう言うと、流木の上にトコトコと近づき、その上に腰を下ろして海を眺め始めた。
冬の終わりの、二人きりの静かな砂浜。
からかわれて悔しいはずなのに、砂の上に並んで刻まれた二人の足跡と、隣で笑う彼女の存在が、蓮の胸の奥をこれ以上ないほどに温かく、そして愛おしい熱で満たしていくのだった。




