第83話:海行きの切符と待ち合わせ
週末の土曜日、冬の終わり特有の少し冷たい風が吹く駅のホームに、宮本蓮は約束の時間の10分前に到着していた。
きっかけは、今週の初めに行われたあの席替えだった。一番後ろの隣同士という奇跡的な席をキープできた日、真白はマフラーに顔をうずめながら『お祝いに、今度の土曜日、海に行こうよ』と何気なく言ったのだ。いつもなら学校の中だけで完結する二人のやり取りが、休日という枠組みを飛び出して外の世界へと連れ出されるのは、初詣の時以来だった。
恋人同士というわけではない。ただの隣の席の友達。その曖昧な名前のまま、二人は各々私服に着替えて、片道数十分の小さな電車の旅を経て、海の見えるこの駅で待ち合わせる約束をしていた。
(……いや、落ち着け。あいつのことだ。休日だからって僕がソワソワして私服を意識してくるのを見越して、駅に着いた瞬間からニヤニヤからかってくるに決まってる)
蓮は首元に手を当てた。そこには、真白が冬休みの間に編んでくれた、あのチャコールグレーの手編みのマフラーがしっかりと巻かれていた。「せっかくもらったんだから使わないと勿体ない」という言い訳を自分に用意していたが、本人の前で見せるのはどうしても少し照れくさい。
プシュー、と重い音を立てて、下り電車がホームに滑り込んできた。
数少ない乗客が改札へと向かっていく中、最後にトコトコと軽い足取りで階段を下りてくる少女の姿があった。
ベージュのコートに、首元には彼女自身のいつものチェック柄のマフラー。髪は学校の時のお団子頭ではなく、低い位置で一つに結ばれており、歩くたびにさらさらと揺れている。普段の制服姿とはぐっと雰囲気の違う、少し大人びた真白の私服姿を前にして、蓮は改札口の手前で思わず言葉を失ってしまった。
「宮本くん、お待たせ! 迷子にならずに来られた?」
真白は改札機を抜けると、蓮の目の前でピタリと足を止め、いたずらっぽく小首を傾げた。
「お、お疲れ、真白さん。迷子になるわけないだろ、一本道なんだから。……それより、あけましておめでとう、じゃなくて、私服、なんか新鮮だな」
蓮は慌てて視線を斜め下に逸らした。しかし、彼女が動くたびに、冬の冷たい空気の中にあの甘いシャンプーの香りがふわりと漂って、心臓が早くも小さな鼓動を刻み始めている。
「ふふ、ありがと。宮本くんも、ちゃんとそのマフラー巻いてきてくれたんだね。すっごく似合ってるよ」
真白は蓮の首元のチャコールグレーのマフラーをじっと見つめ、それから嬉しそうに目を細めた。
「勝負は勝負だし、もらったものは使うよ。……で、海はどっちにあるんだ?」
「あっちだよ。駅を出てすぐの堤防を越えたら、もう全部海なんだから。……ねえ、宮本くん。海に着くまでの間に、今日最初の勝負、しない?」
真白はカバンを両手で持ちながら、歩き出すと同時にいつものようにニヤリと笑った。
「また始まった……。駅に着いた瞬間からこれかよ。何の勝負だよ」
「ここから海が見える堤防の階段の上に辿り着くまでに、すれ違う人の数が『奇数』か『偶数』か、どっちか当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の帰りに駅前の自販機で冷たいココアを奢ってあげる。でも、もし外れたら……今日一日、私の写真を『1枚だけ』宮本くんの携帯で撮らせてね。はい、どっち?」
「何だよその罰ゲーム。僕の携帯の中に真白さんの写真が増えるだけじゃんか」
「えー、いいじゃん。お正月の記念だよ。さあ、どっち?」
真白はトコトコと駅のロータリーを抜けて、海の匂いが漂う直線道路へと歩き出した。
蓮は周囲を見渡した。休日の地方の駅前ということもあり、人通りは驚くほど少ない。今すれ違ったのは、犬の散歩をしているおじいさんが1人。
(現在1人。堤防までは歩いて3分くらいだから、あと何人とすれ違うか……。この静かさなら、もう誰も通らない可能性のほうが高い。だったら、今の1人のままで『奇数』か……?)
蓮は真白の横顔を盗み見た。彼女は「さあ、どうする?」という表情で、蓮の回答を待っている。
(いや、待てよ。真白さんのことだ。僕がこの静けさを見て『奇数』って答えるのを見越して、あえて誰か知り合いのいる場所をルートに選んでるか、あるいは曲がり角の向こうからクラスの誰かが歩いてくるのを事前に知ってて仕掛けてきたんじゃないか……!?)
学校の外での勝負だからこそ、蓮の警戒レベルは最大に達していた。
「……偶数だ! 誰かもう1人くらい通るだろ!」
蓮が意地を張って答えると、真白は「ふーん、偶数ね」とクスクス笑った。
二人はそのまま、堤防へと続く静かな一本道を並んで歩いた。
カサカサと冬の枯れ葉が風に舞う音と、遠くからかすかに聞こえるザザーンという波の音だけが、朝の静寂の中に響いている。
曲がり角を曲がり、目の前に大きなコンクリートの堤防と、その上へと続く階段が現れた。
結局、駅前を出てから階段のふもとに着くまでの間、二人の前を通り過ぎる人は、最初のおじいさん以降、ただの1人も現れなかった。
「というわけで、正解は『1人』で奇数でしたー。宮本くんの負けね」
真白は階段の手前でくるりと振り返り、勝ち誇ったような最高の笑顔を浮かべた。
「くそ……。本当に誰も通らないなんて、どんな過疎地だよここ」
蓮がガックリと肩を落とすと、真白は自分のカバンからスマートフォンを取り出し、画面を蓮の方へと向けた。
「はい、約束通り、今日の思い出の1枚目、撮らせてね。宮本くん、マフラーに顔うずめてちょっと拗ねてる顔、すごく面白いから」
真白はカシャリと静かな道にシャッター音を響かせると、画面を見て満足そうにふふふと笑った。
恋人同士という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、二人は休日という特別な舞台で、いつものようにくだらないからかい合いを始めながら、海の見える階段を一歩ずつ上り始めるのだった。




