第82話:約束のマフラーと朝の足音
冬の冷たい朝の空気は、吐き出す息を一瞬で真っ白な塊に変えて、坂道を吹き抜ける風の中に溶かしていく。
宮本蓮は、首元をすっぽりと包み込むチャコールグレーの手編みのマフラーの感触を確かめながら、いつもの通学路を少しだけ早足で歩いていた。
昨日の放課後、黒板消しの勝負に負けた罰ゲーム(と言いつつ、本当は言われなくても使うつもりだったのだが)の約束通り、真白が冬休みの間に編んでくれたマフラーをしっかりと巻いている。手作りのウールの温もりは、凍えそうな朝の通学路でも驚くほど優しく首元を温めてくれていた。
(……いや、でも、真白さんは絶対に僕がこのマフラーを巻いてくるのをどこかで待ち伏せしてるはずだ。見つけた瞬間に、また嬉しそうにニヤニヤしながらからかってくるに決まってる。今日こそは、朝一番からあいつの鼻を明かしてやる!)
蓮はマフラーに顎を深くうずめ、周囲を警戒しながら歩いた。学校の正門へと続く緩やかな坂道のふもとに差し掛かった、その時だった。
「おはよ、宮本くん!」
不意に後ろから聞こえた軽快な足音と、鈴を転がすような声に、蓮の肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、そこには自分のチェック柄のマフラーに顔を半分うずめた真白が、カバンを両手で持ちながらトコトコと駆け寄ってくるところだった。彼女の瞳は、蓮の首元にあるチャコールグレーのマフラーを捉えた瞬間、パッと嬉しそうに輝いた。
「あ、約束通りちゃんと巻いてきてくれたんだね。すっごく似合ってるよ、宮本くん」
「お、おはよ、真白さん。……勝負は勝負だからな。約束はちゃんと守るよ。それに、本当に温かいし」
蓮はあえて冷静さを装い、ぶっきらぼうなトーンを意識して答えた。ここでデレデレした態度を見せたら、それこそ格好の餌食になってしまう。
「ふふ、素直でよろしい。……じゃあさ、宮本くん。新学期最初の、朝の登校勝負、しない?」
(また始まった……。本当に朝から元気だな、あいつは)
蓮は苦笑いしながらも、いつもの日常のペースに戻ってきたことに、どこか安心している自分に気づき、歩きながら身構えた。
「何の勝負だよ。マフラーの件なら、もう僕が巻いてきた時点で約束は果たしただろ」
「ううん、それは昨日の罰ゲームだもん。今日のルールはね、ここから学校の正門をくぐるまでの間に、私が宮本くんのマフラーの『どこか』をツンツンって触るの。宮本くんは、私が右側と左側のどっちから触ってくるか当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の放課後、私がまた購買のいちごオレを本当に奢ってあげる。でも、もし外れたら……今日の放課後、私がまた宮本くんのお弁当のタコさんウインナーを1個もらうこと。はい、どっち?」
「何だよそのルール。また僕のおかずが狙われてるじゃないか。……でも、今回は負けないぞ」
二人は並んで坂道を登り始めた。
蓮は頭の中で必死にシミュレーションを行った。真白は今、蓮の『左側』を歩いている。彼女はカバンを右手に持っているので、左手は自由に動かせる状態だ。普通に考えれば、そのまま左側から手を伸ばしてマフラーを触ってくるのが一番自然だ。
(……いや、待てよ? これまでの真白さんのずる賢いパターンを思い出せ。あいつは僕が『左』って警戒するのを見越して、わざと僕の背中の後ろをすり抜けて、右側から触ってくる可能性のほうが圧倒的に高い! 昨日の黒板消しのときだって、ストレートに見せかけて引っ掛けてきたんだからな!)
蓮は歩きながら、自分の右側の空間を意識的に警戒した。真白が後ろを通る気配を見逃さないように、足音に全神経を集中させる。
坂道の途中、風が強く吹き抜け、近くの木々からパラパラと白い雪の粉が舞い降りてきた。
その瞬間、真白の足音がふっと乱れ、彼女の体が蓮の背後へと回り込むような動きを見せた。
(来た……! 右側だ!)
蓮は勝利を確信し、先手を打って言い放った。
「右側だろ! 真白さん、後ろから回り込もうとしたの、バレバレだぞ!」
蓮が自信満々に振り返りながら答えると、真白は蓮の『左側』にいたまま、一歩も動いていなかった。彼女はただ、風でマフラーが乱れたのを直すために少し足を踏み替えただけだったのだ。
そして、蓮が「え?」と呆然としたその一瞬の隙を突いて、真白は自由な左手を伸ばし、蓮の『左側』の首元にあるマフラーの端を、ツンツンと小さく小突いた。
「ザ・ン・ネ・ン。普通に左側でしたー! 宮本くん、また深読みしすぎでハズレ!」
真白はクスッと笑って、蓮を追い越して坂道をトコトコと上っていった。
「おい、真白さん! 今のは完全に僕を右側に誘導するためのフェイントだろ! ズルいぞ!」
「ズルくないよー。宮本くんが勝手に深読みして、右側ばっかり気にして横を向くから、左側がガラ空きになっちゃったんだよ? 引っかかる宮本くんが可愛すぎるのが悪いの」
真白は校門の前で立ち止まり、振り返って勝ち誇ったような最高の笑顔を浮かべた。
二人はそのまま正門をくぐり、昇降口で上履きに履き替えて、一番後ろの自分たちの席へと戻った。
教室内は他のクラスメイトたちの賑やかな雑談で騒がしかったが、一番後ろの席の周りだけは、どこか二人だけの特別な距離感が保たれている。
蓮は自分の席に座り、首元のチャコールグレーのマフラーをゆっくりと外して机の上に畳んだ。
「……負けたよ。お昼休み、タコさんウインナーあげるよ」
少し悔しそうに、だけど約束を破る気はないトーンで呟くと、真白は自分の席に座り、机に肘をついて蓮の顔をじっと見つめた。その瞳には、勝負に勝った喜びだけでなく、自分の作ったマフラーを蓮が本当に大切そうに扱っているのを見て、どこか嬉しそうな、深い優しさが宿っていた。
「うん、約束ね。ウインナー楽しみにしてる。……でもね、宮本くん」
「何だよ」
真白は自分のチェック柄のマフラーに顔を深くうずめ、蓮にだけ聞こえるような小さな声で、いたずらっぽく、だけど少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「本当はね、右でも左でも、どっちでもよかったんだ。宮本くんが、私が編んだマフラーを朝からちゃんと巻いて、私の足音をあんなに一生懸命聞いてくれてたのが、すっごく嬉しかったから。だから、どっちを触っても、私の勝ちみたいなものだったんだよ」
「っ……!?!?!?」
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、ブレザーの胸の奥がドクンと波打つ。
恋人同士という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、彼女はいつもこうして、蓮の心の最も柔らかいところに、すとんと足を踏み入れてくるのだ。
蓮は慌てて前を向き、カバンから教科書を取り出そうとしたが、手が微かに震えるのを止められなかった。
「……本当に、敵わないな、真白さんには」
小さな声で呟いた蓮の言葉に、隣の席の少女は、マフラーに顔を完全にうずめて、嬉しそうにくすくすと笑い声を響かせていた。
付き合うとか、特別な関係になるとか、そんなことよりも、この一番後ろの席で、毎日くだらない勝負を仕掛けられ、それに本気で悔しがって言い返す。そんな二人の、いつも通りの「照れたら負け」のからかい合いの日常こそが、二人にとって何よりも特別で、何よりも大切にしたい時間なのだった。
「見てろよ、次のお昼休みの勝負こそ、僕が絶対に勝つからな」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
真白はマフラーの奥から、満足そうな最高の笑顔で、蓮のことを見つめ返すのだった。
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