第81話:放課後の黒板消しと白い粉
すべての授業が終わり、終礼の挨拶が終わると同時に、教室内は一気に解放感に包まれた。部活動へ向かう生徒たちが慌ただしそうにカバンを持って飛び出していき、残った生徒たちも雑談を交わしながら次々と帰りの支度を始めていく。
宮本蓮は、自分のカバンにノートを詰め込みながら、今日の黒板の隅に書かれた『日直:宮本・白石』という文字を眺めていた。
新学期の一番後ろの席になってから初めての日直。お昼休みの卵焼きのルール詐欺、そして5時間目の一筆書き勝負と、今日も一日中真白に転がされっぱなしだった蓮としては、放課後のこの居残り仕事すらも、何か仕掛けられるのではないかと身構えざるを得なかった。
ガタガタと椅子を引く音がして、隣の席の真白が立ち上がった。
彼女は自分のチェック柄のマフラーを机の上にふわりと置くと、蓮の方を振り返って、にこりと微笑んだ。
「宮本くん、日直の仕事しよ? 早く終わらせないと、鍵閉めの人に来られちゃうよ」
「分かってるよ。真白さんは黒板を消してくれ。僕はチョークの粉の受け皿を掃除して、日誌を書いておくから」
「はーい」
真白はトコトコと教壇の方へと歩いていき、黒板消しを両手に持って、さらさらと今日の板書を消し始めた。
教室内はいつの間にか、蓮と真白の二人きりになっていた。開け放たれた窓からは冷たい冬の風が吹き込んでおり、夕暮れのオレンジ色の光が、黒板から舞い上がる細かなチョークの白い粉をキラキラと輝かせている。
蓮が教卓の上で日誌のペンを走らせていると、黒板を叩くパタパタという規則正しい音が不意に止まった。
振り返ると、真白が黒板消しを両手に持ったまま、じっと蓮のことを見つめていた。その瞳には、早くも新しい悪戯を思いついたとき特有の、あの怪しい光が灯っている。
「ねえ、宮本くん。日直最後の勝負、しない?」
(やっぱり、このまま無事に終わらせてくれるわけがないよな……)
蓮はペンを置き、小さく溜め息を吐きながらも、どこか予想通りでホッとしている自分に苦笑した。
「何の勝負だよ。僕は早く日誌を終わらせて帰りたいんだ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。今から私が、この黒板消しを後ろに隠して、左右どちらの手で持っているかを宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の帰り道、私が購買のいちごオレを本当に、ルール詐欺なしで奢ってあげる。でも、もし外れたら……宮本くんが明日、私がもらったあのチャコールグレーのマフラーを巻いて登校すること。はい、どっち?」
真白は黒板消しを背中の後ろへと隠し、ふふんと鼻を鳴らした。
(僕のマフラーの着用が罰ゲーム……? いや、あれは昨日もらったばかりで、明日も普通に巻いていく予定だったんだけどな……)
蓮は心の中でツッコミを入れつつも、真白の意図を考えた。
(待てよ。黒板消しを隠す勝負。真白さんは右利きだから、普通に考えれば右手に持っている可能性が高い。でも、お昼休みや授業中の勝負を思い出すと、あいつは僕が『右』って答えるのを見越して、あえて『左』にしてくるはず。……いや、さらにその裏をかいて、最初から『両手』で持っているか、あるいは『黒板の粉受け』に最初から置いてあって、後ろには何も持ってないっていう引っ掛けか!?)
真白のこれまでのずる賢いパターンを思い出し、蓮の脳内コンピューターがフル回転を始める。あいつは僕が勝手に深読みして自爆するのを待っているのだ。
(だったら、あいつの予想のさらに上をいってやる!)
蓮は意気込んで、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……どっちの手にも持ってないだろ。真白さん、後ろに隠すフリをして、最初から黒板の粉受けに置いてるか、教卓の中に隠したんだ。そのずる賢い顔を見れば分かるぞ」
蓮がニヤリと勝利を確信して言い放つと、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、すぐにクスッと楽しそうに笑った。
そして、後ろに隠していた両手を、蓮の前にパッと差し出してみせた。
彼女の『右手』には、しっかりと四角い黒板消しが握られていた。
「ザ・ン・ネ・ン。普通に右手に持ってましたー! 宮本くん、また深読みしすぎでハズレ!」
「あ……! くそ、普通に持ってたのかよ!」
蓮はガックリと肩を落とした。あいつの裏の裏をかこうとした結果、ただのストレートな選択肢に自滅してしまったのだ。本当に真白の心理戦には敵わない。
「あはは! 宮本くんって、勝負になると急に難しく考えちゃうから、簡単に騙せちゃう。新学期になっても、私の手のひらの上で転がされっぱなしだね」
真白は嬉しそうに黒板消しをパンパンと叩き、チョークの白い粉を舞い上がらせた。
「うるさいな……。明日の勝負こそ、僕が絶対に勝つからな。……あ、でも、勝負は僕の負けだから、明日は約束通りあのマフラーを巻いていくよ」
蓮が少し照れくさそうにそっぽを向いて言うと、真白は黒板消しを置く手を止めた。
彼女はゆっくりと蓮の方を振り返り、マフラーのない無防備な首元を少しだけすくめながら、夕暮れのオレンジ色の光の中で、本当に嬉しそうな、だけど少しだけ照れくさそうな不思議な笑顔を浮かべた。
「……うん。楽しみにしてるね、宮本くん」
その声は、いつものからかいのトーンではなく、どこか等身大の女の子の、ほんの少しの本音が混ざっているような、深い響きを持っていた。
(っ……!)
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、胸の奥がドクンと波打つ。恋人という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、彼女はいつも、蓮の心の最も柔らかいところに、すとんと足を踏み入れてくるのだ。
蓮は慌てて日誌に目を戻し、ペンを走らせる手を急いだが、顔の赤みはちっとも引く気配がなかった。
放課後の誰もいない教室。
からかわれて悔しいはずなのに、二人の間にあるチョークの白い粉が舞う空間は、冬の寒さを完全に忘れさせてしまうほどに、優しく、そしてどこまでも温かい熱を帯びていくのだった。
「よし、日誌も書けたし、帰ろう」
「うん、帰ろっか、宮本くん」
真白は机の上のチェック柄のマフラーを愛おしそうに首に巻き直すと、蓮の少し斜め前を、トコトコと楽しそうな足取りで歩き出すのだった。




