第80話:10分間の競争と階段の踊り場
3時間目の授業が終わり、教科書を閉じる音が教室内あちこちで響き渡った。
次の4時間目は、美術室への移動教室である。美術室は、今二人がいる3階の教室から、渡り廊下を越えて特別棟の2階へと進んだ先にある。
宮本蓮がスケッチブックと筆箱をカバンから取り出していると、すぐ左隣の席から、いつものようにトトントンと規則正しい音が聞こえてきた。見ると、白石真白が自分のシャープペンシルの頭を机に軽く当てながら、いたずらっぽく目を細めてこちらを覗き込んでいる。
「ねえ、宮本くん」
「……何だよ、真白さん。もう移動しないと、美術の先生うるさいから遅れるぞ」
蓮が少し警戒しながら言うと、真白はスケッチブックを胸にぎゅっと抱え、自分のマフラーに顔を半分うずめてクスクスと笑った。
「分かってるよ。だからね、次の授業が始まるまでのこの10分間の休み時間で、ちょっとした『競争』をしない?」
「競争? 廊下は走っちゃダメだぞ。先生に見つかったら怒られるし」
「走らないよ。歩いて競争するの。ルールは簡単。ここから美術室の前のドアに着くまでに、どちらが先に到着するか競うの。ただ、普通に歩くんじゃなくて……私が宮本くんの『一歩後ろ』をぴったりついて歩くから、宮本くんは私を一度も振り返らずに、かつ、私に追い抜かれずに美術室まで行ってね。もし途中で宮本くんが私を振り返っちゃうか、私が宮本くんを追い抜いたら、私の勝ち。無事に振り返らずに着けたら、宮本くんの勝ち」
真白は席を立ち、蓮の机の横へとトコトコと移動してきた。
「なんだよそれ。僕が一歩も振り返らずに、普通に歩いて行けば僕の勝ちじゃんか。真白さんにとって圧倒的に不利だろ」
蓮が不思議そうに首を傾げると、真白は「ふふん」と不敵な笑みを浮かべた。
「不利じゃないよ。宮本くんが絶対に振り返りたくなるような仕掛け、いっぱい用意してるもん。もし宮本くんが勝ったら、今日の放課後、私がまた購買のいちごオレを奢ってあげる。でも、私が外れたら……あ、じゃなくて、私が勝ったら、新学期の最初の週末、私のお買い物に付き合ってね。はい、勝負スタート!」
真白はそう言うと、すっと蓮の背後の位置へと回り込んだ。
(お買い物、って……それってデートみたいなものじゃないか……!?)
蓮の心臓が、早くもドタバタと大きな音を立てて暴れ始めた。恋人にはならない、ただの隣の席の友達。その曖昧な関係のまま、真白はいつもこうして、蓮の防衛線を軽々と飛び越えるような爆弾を放り込んでくる。
(絶対に負けられない……! 前だけを見て、普通に歩けばいいんだ!)
蓮はスケッチブックをしっかりと握りしめ、教室のドアを出て廊下へと歩き出した。
背後からは、トコトコと真白の規則正しい上履きの足音がしっかりとついてきている。一歩後ろ、本当に手を伸ばせば届くような至近距離に彼女がいる気配が伝わってきた。
廊下には他のクラスの生徒たちもたくさん移動しており、ガヤガヤと賑やかだったが、蓮の意識は背後の少女に完全に集中していた。
「ねえ、宮本くん」
歩き始めてすぐに、真白の声が蓮の耳元へと届いた。背中越しではなく、まるで耳のすぐ後ろで囁かれているような近さだった。
「な、何だよ。話しかけても僕は振り返らないからな」
「うん、振り返らなくていいよ。……ただね、宮本くんのその新しいマフラー、後ろから見ると、やっぱりすごく似合ってるなあって思って」
「っ……!」
蓮の背筋がびくりと跳ね上がった。昨日もらったばかりの、チャコールグレーの手編みのマフラー。真白が冬休みの間に一生懸命編んでくれた、世界に一つだけのマフラーだ。それを今まさに本人の前で巻いているという事実に、急に猛烈な照れくささが込み上げてくる。
「……ありがと。本当に温かいよ」
「ふふ、どういたしまして。あ、宮本くん、今ちょっと耳が赤くなってるよ?」
「赤くなってない!」
蓮は歩くペースを少しだけ早めた。しかし、真白もそれに合わせるように、トコトコと足音を乱さずにぴったりとついてくる。
二人は3階の渡り廊下へと差し掛かった。窓からは冬の明るい日差しが差し込み、二人の影が前方の床に並んで伸びている。影を見ると、真白の影が蓮の影のすぐ後ろ、まるで寄り添うようにして動いているのが分かった。
(影を見れば、あいつの動きが分かるな。よし、これなら安心だ)
蓮が少しホッとした、その時だった。
カサリ、と蓮のブレザーの背中のあたりに、微かな感触があった。
真白が持っているスケッチブックの端か、あるいは彼女の衣服が、蓮の背中に軽く触れたのだ。
「わっ……!」
「あ、ごめんごめん。宮本くんが急に歩き方を変えるから、ぶつかっちゃった。……でもね、宮本くんの背中、意外と大きいんだね」
「なっ……!?」
真白の声は、今度は蓮の右肩のすぐ後ろから聞こえた。
(近い……! 近すぎるだろ!)
背中に伝わってきた彼女の微かな温もりと、衣服から漂うあの甘いシャンプーの香りが、蓮の脳内を完全に支配していく。前を向いて歩いているはずなのに、頭の中は真っ白になりそうだった。
「ねえ、宮本くん。私の心臓の音、また聞こえそうなくらい近いよ?」
「聞こえるわけないだろ! 廊下だぞ!」
蓮は必死に声を荒らげて、動揺を隠そうとした。振り返って「離れろよ!」と言いたい衝動に駆られるが、それをやったら真白の勝ちになってしまう。彼女の張り巡らせた罠に、自分から飛び込むわけにはいかない。
二人は渡り廊下を渡りきり、特別棟の階段へと差し掛かった。
ここを下りれば、2階の美術室はもう目の前だ。
階段を下りる際、蓮は細心の注意を払った。足元に集中し、真白が隙を突いて横から追い抜いてこないか、視界の端の影を凝視する。
階段の踊り場に差し掛かった、その瞬間だった。
「――宮本くん」
真白の声が、今度は蓮の『左側』、それも完全に真横の至近距離から響いた。
(しまっ、左から追い抜かれる……!?)
蓮は反射的に、左側へと視線を動かそうとした。真白の体が自分の真横に並びかけていると思い、それを阻止しようとしたのだ。
しかし、蓮が首を左に傾けかけたその瞬間、真白の足音は実際にはまだ蓮の一歩後ろにいた。
彼女は階段の段差を利用して、一歩後ろの上段から、蓮の左肩越しにぐっと顔を近づけて、耳元で声をかけただけだったのだ。
蓮がハッとして動きを止めたときには、すでに遅かった。
真白はすかさず蓮の前にトトントンと躍り出ると、美術室のドアの前でくるりと振り返り、今日一番の、本当に嬉しそうな満面の笑顔を咲かせた。
「はい、私の勝ち! 宮本くん、今、完全に私のこと見ようとして左側振り返りかけたよね?」
美術室の前にはまだ他の生徒がいなかったため、二人の声だけが静かな廊下に響いた。
真白はスケッチブックを胸に抱いたまま、勝利の余韻に浸るようにふふんと鼻を鳴らしている。その頬は、冬の寒さと、蓮をからかいきった達成感のせいで、ほんのりときれいな桜色に染まっていた。
「……ズルいだろ、今のは。真横から声がしたから、てっきり追い抜かれたかと思ったんだぞ」
蓮は階段の最後の段を商りきり、真白の前でがっくりと肩を落とした。
またしても、彼女の手のひらの上で完全に転がされてしまった。
「ズルくないよ。宮本くんが私の声に簡単に釣られちゃうのが悪いの。……というわけで、週末のお買い物、付き合ってね?」
真白は上目遣いで、蓮の瞳をじっと見つめてきた。
恋人同士という名前には決してならない、ただの隣の席の友達。だけど、その週末の約束は、どう考えても普通の友達の距離感を少しだけ超えてしまっているような気がして、蓮の顔は再び限界突破するほどに熱くなっていった。
「……分かったよ。約束だから、行くよ」
蓮が顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて小さく呟くと、真白は本当に嬉しそうにくすくすと笑い、美術室のドアを開けて中へと入っていった。
ただの10分間の休み時間の競争。学校の、なんてことのない日常のひとコマ。
それなのに、自分の首元にあるチャコールグレーのマフラーの温もりと、週末の約束の重みが、蓮の胸の奥をこれ以上ないほどに温かく、そして愛おしい熱で満たしていくのだった。




