第77話:いつもの通学路と新しいマフラー
冬の澄み切った朝の空気は、吐き出す息を一瞬で真っ白な塊に変えて、冷たい風の中に溶かしていく。
宮本蓮は、昨日真白からもらったばかりのチャコールグレーのマフラーを首にしっかりと巻き、少し緊張した足取りでいつもの通学路を歩いていた。
手編みならではの、ふっくらとした優しい温もりが首元を包み込んでくれている。家を出るとき、鏡の前で何度も巻き直してしまったのは自分でも少し恥ずかしかったが、冷え切った朝の風を完全にシャットアウトしてくれるその温かさは、想像以上に快適だった。
(……いや、でも、真白さんは絶対に僕がこのマフラーを巻いてくるのを待ってるはずだ。見つけた瞬間に、また嬉しそうにニヤニヤしながらからかってくるに決まってる)
蓮はマフラーの端を少しだけ引っ張り、顔を半分ほど埋めるようにして歩くペースを緩めた。
あいつの驚く顔が見たい、という小さな対抗心が胸の奥でチクリと疼く。からかわれっぱなしで終わるわけにはいかないのだ。
駅前の緩やかな坂道を登りきり、学校の正門が見えてくるあたりに差し掛かったときだった。
前方を歩いていたクラスの女子グループの中から、お団子頭を少し揺らしながら、トコトコとこちらを振り返る少女の姿があった。白石真白だ。
彼女は自分のチェック柄のマフラーに顎をうずめながら、蓮の姿を見つけると、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべて、その場で足を止めて待っていた。
「おはよ、宮本くん!」
真白は蓮が近づくと、嬉しそうに声を弾ませた。
しかし、次の瞬間、彼女の視線は蓮の首元にあるチャコールグレーのマフラーへと釘付けになった。
「あ、それ……!」
「お、おはよ、真白さん。……昨日もらったからさ、せっかくだし使わせてもらうよ。すごく温かくて助かってる」
蓮はあえて冷静を装い、いつもの事務的なトーンを意識して答えた。
真白の反応をじっくり見てやろうと彼女の顔を直視すると、真白は一瞬だけ驚いたように丸い目を見開いた後、すぐにマフラーの奥へと口元を隠してしまった。彼女の白い頬が、朝の寒さのせいだけとは思えないほど、ほんのりと桜色に染まっていく。
(よし、先手必勝だ。少しは照れさせることができたぞ)
蓮が内心で小さくガッツポーズをした、その時だった。
真白は一呼吸置くと、いつものいたずらっぽくて余裕のある笑みを無理に作るようにして、蓮の顔を覗き込んできた。
「ふふ、やっぱり。宮本くん、絶対に今日から巻いてきてくれると思ってたんだ。……ねえ、宮本くん。朝一番の勝負、しない?」
(また始まった……。本当に朝から元気だな、あいつは)
蓮は苦笑いしながらも、いつもの日常のペースに戻ってきたことに、どこかホッとしている自分に気がついていた。
「何の勝負だよ。マフラーの件なら、もう僕が巻いてきた時点で僕の勝ちだろ?」
「ううん、それは勝負じゃないもん。ルールは簡単。今から下駄箱に行って、教室に着くまでの間に、私が宮本くんのマフラーの『どこか』をツンツンって触るの。宮本くんは、私が右側と左側のどっちから触ってくるか当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の放課後、私がまた何か奢ってあげる。でも、私が勝ったら……冬休みの間、私と毎日メッセージのやり取りをしてくれたみたいに、新学期も毎日、夜に1回は私にメッセージを送ること。はい、どっち?」
「何だよそのルール。僕が負けたら、毎日連絡しなきゃいけないの? 友達同士の距離感じゃないだろ、それ」
「えー、いいじゃん。冬休み中も楽しかったでしょ? さあ、どっち?」
真白はトコトコと昇降口のドアを開け、下駄箱の前へと進んだ。
蓮はローファーを脱ぎながら、必死に彼女の動きを観察した。真白は自分のカバンを左手に持ち、右手は自由に動かせる状態にある。普通に考えれば、右側から手を伸ばしてくるのが自然だ。
(いや、真白さんのことだ。僕が右側を警戒するのを見越して、わざと左側から回り込んで触ってくるかもしれない。……いや、待てよ? 下駄箱の構造上、僕の左側は壁だ。壁側から触るのは難しいから、やっぱり右側か……?)
二人は上履きに履き替え、教室へと続く階段を上り始めた。
蓮は右側を意識的に警戒し、真白との間に少しだけ距離を置こうとした。
真白は階段を上りながら、蓮の少し斜め後ろをキープしている。
階段の踊り場に差し掛かったその瞬間、真白の体がふっと蓮の右側に近づいてきた。
(右だ……! 触りにきた!)
蓮は身構え、右側からの接触を避けるように体を少し左にひねった。
しかし、その瞬間、真白の右手は蓮の右肩を優しくポンと叩くだけにとどまった。
「あ……」と蓮が思った瞬間、真白の左手が、蓮の左側の首元に巻かれたマフラーの端を、ツンツンと小さく小突いたのだ。
「はい、左でしたー。宮本くんの負けね」
真白はクスッと笑って、蓮を追い越して階段をトコトコと上っていった。
「おい、真白さん! 今の、カバン持ってた左手で触ったのかよ!? ズルだろ!」
「ズルくないよ。カバンを持ってても、指先くらいは動かせるもん。宮本くんが右側ばっかり見てるから、簡単に裏をかけちゃった」
真白は教室の前の廊下で立ち止まり、振り返って勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
二人はそのまま、一番後ろの自分たちの席へと戻り、カバンを机の横にかけた。
教室内は他のクラスメイトたちの雑談で騒がしかったが、一番後ろの席の周りだけは、どこか切り離されたような独特の距離感が保たれている。
蓮は自分の席に座り、首元のマフラーをゆっくりと外して机の上に畳んだ。
「……負けたよ。新学期も、毎日夜に連絡すればいいんだろ」
少し悔しそうに、だけど約束を破る気はないトーンで呟くと、真白は自分の席に座り、机に肘をついて蓮の顔をじっと見つめた。その瞳には、勝負に勝った喜びだけでなく、どこか安心したような、深い優しさが宿っていた。
「うん、約束ね。……でも、宮本くん」
「何だよ」
「本当はね、右とか左とか、どっちでもよかったんだ」
「え?」
真白は自分のチェック柄のマフラーを少しだけ下にずらし、蓮にだけ聞こえるような小さな声で、いたずらっぽく、だけど少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「宮本くんが、私が作ったマフラーをちゃんと巻いてきてくれたのが、すっごく嬉しかったから。だから、どっちから触っても、私の勝ちみたいなものだったんだよ」
「っ……!?!?!?」
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、ブレザーの胸の奥がドクドクと波打つ。
真白はいつもそうだ。恋人同士のような明確な関係には決してなろうとしないし、蓮もそれを口にする勇気はない。ただのクラスメイト、ただの隣の席の友達。そんな曖昧な名前のままで、彼女はいつも、蓮の心の最も深いところに、すとんと足を踏み入れてくるのだ。
蓮は慌てて前を向き、カバンから教科書を取り出そうとしたが、手が微かに震えるのを止められなかった。
「……本当に、敵わないな、真白さんには」
小さな声で呟いた蓮の言葉に、隣の席の少女は、マフラーに顔を完全にうずめて、嬉しそうにくすくすと笑い声を響かせていた。
付き合うとか、付き合わないとか、そんな約束なんて今の二人には必要なかった。一番後ろの隣同士の席で、他愛のない勝負を繰り返し、お互いの距離感に一喜一憂するこの焦れったい日常こそが、二人にとって何よりも特別で、何よりも大切にしたい時間なのだから。




