第76話:手作り
一番後ろの窓際から一番遠い席。そこが、新学期から宮本蓮と白石真白に与えられた、新しくて二人だけの特別な空間だった。
先生の立つ教壇からは教室の対角線上の最も遠い位置にあたり、前に座るクラスメイトたちの背中に隠れて、手元が絶妙に見えにくくなっている。
新学期が始まって数日後の、放課後。
終礼の挨拶が終わり、部活動やそれぞれの家路を急ぐ生徒たちで賑わっていた教室内も、時間が経つにつれて徐々に人が少なくなっていった。オレンジ色の西日が、誰もいなくなった前方の机を静かに照らし、長い影を後ろへと伸ばしている。
蓮がカバンを机の上に置き、ノートや教科書を片付けていると、隣の席の真白が帰る支度を途中で止めたまま、カバンの中から妙に大きな、白い紙袋を取り出すのが視界の端に見えた。
「……宮本くん」
真白がいつもより少しだけ声を低くして、蓮の名前を呼んだ。
「ん? 何だよ、真白さん。早く片付けないと、掃除の担当のやつらが来ちゃうぞ」
蓮が何気なく振り返ると、真白はその白い紙袋を胸の前にぎゅっと抱え、マフラーに顔を半分うずめたまま、じっと蓮の瞳を見つめていた。その綺麗な瞳には、いつもの蓮を困らせて楽しむようないたずらっぽさはなく、どこか緊張したような、少しだけ真剣な光が宿っていた。
「あのね、新学期最初の勝負、しない?」
「また勝負かよ。一番後ろの席になったからって、本当に隙あらば勝負を持ちかけてくるな」
蓮は苦笑いしながらも、彼女のいつもと違う雰囲気に、胸の奥がトクンと小さく跳ね上がるのを感じた。真白の部屋でのココアの記憶や、席替えの日の不意打ちのやり取りが、一気に脳裏をかすめていく。
「何の勝負だよ。その紙袋が関係してるのか?」
「うん。この袋の中にね、私が冬休みの間に作った『あるもの』が入ってるの。それが何色か、宮本くんに当ててほしいの」
真白は紙袋を少しだけ蓮の方へと差し出した。
「冬休みの間に作ったもの……? 色を当てるって、そんなの完全に勘じゃんか」
「ヒントはね……宮本くんに、すっごく似合う色。もし宮本くんの予想が当たったら、この中身を宮本くんにあげる。でも、もし外れたら……宮本くんの持ってるそのネイビーの折りたたみ傘、私にちょうだい」
「え? 傘を? なんでだよ」
「だって、雨の日にまた相合い傘するとき、宮本くんの傘だと狭いんだもん。次は私の傘に宮本くんが入ってね」
真白は上目遣いで、クスッと小さく笑った。
(相合い傘、って……またそうやって平気で恥ずかしいことを言う……!)
蓮は一気に顔が熱くなるのを感じながらも、必死に思考を巡らせた。
真白が冬休みの間に作った、自分に似合う色の何か。
(冬休み、作ったもの、自分に似合う色……。男子が冬に使うもので、手作りするものと言ったら……)
蓮の脳裏に、一つの答えが浮かび上がった。
(マフラー、か……!?)
真白はいつもチェック柄の可愛いマフラーを巻いている。そして、蓮の私服や制服の好みを、彼女は隣の席で誰よりもよく知っている。
(僕に似合う色……。真白さんのことだ。僕がいつも着ている制服のブレザーに合わせて『ネイビー』とか『グレー』って答えるのを見越して、あえて全然違う色にしてる可能性があるな。例えば、あいつがいつも巻いてるマフラーに近い、暖色系の色とか……)
蓮は真白の顔をじっと観察した。真白は袋を抱えたまま、蓮の回答をじっと待っている。彼女の耳たぶが、夕暮れの教室の光のせいだけとは思えないほど、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
(いや、裏をかきすぎるな。あいつは僕に『使ってほしい』から作ってきたんだ。だったら、僕が普段の通学でも一番使いやすい色に決まってる)
蓮は意を決して、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……チャコールグレー、だろ。僕の制服にも合うし、普段着にも合わせやすいから」
蓮が自信を持って答えると、真白は一瞬、本当に驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、フフッと観念したように嬉しそうに目を細めた。
「……正解。宮本くん、本当にたまに冴えてるよね」
真白はそう言うと、白い紙袋の中から、丁寧に折りたたまれた厚手の布地を取り出した。
それは、蓮が予想した通りの、綺麗なチャコールグレーのウールのマフラーだった。手編み特有の、少し不揃いだけど、見るからにふっくらとして温かそうな編み目が並んでいる。
「はい、どうぞ。冬休みの間に、こっそり編んでたんだ。宮本くん、いつも寒そうにしてるから」
真白は両手でそのマフラーを蓮の前に差し出した。
「え……本当に、手編み……? くれるの?」
蓮は驚きと、それ以上に押し寄せてきた猛烈な照れくささで、手が微かに震えるのを感じた。クラスメイトの女の子から、手作りのマフラーをもらう。そんなシチュエーション、漫画の中だけの話だと思っていた。
「うん、約束だからね。勝負は宮本くんの勝ち。……ほら、受け取って?」
蓮は恐る恐る、真白の手からマフラーを受け取った。
手にした瞬間、ウールの優しい柔らかさと、ほんのりと真白の部屋で嗅いだあの甘い香りが、優しく鼻腔をくすぐった。袋に入っていたはずなのに、まるで真白の体温がそのまま移っているかのように、温かく感じられた。
「……ありがと、真白さん。すっごい上手だね。お店で売ってるやつみたいだ」
蓮が顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて小さく褒めると、真白は嬉しそうに胸を張った。
「でしょ? お母さんに教えてもらいながら、頑張って編んだんだから。……ねえ、宮本くん。せっかくだから、今ここで巻いてみてよ」
「え? 今ここで? もう放課後だし、帰るときでいいだろ……」
「ダメ。私が目の前で見てるんだから、最初に巻くところも見たいもん」
真白は机に身を乗り出して、蓮の顔を覗き込んできた。
一番後ろの席。周りにはもう誰もいない、二人だけの空間。蓮は観念して、受け取ったばかりのチャイルコールグレーのマフラーを首にかけ、いつも真白がやっているように、少し長めに一巻きしてみた。
首元が一気に、驚くほどの温かさに包み込まれた。冷え切っていた首筋に、真白の優しさがダイレクトに染み渡っていくようだった。
「どう? 似合ってる?」
蓮が恥ずかしさを限界まで堪えながら、真白の顔を見ると、彼女は自分の両手を胸の前で合わせ、本当に、心の底から愛おしそうな表情で蓮を見つめていた。その頬は、夕日のオレンジ色を吸い込んで、これ以上ないほどに真っ赤に染まっている。
「うん……すっごく似合ってる。かっこいいよ、宮本くん」
真白は消え入りそうな小さな声で呟いた。
いつもなら『似合ってないねー』とか『ペンギンみたい』とか言ってからかってくるはずの彼女が、今度は不意打ちのように、ものすごく素直な言葉を口にしたのだ。
「っ……!?!?!?」
蓮の心臓が、今日一番の激しい衝撃で跳ね上がった。頭に血が一気に上り、顔から湯気が出そうになる。手作りのマフラーの温もりと、真白のストレートな言葉の破壊力が合わさって、もう一歩も動けなくなってしまった。
そんな蓮の狼狽ぶりを見て、真白は我に返ったように慌てて自分のマフラーに顔を深くうずめ、くるりと廊下側の方を向いてしまった。
「……今の、なし! なしだからね! 冗談だよ、冗談!」
「冗談に見えるわけないだろ! お前、本当にズルいな……!」
蓮はマフラーに顔を埋めたまま、自分の席で深く溜め息をついた。
からかい上手の少女にもらった、チャコールグレーの手編みのマフラー。
そこに込められた彼女の本当の想いが、ただのからかいなのか、それとも限界寸前の本音なのか、今の蓮にはまだ確かめることはできない。
だけど、首元を包み込むその優しい温もりと、隣の席で真っ赤になって小さくなっている彼女の存在が、あまりにも愛おしくて。
蓮は自分の首元のマフラーをぎゅっと握りしめながら、新学期の一番後ろの席で、これからの毎日のからかいバトルが、もっともっと特別で温かいものになることを、静かに確信するのだった。




