第75話:新学期の奇跡
冬休みが明け、久しぶりに生徒たちの活気ある声が戻ってきた1月の上旬。
宮本蓮は、教卓の上に置かれた四角い木箱を、生唾を飲み込みながらじっと睨みつけていた。
始業式が終わった直後の学活の時間、担任の先生が「じゃあ、予告通り席替えのくじ引きを始めるぞ」と宣言したのだ。教室内は一気に、歓声と悲鳴が入り混じった独特の緊張感に包まれた。
蓮はそっと右隣の席を見た。
白石真白は、いつも通りの涼しい顔をしてカバンから筆箱を取り出している。しかし、目が合うと、彼女はマフラーを机に置きながら、いたずらっぽく細めた瞳で蓮にだけ見えるように小さくピースサインを作ってみせた。
真白の部屋で、あのココアを飲みながらお互いに限界突破するほど照れ合ってから、まだ数日しか経っていない。蓮の胸の奥には、未だに彼女の部屋の甘い香りと、あの至近距離で見つめ合った瞬間の熱が残り続けていた。
「宮本くん、緊張してる?」
真白が先生に聞こえないような小声で話しかけてきた。
「そりゃするだろ。くじ引きなんて完全に運なんだから。これで真白さんと離れたら、僕の平和な学校生活が戻ってくるわけだし」
蓮が意地を張ってぶっきらぼうに言うと、真白はふふっと嬉しそうに目を細めた。
「えー、冷たいなあ。私は初詣のとき、神様に『隣の席になれますように』ってお願いしたから、絶対に大丈夫だよ? ……ねえ、宮本くん。くじを引く前に、新学期最初の勝負、しない?」
(また勝負か……。本当にブレないな、あいつは)
蓮は苦笑いしながらも、どこか安心している自分に気がついていた。
「何の勝負だよ。席が隣になるかならないかなんて、もうおみくじの時にやっただろ」
「ううん、今回はもっと具体的。私と宮本くんの席が『前の方』になるか『後ろの方』になるか、どっちか当てるの。もし宮本くんが勝ったら、今日の放課後、私が購買のいちごオレを奢ってあげる。でも、私が勝ったら……新学期も毎日、私にからかわれること。はい、どっち?」
「何だよその罰ゲーム。僕が負けたらどっちにしろからかわれるじゃんか」
「あはは、そうだね。でも、宮本くんが勝てばいちごオレだよ?」
真白は机の下で、蓮のブレザーの裾をツンツンと小突いてきた。
蓮は黒板に書かれた座席表の空欄を見上げた。前の方だと先生の目が届きやすいが、後ろの方だと自由度が高い。確率的には半々だ。
(真白さんのことだ。きっと『後ろの方』って答えて、先生の目の届かないところで僕をからかおうと考えてるはずだ。だったら、僕はあいつの逆をいく……!)
「……じゃあ、前の方。真白さんは日頃の行いが悪いから、先生の真ん前の席になるよ」
蓮が少し意地悪に言うと、真白は「ひどいなあ」と笑いながら、自分のノートの余白にさらさらと文字を書いた。
『私は「一番後ろ」に賭けるね。』
「――よし、じゃあ出席番号順に前に出てくじを引け」
先生の声がかかり、男子から順番にくじ引きが始まった。
蓮は自分の番になり、教卓の箱の中に手を入れて、一枚の小さな紙切れを引いた。折りたたまれた紙を開くと、そこには『29』という数字が書かれていた。
黒板の座席表と照らし合わせる。
29番の枠は――教室の入り口側、窓際からは一番遠い、廊下側の『一番後ろの席』だった。
(うわ、本当に一番後ろだ……! ってことは、真白さんの予想が当たったのか?)
蓮が自分の席に戻ると、真白はすでに蓮の番号を確認していたらしく、「ほらね」と言わんばかりに勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「私の勝ちだね、宮本くん。一番後ろだもん」
「くそ……。本当に運が良いな、真白さんは。じゃあ、僕は一番後ろに移動するから」
蓮がカバンを持って立ち上がろうとしたとき、女子のくじ引きが始まった。
真白がトコトコと教壇へ向かい、小さな手でくじを引く。彼女がその紙を開いた瞬間、ほんの一瞬だけ、真白の肩がぴくりと跳ねたのが遠目にも分かった。
真白が自分の新しい席へと荷物を運び始める。
蓮が自分の『29番』の席に座り、カバンを机の横にかけ終えた、その時だった。
「……お待たせ、宮本くん」
聞き慣れた鈴を転がすような声が、蓮のすぐ左隣から聞こえた。
驚いて顔を上げると、そこには自分の荷物を机の上に置き、何食わぬ顔で椅子に腰を下ろす真白の姿があった。
「え……? 真白さん、そこ……」
蓮が慌てて黒板の座席表を確認する。29番の隣、30番の枠に書かれていたのは、間違いなく『白石』の名前だった。
クラスの中に30席ある中で、一番後ろの席。そこで、まさか再び隣同士になるなんて、確率にすればそれこそ奇跡に近い数字だった。
「あはは! 宮本くん、またすごいマヌケな顔してる」
真白はカバンから筆箱を取り出しながら、クスクスと肩を揺らした。
「な、なんで……! お前、また隣なのかよ!? どんな確率だよ、これ」
「言ったでしょ? 私は初詣のとき、神様にちゃんとお祈りしたんだって。神様が、私の『宮本くんをからかいたい』っていう願いを叶えてくれたんだよ」
真白は机に両肘を突き、手のひらで顎を支えながら、至近距離で蓮の顔を覗き込んできた。
一番後ろの席。先生の視線からも一番遠く、周りの生徒たちの注目も集まりにくい、二人だけの静かな空間。
冬の終わりの柔らかな日差しが、窓の遠くから差し込み、真白のハーフアップにまとめた綺麗な髪をきらきらと輝かせている。彼女の瞳は、いつものからかいの色の奥に、言葉には出さない本当の嬉しさが、隠しきれずに溢れ出ていた。
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出す。真白の部屋で感じたあのココアの温もりと、今ここで隣同士になれた奇跡が頭の中で混ざり合って、顔が一気に熱くなっていくのが分かった。
(隣……。新学期も、またこいつが隣なのか……)
悔しいはずなのに、嫌なはずなのに、蓮の胸の奥にある熱は、どうしようもないほどの安堵と嬉しさで満たされていくのだった。
「……じゃあ、約束通り、放課後いちごオレ奢ってやるよ」
蓮が顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて小さく呟いた。
「え? 席を当てたのは私だから、宮本くんの負けだよ? なんで奢ってくれるの?」
真白が不思議そうに首を傾げる。
「……うるさいな。新学期のお祝いだよ。離れなくて、その……良かった、からさ」
最後の言葉は、自分でも消え入りそうなほど小さな声だった。
それを聞いた真白は、一瞬だけ本当に驚いたように丸い目をさらに大きく見開いた。そして、次の瞬間、彼女の白い頬が、冬の夕暮れよりもずっと鮮やかな、深い桜色に染まっていくのを蓮ははっきりと目撃した。
真白は慌てて机の上のマフラーを引っ張り上げると、顔を完全にその中にうずめて、ぷいっと廊下側の方を向いてしまった。
「……宮本くんの、ばか。不意打ちはずるいよ……」
マフラーの奥から、小さく震えるような、だけど最高に照れている声が聞こえた。
一番後ろの、二人だけの新しい席。
からかい上手の少女を、蓮が初めて「素直な言葉」で言い負かした瞬間だった。
新学期が始まったばかりの教室内。二人の間にある空気は、冬の寒さを完全に忘れさせてしまうほどに、甘く、そしてどこまでも愛おしい熱を帯びて、静かに流れていくのだった。




