第74話:初めての部屋とココアの温度
冬休みの中盤、寒さが本格的な厳しさを増した1月の上旬。
宮本蓮は、手に持ったスマートフォンの画面に表示されている地図アプリと、目の前の一軒家の表札を何度も見比べていた。
きっかけは、昨夜の真白からのメッセージだった。
おみくじの勝負で「引き分け(真白の判定)」になったはずなのに、『約束通り、数学の宿題教えてね。あ、私の家でいいよ。親は仕事でいないから』という、あまりにも無防備な誘いが届いたのだ。
(友達の家に行くなんて普通のことだろ……。しかも、ただ宿題を教えるだけだ。余計な緊張なんかするな、僕)
蓮は深く息を吸い込み、意を決して玄関のインターホンを押した。
数秒の後、パタパタと小走りで近づいてくる足音が聞こえ、ドアがゆっくりと開いた。
「あ、宮本くん! いらっしゃい。外、寒かったでしょ?」
出迎えてくれた真白は、いつもの制服でも、初詣のときの防寒着でもなかった。
ゆったりとしたベージュ色のモコモコしたニットに、チェック柄のショートパンツ、そして黒いタイツ。髪はいつもと違って、ハーフアップに緩くまとめられていた。部屋着特有の、どこかリラックスした雰囲気を纏った彼女を前にして、蓮は玄関先で一瞬、言葉を失ってしまった。
「あ、うん。お邪魔します……。本当に誰もいないんだな」
「うん、お母さんもお父さんも夕方まで仕事だよ。ほら、入って入って。私の部屋、2階だから」
真白はトコトコと階段を上がっていく。蓮は緊張でバックパックのストラップをぎゅっと握りしめながら、彼女の後ろ姿についていった。
真白の部屋のドアが開くと、中からほんのりと、彼女がいつも身に纏っているあの甘いシャンプーの香りが漂ってきた。
部屋は白と淡いピンクを基調に綺麗に片付けられており、窓際のローテーブルの上には、すでに二人の数学の教科書とノートが広げられていた。
「適当に座ってね。今、温かい飲み物持ってくるから」
真白が階下へ戻っていくと、蓮は小さく息を吐き、ローテーブルの前に腰を下ろした。
(落ち着け、宮本蓮。ここはただのクラスメイトの部屋だ。早く宿題を終わらせて、サッと帰ればいいんだ)
しばらくして、真白が両手にマグカップを持って戻ってきた。
テーブルの上に置かれたのは、湯気がふわりと立ち上る温かいココアだった。
「はい、どうぞ。ココア、好きでしょ?」
「あ、ありがと……。いただきます」
蓮がマグカップを手に取ると、陶器越しにじんわりと心地よい熱が伝わってきた。一口飲むと、濃厚な甘さと温かさが、緊張で強張っていた体を少しだけ解きほぐしてくれるようだった。
「んー、美味しい。……じゃあ、さっそく始めよっか。ここの連立方程式の応用問題が、どうしても分からなくて」
真白は蓮のすぐ隣に座ると、自分のノートを寄せてきた。
お互いの肩が触れ合いそうな距離。彼女がペンを動かすたびに、ニットの柔らかな袖が蓮の腕にカサカサと当たる。学校の教室よりも狭い空間で、蓮の心臓は早くも小さくドタバタと音を立て始めていた。
「え、ええと……ここはまず、未知数をエックスとワイに置いてさ……」
蓮は必死に声を落ち着かせながら、ノートに数式を書き込んで説明を始めた。真白は「うん、うん」と真面目に頷きながら、蓮の手元をじっと見つめている。
1時間ほどが経ち、真白のノートの余白が綺麗な数式で埋まる頃には、冬休みの宿題もようやく終わりの兆し見えていた。
「わあ、宮本くん、教えるの上手だね! おかげで全部解けちゃった」
真白はペンを置くと、嬉しそうに伸びをした。
蓮も「終わってよかったよ」と胸を撫でおろしたが、真白の視線が、再びいたずらっぽく細められるのを見て、一気に警戒モードに切り替えた。
「ねえ、宮本くん。宿題も終わったことだし、ここで勝負しない?」
(やっぱり、このまま帰してくれるわけがないよな……)
蓮はココアを一口飲み、身構えた。
「何の勝負だよ。おみくじの時は、真白さんが無理やり引き分けにしたんだからな」
「あはは、そうだっけ? じゃあ、今回のルールはとってもシンプル。今からね、宮本くんが私の『どこ』を一番最初に見るか、私が当てるの。制限時間は、私が今から目をつぶって、3秒数える間ね」
真白はそう言うと、本当にゆっくりと両目を閉じた。
「はあ? 何だよその勝負……」
「いーち……」
真白がカウントを始める。
蓮は慌てて彼女の顔を見た。目を閉じている真白の顔は、驚くほど至近距離にある。長いまつ毛、寒さで少しだけピンク色になった頬、そして、少しだけ形の良い唇。
(どこを見るか、だって……? 普通に考えたら、目を開けた瞬間に目が合うから『目』だろ。いや、それとも僕がドキドキして視線を逸らすのを見越して『ノート』とか『手元』って言う気か!?)
思考がぐるぐると渦巻く。
「にーい……」
真白の唇が小さく動く。部屋着のモコモコしたニットの隙間から、彼女の白い首元がチラリと見えて、蓮は心臓が爆発しそうになるのを感じた。異性の部屋で、二人きり。相手は目を閉じている。この状況自体が、中学生の蓮にとっては刺激が強すぎた。
(目……いや、手元か……? どこだ、どこを見れば勝てる!?)
「さーん。……はい、どっち?」
真白がパチッと目を開けた。
その瞬間、蓮は彼女のまっすぐな、どこか見透かすような綺麗な瞳と、正面から視線がぶつかり合った。
「……目、だろ。真白さんの『目』だ」
蓮が少し息を荒らげながら答えると、真白はしばらくの間、じっと蓮の瞳を見つめ返していた。
冬の午後の静かな室内。暖房のブーンという微かな音だけが響いている。
やがて、真白の白い頬が、彼女の着ているニットよりもずっと鮮やかな、深い桜色に染まっていくのを蓮ははっきりと目撃した。彼女は慌てて両手で自分の顔を覆うと、小さく首を横に振った。
「……ハズレ」
「え? ハズレ? 僕、真白さんが目を開けた瞬間、絶対に目を見てたぞ」
「違うもん……。宮本くん、さっき私が目をつぶってるとき、私の『唇』のこと、じっと見てたでしょ……?」
マフラーの代わりに、自分の両手の中に顔を完全にうずめた真白から、消え入りそうな声が返ってきた。
「っ……!?!?!?」
蓮は頭に血が上り、顔が一気に沸騰した。
確かに、カウントの途中で一瞬だけ、彼女の唇に視線がいってしまったのは事実だった。それを、目を閉じているはずの真白に指摘されるなんて、思いもよらなかった。
「な、何で分かるんだよ! 目、閉じてただろ!」
「……まつ毛の隙間から、ちょっとだけ見えてたんだもん。宮本くんが、すっごい真剣な顔して私のこと見てるの、分かっちゃった」
真白は手を少しだけ下げて、潤んだ瞳で蓮を上目遣いに睨みつけた。その耳たぶは、これ以上ないほどに真っ赤に染まっている。いつもは完璧に蓮を翻弄するからかい上手の少女が、自分の仕掛けた状況のせいで、自分自身も限界突破するほどに照れてしまっているのだ。
「それは……その、部屋が静かだったから、どこ見ていいか分からなくて……」
蓮が支離滅裂な言い訳をしながらそっぽを向くと、真白は自分のマグカップを両手でギュッと握りしめ、小さくココアをすすった。
「……宮本くんの、えっち」
「違うって! 誤解だろ!」
「ふふ、冗談だよ。……でも、勝負は私の勝ちだからね」
真白は少しだけ呼吸を整えると、いつもの悪戯っぽい笑顔を無理に作るようにして、蓮の顔を覗き込んできた。だけど、その頬の赤みはちっとも引いていなかった。
宿題を教えに来たはずの初めての部屋。
からかわれて悔しいはずなのに、二人の間にあるココアの湯気は、冬の冷たい空気を完全に忘れさせてしまうほどに、甘く、そしてどうしようもないほどに熱く満ちているのだった。




