第70話:席替えの噂
朝の雨が嘘のように、昼下がりには雲の隙間から柔らかな冬の日差しが教室へと差し込んでいた。
宮本蓮は、5時間目の自習の時間、ノートを開きながらも全くペンが進んでいなかった。なぜなら、先ほどの休み時間にクラスの男子たちの間で飛び交っていた、ある重大な噂が頭から離れなかったからだ。
「来週、いよいよ席替えらしいぞ」
木村がそう言っていた。このクラスになってから数ヶ月、席替えは一度も行われていなかった。つまり、蓮の隣の席には、入学してからずっと白石真白がいたということだ。
席替えはくじ引きで行われるのが通例である。確率から言って、再び真白と隣同士になれる可能性は極めて低い。
(席替え、か……)
蓮はチラリと右隣の席を見た。
真白は教科書を立てて顔を隠しながら、何やら楽しそうにノートに落書きをしている。いつもなら、授業中や自習の時間にこうして目が合うと、すぐにノートの端で筆談を仕掛けてきたり、小さく手を振ってからかってきたりする。
それが、来週からはなくなってしまうかもしれない。
別の男子が真白の隣になり、真白は今度はその男子をターゲットにして、毎日楽しそうにからかいバトルを繰り広げるのだろうか。
そう想像した瞬間、蓮の胸の奥が、なんだかモヤモヤとした奇妙な重さに支配された。
(いや、別に寂しいわけじゃない。あいつのからかいから解放されるんだから、むしろ授業に集中できて万々歳のはずだろ……。うん、そうだ。せいせいするな)
自分にそう言い聞かせ、蓮は無理やり教科書に目を戻した。
しかし、そんな蓮の様子の変化を、隣の観察眼の鋭い少女が見逃すはずがなかった。
真白はさらさらとノートに何かを書くと、それを少しだけ蓮の机の方へと滑らせてきた。教科書の陰から、いたずらっぽく細められた瞳が蓮を見つめている。
蓮は先生が教壇で書類仕事に没頭しているのを確認し、素早くそのノートの余白に目を落とした。
『宮本くん、さっきからため息ばっかり。どうしたの? 焼きそばパンが売り切れだった?』
丸っこい文字で、相変わらず的外れな心配が書かれていた。
蓮はシャープペンシルを握り、自分のノートの端に文字を走らせた。
『売り切れじゃないよ、ちゃんと食べた。……それより、真白さんは聞いてないのか? 来週、席替えがあるらしいぞ』
ノートを少し傾けて真白に見せる。
真白は蓮の文字を読むと、一瞬だけペンを動かす手を止めた。そして、何かを企むような笑みを浮かべ、再びサラサラと文字を書き足してノートを戻してきた。
『知ってるよ。女の子たちの間でも噂になってるもん。宮本くん、もしかして席替えが嫌なの?』
(っ……! 嫌なわけないだろ!)
蓮は慌てて文字を書き殴った。
『嫌なわけないだろ。むしろ席が離れれば、毎日真白さんにからかわれなくて済むから、せいせいするよ』
強気の反論。これを読んだ真白がどんな意地悪を返してくるか、少し身構えながら待つ。
しかし、真白は今度はすぐに文字を書かなかった。少しだけ寂しそうな、だけどすぐにいつもの悪戯っぽい表情に戻ると、ノートにこう書き込んできた。
『ふーん、せいせいするんだ。冷たいなあ。でもね、宮本くん。私は席が離れても、毎日宮本くんの席までからかいに行くからね?』
「……っ」
蓮は思わず声が出そうになり、慌てて口元を手で押さえた。
席が離れても関係ない、と言わんばかりのストレートな言葉に、胸の奥がドクンと大きく跳ね上がる。
真白はノートを引っ込めると、今度は直接、蓮の方を向いて小さく囁いた。もちろん、先生に聞こえないような、蚊の鳴くような小声だ。
「ねえ、宮本くん。勝負しない?」
「……何の勝負だよ」
蓮も前を向いたまま、口元だけを動かして小声で返す。
「次の席替えでね、私と宮本くんの席が『隣同士になる』か『離れちゃう』か、どっちか当てるの」
「そんなの勝負でも何でもないだろ。ただのくじ引きの確率なんだから」
「いいじゃん。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の放課後、また私がたい焼き奢ってあげる。でも、私が勝ったら……今度は宮本くんが、私の言うことを何でも一つ聞いてね」
「何でも一つって……変な命令する気だろ」
「そんな変なことは言わないよ。……さあ、どっち? 宮本くんの予想は?」
真白は机の下で、蓮のブレザーの袖をツンツンと小突いてきた。
蓮は天井を見上げ、確率を計算した。クラスの人数は30人。その中で特定の二人が隣同士になる確率は、とんでもなく低い。普通に考えれば「離れる」に賭けるのが絶対的に正しい。
しかし、蓮の頭の中に、今朝の相合い傘のときの真白の言葉が蘇った。
『宮本くんとなら、誤解されても別に嫌じゃないもん』
もしここで僕が「離れる」と答えたら、それはまるで、自分が真白と離れたがっているかのように聞こえてしまうのではないか。逆に「隣同士になる」と答えたら、真白のことが好きで、離れたくないみたいに思われてしまう。
(どっちを答えても、あいつのからかいのネタになる……! 本当にズルいな、真白さんは)
蓮は深く息を吐き出し、意を決してノートの端に答えを書いた。
『隣同士になる、に決まってるだろ。僕の運の良さを舐めるなよ』
本当は、ただの意地だった。離れたくないという本音を、運の良さという言葉でカモフラージュしたのだ。
真白は蓮の書いた文字を見ると、一瞬、本当に驚いたように目を見開いた。そして、彼女の白い頬が、冬の午後の日差しを浴びて、かすかに桜色に染まっていくのが見えた。
真白は自分のノートに、今日一番の小さな文字で、こう書き込んだ。
『私も、隣同士になる方に賭ける。だから、宮本くんの勝ち。放課後、たい焼き屋さん行こうね』
(え……?)
蓮が驚いて真白の顔を見ると、彼女はもう完全に前を向いて、真面目な顔で自習の教科書を眺めていた。だが、マフラーに隠しきれていない彼女の耳たぶが、これ以上ないほど真っ赤に染まっているのを、蓮は見逃さなかった。
お互いに「隣同士になる」と予想したため、勝負としては最初から引き分け、あるいは蓮の勝ちということになる。真白が自分のマフラーに顔を深くうずめ、それ以上こちらを見ようとしない姿を見て、蓮は自分が仕掛けたわけでもないのに、なんだか猛烈に恥ずかしくなってきた。
自習の終わりを告げる時間が近づき、教室内が少しずつざわつき始める。
蓮は自分のノートに視線を戻したが、結局、自習時間の最後まで数式は一行も増えなかった。
席替えの噂が本当かどうかはまだ分からない。くじ引きの結果がどうなるかも神様しか知らない。
けれど、隣の席の少女が、自分と同じように「離れたくない」と思ってくれているかもしれないという、その贅沢な可能性だけで、蓮の胸の奥の熱は、どこまでも心地よく高まり続けていくのだった。




