第69話:雨の日の相合い傘
朝から空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、冷たい冬の雨が途切れなく街を濡らしていた。
宮本蓮は、右手に持ったネイビーの折りたたみ傘を差し、濡れたアスファルトを踏みしめながら通学路を歩いていた。雨粒が傘の布地を叩くリズミカルな音が、静かな朝の空気に響いている。雪にならなかっただけマシかもしれないが、水を含んだ空気は一段と冷たく、息を吐き出すとすぐに白く濁って消えた。
(……さすがに今日の雨じゃ、あいつもいつもの調子でからかってくる余裕はないだろ)
蓮はそんなことを考えながら、学校へと続く緩やかな坂道のふもとに差し掛かった。
すると、前方の電柱の陰に、見覚えのある制服姿の少女が立ち往生しているのが見えた。お団子頭にまとめた髪に、首元にはお馴染みのチェック柄のマフラー。白石真白だった。
彼女は自分のカバンを抱えるように持ち、困ったような顔で空を見上げている。その手には傘がなかった。
「真白さん? どうしたんだよ、そんなところで」
蓮が声をかけながら近づくと、真白はハッとしたように顔を上げ、それからいつものように嬉しそうに目を細めた。
「あ、宮本くん! おはよ。……実はね、家を出るときは降ってなかったから、傘を忘れちゃったの。駅を出たら急に本降りになっちゃって、どうしようかと思ってたところ」
「予報で雨だって言ってたじゃんか。相変わらず抜けてるな……」
蓮が呆れたように言うと、真白はわざとらしくショックを受けたような顔をして、マフラーに口元をうずめた。
「ひどいなあ。抜けてるんじゃなくて、うっかりしてただけだよ。……ねえ、宮本くん」
真白は一歩、蓮の傘の内側へとトコトコと足を進めてきた。
蓮の持つ折りたたみ傘は、男子中学生が一人で使うには十分な大きさだが、二人で入るとなると当然、お互いの体を引き寄せ合わなければいけないサイズだった。
「何だよ……」
「学校まで、あと歩いて5分くらいでしょ? 一緒に傘、入れてくれない?」
真白は上目遣いで、蓮の瞳をじっと見つめてきた。
断る理由なんてあるはずがなかった。こんな冷たい雨の中、クラスメイトを、しかもいつも隣にいる真白を濡らしたままにするわけにはいかない。
「……しょうがないな。ほら、入りなよ。でも、折りたたみだから狭いぞ」
「うん、ありがと! 宮本くんってやっぱり優しいね」
真白は嬉しそうに笑うと、蓮のすぐ隣へと滑り込んできた。
その瞬間、蓮の全身の細胞が緊張でカチコチに強張った。
至近距離から、真白の衣服の匂いや、雨の匂いに混ざったあの甘いシャンプーの香りが一気に漂ってくる。歩くたびに、真白の肩や腕が、蓮のブレザーの袖に何度も触れた。普段の教室での距離よりも、今のほうが明らかに近かった。
二人は並んで坂道を歩き出したが、雨の音だけがやけに大きく聞こえ、妙な沈黙が流れた。
蓮は傘が真白の方に多くかかるように、右手で持つ柄の位置を少しだけ左側に傾けた。そのため、蓮の右肩には冷たい雨粒が容赦なく吹き付けていたが、そんなことは真白に気付かれたくなかった。
「ねえ、宮本くん」
静寂を破ったのは、真白の少し弾んだ声だった。
「な、何だよ」
「今さ、私たちが一つの傘に入って歩いてるの、後ろから見たらどう見えると思う?」
「どうって……ただのクラスメイトが傘を分け合ってるだけにしか見えないだろ」
蓮はあえて冷淡に答えたが、内心では「相合い傘」という単語が頭の中でぐるぐると回って、顔が熱くなりそうだった。
「えー、冷たいなあ。普通はね、こういうの『相合い傘』って言って、ちょっと特別な関係に見えちゃうんだよ? もしクラスの人に見られたら、付き合ってるって誤解されちゃうかもね」
真白は蓮の顔を覗き込むようにして、ニヤニヤと笑った。
(やっぱり、そうやってからかってくると思った……! でも、今日の僕は昨日までの僕とは違うぞ。昨日ベッドの中で、もし相合い傘になったときのシチュエーションも、一応想定してたんだ!)
蓮はゴホンと一つ咳払いをすると、冷静さを保ったまま、真白に問い返した。
「別に誤解されたって平気だよ。だって、僕たちが付き合ってないのは事実なんだし。それに……真白さんこそ、僕なんかと相合い傘してて恥ずかしくないのか? ほら、女子のほうがそういうの、気にするだろ?」
やり返した、と蓮は思った。
女子のほうが周囲の目を気にするはずだ。そう言われれば、真白も少しは照れるか、言い淀むに違いない。
しかし、真白は一瞬だけ驚いたように瞬きをした後、さらに深くマフラーに顔をうずめて、くすくすと肩を揺らした。
「全然恥ずかしくないよ? だって、宮本くんとなら、誤解されても別に嫌じゃないもん」
「っ……!?!?」
蓮の思考回路が、一瞬でショートした。
(嫌じゃない……って、どういう意味だよ……!)
脳内で爆弾が爆破したような衝撃が走り、蓮の手元が大きくぶれた。傘が激しく揺れ、パラパラと大きな雨粒が二人の頭上に落ちてくる。
「わっ、冷たい! 宮本くん、傘しっかり持ってよー」
「あ、ご、ごめん! ちょっと手が滑って……」
蓮は慌てて傘を持ち直したが、自分の顔がこれ以上ないほど真っ赤になっているのが、自分自身でもはっきりと分かった。真白の言葉が本気なのか、それとも蓮を動揺させるためだけの超高等テクニックなのか、もう蓮の頭では処理が追いつかない。
真白はそんな蓮の狼狽ぶりを見て、満足そうに「ふふん」と鼻を鳴らした。
「宮本くん、今すごい顔赤くなってる。私の勝ち、ね」
「勝ち負けなんて言ってないだろ! ……大体、真白さんはいつもそうやって、思わせぶりなことばっかり言うから……」
蓮は悔し紛れにそっぽを向いた。
坂道を登りきると、学校の正門が見えてきた。他の生徒たちも、色とりどりの傘を差しながら昇降口へと吸い込まれていく。
校舎の軒下に入り、蓮が折りたたみ傘をパタパタと振って水気を切っていると、真白は自分の服についた雨粒を払いながら、蓮の右肩に目を留めた。
「あ、宮本くん。右肩、すっごく濡れてるよ」
真白が指摘した通り、蓮のブレザーの右半分は、雨を浴びてぐっしょりと色が変わっていた。
「あー……折りたたみだからさ、やっぱり狭かったんだよ。これくらい平気だよ」
蓮が何気なく答えると、真白は少しだけ真面目な顔をして、蓮の濡れた肩をじっと見つめた。それから、自分のカバンから小さなハンドタオルを取り出すと、蓮の右肩にそっと押し当てて、優しく水分を拭き取り始めた。
「えっ、おい、真白さん……! 自分でするからいいって!」
「ダメだよ。風邪ひいちゃうでしょ。……私のために、傘を傾けてくれてたんだよね。ありがと、宮本くん」
真白はタオルを動かしながら、少しだけ声を低くして、小さく微笑んだ。
その笑顔には、いつもの蓮をからかうような意地悪さは微塵もなかった。ただ純粋に、蓮の優しさを嬉しく思っているような、そんな温かい表情だった。
至近距離でそんな顔をされた蓮は、もう言葉も出ず、ただ大人しく真白に肩を拭かれるがままになっていた。心臓がうるさいほどの音を立てていたが、雨の日の校舎の喧騒が、それを上手くかき消してくれているのだけが救いだった。
「よし、これで大丈夫。……じゃあ、教室で行こ?」
真白はタオルをポーチにしまうと、いつもの明るい笑顔に戻って、トコトコと階段を上り始めた。
一人残された蓮は、自分の濡れた右肩に手を当て、まだそこに残っている真白のタオルの感触と、彼女の言葉を反芻していた。
(嫌じゃない、か……。本当に、あいつの考えてることは全然分からないな)
からかわれてばかりで悔しいはずなのに、胸の奥にある熱は、冷たい雨の朝だというのにちっとも冷める気配がなかった。
蓮は深く息を吸い込み、赤みが引かない顔を隠すようにカバンを抱え直すと、少し前を歩く彼女の背中を追いかけて、ゆっくりと階段を上り始めるのだった。




