第68話:帰り道のたい焼き
すべての授業が終わり、終礼の挨拶が終わると同時に、教室内は一気に賑やかな放課後の喧騒に包まれた。
宮本蓮が少しホッとしたようにカバンを肩にかけると、隣の席の白石真白も、すでに完璧に帰る支度を終えてこちらを見ていた。お昼休みに「好きなタイプ」の話題で散々からかわれたせいで、蓮はまだ少しだけ真白の顔をまっすぐ見ることができない。
「宮本くん、行こ?」
真白はマフラーに顎をうずめながら、いつものようにトコトコと先に歩き出した。
「あ、ああ。待てよ」
蓮は少し遅れて彼女の隣に並び、静まり返り始めた廊下を歩き出した。
夕暮れのオレンジ色の光が、長い窓から差し込み、二人の影をコンクリートの床に長く伸ばしている。部活動の掛け声が遠くから響く中、二人は昇降口でローファーに履き替え、校舎の外へと出た。
外に出た瞬間、昼間の日差しが嘘のように、厳しい冬の冷気が容赦なく肌を刺した。
風が吹くたびに、グラウンドの隅に残った雪の結晶がキラキラと空中を舞っている。
「うわ、さむっ……。昨日より冷え込んでないか?」
蓮がブレザーの襟を立てて身を縮こまらせると、真白はカバンを両手で持ちながら、ふふっと楽しそうに笑った。
「寒いねえ。でもね、宮本くん。今日はいいことがあるよ」
「いいこと?」
「うん。昨日のいちごオレのお礼、今からさせてね。校門の近くの商店街に、すっごく美味しいたい焼き屋さんがあるの。そこで私が宮本くんに奢ってあげる」
「え、たい焼き?」
蓮は思わず目を輝かせた。冬の寒い日に食べる温かいたい焼きは、想像しただけでお腹が鳴りそうだ。
「そう、たい焼き。でもね、宮本くん」
真白は歩みを止め、校門へと続く緩やかな坂道の途中で振り返った。
夕日に照らされた彼女の瞳が、いたずらっぽく細められる。
「ただ奢るんじゃ、つまらないでしょ? だから、お店に着くまでに『勝負』をしよう」
(やっぱり勝負か……)
蓮は警戒して一歩身を引いた。お昼休みにも手痛いからかいを受けたばかりだ。ここでまた真白のペースに巻き込まれるわけにはいかない。
「何の勝負だよ。僕が勝ったら、本当に奢ってくれるんだろうな?」
「もちろん。もし宮本くんが勝ったら、たい焼きを『2個』奢ってあげる。でも、もし私が勝ったら……宮本くんが私の分も合わせて、二人分のお代を払ってね」
「それ、結局僕が奢ることになるかもしれないじゃんか!」
「あはは、ばれた? でも、宮本くんが勝てばいいだけだよ。ルールは簡単。今からお店に着くまでの間に、私が『何回マフラーに顔をうずめるか』を当てるの」
真白は首元のチェック柄のマフラーを指差した。
「はあ? 何だよその勝負。真白さんが自分で回数をコントロールできるんだから、僕が何回って言っても、わざと回数を増やしたり減らしたりできるだろ。昨日の体育の勝負と同じズルじゃんか」
蓮が不満げに指摘すると、真白は「ちがうよー」と人差し指をチッチッと横に振った。
「今回は、私が嘘をつけないようにするの。今からお店に着くまで、私がマフラーに顔をうずめたら、その都度、宮本くんの目の前で分かりやすく『はぁー』って白い息を吐くから。宮本くんは、それを数えていればいいだけ。……どう? これならズルできないでしょ?」
蓮は少し考えた。確かに、真白がマフラーに顔を埋めて息を吐き出す瞬間をしっかり見ていれば、ごまかしは効かない。
学校から商店街のたい焼き屋までは、歩いてだいたい10分。この寒さなら、頻繁に顔をうずめたくなるはずだ。
「……分かった。じゃあ、その勝負乗った。回数の予想は、いつ言えばいいんだ?」
「お店の前の横断歩道を渡る前ね。それまでは、じっくり私のこと観察してていいよ」
真白はトコトコと再び歩き出した。
蓮は彼女の少し斜め後ろを歩きながら、全神経を真白の首元へと集中させた。
(よし。お店までの距離と、この寒さ……。真白さんは寒がりだから、きっと1分に1回は顔をうずめるはずだ。いや、僕を惑わせるために、わざと我慢して回数を減らしてくる可能性もあるな。しっかり見ておかないと)
しばらく歩いていると、さっそく真白の肩が少しすくんだ。
彼女はマフラーを鼻先まで引き上げると、蓮の方を振り返って「はぁー」と白い息を吐き出した。
「これで、1回ね」真白が楽しそうに言う。
「分かってるよ。見逃さないからな」
蓮は頭の中のカウンターを『1』に進めた。
その後も、二人は他愛のない冬の学校の出来事について話しながら、商店街へと向かった。真白は風が強く吹くたびに、あるいは会話の合間に、トコトコと歩きながらマフラーに顔をうずめ、その度に蓮の正面を向いて「はぁー」と息を吹きかけてみせた。
「はい、2回目」
「3回目だよ、宮本くん」
商店街の入り口が見えてくる頃には、カウントは『6』に達していた。
(現在6回。お店は商店街に入ってすぐのところだから、あと歩いて2分くらいか。このペースなら、あと1回か2回……。いや、真白さんのことだ。僕が『7回』か『8回』で迷うのを見越して、あえてここから猛スパートをかけてくるか、あるいは完全に動きを止めるか……)
蓮は真白の横顔をじっと凝視した。
商店街の中に入ると、周囲のお店から香ばしい出汁の匂いや、甘いお菓子の匂いが漂ってくる。そして目的のたい焼き屋の看板が見え、その手前にある最後の横断歩道へと差し掛かった。信号はちょうど赤。二人は足を止めた。
「さあ、宮本くん。ここで予想を聞かせて?」
真白が蓮の方を向き、試すような綺麗な瞳でじっと見つめてきた。
現在のカウントは『6』のままだ。
蓮は必死に思考を巡らせた。
(ここで『6回』と答えたら、あいつは絶対に、僕が言い終わった瞬間にマフラーに顔をうずめて『7回でしたー』って言うに決まってる。あいつの性格なら、絶対に最後に一回仕掛けてくるはずだ!)
「……7回だ!」
蓮は自信を込めて言い放った。
「僕が『7回』と言った瞬間に、真白さんはマフラーに顔をうずめるはず。だから、それで合計7回になって僕の勝ちだ!」という完璧なロジック。
しかし、真白は蓮の予想を聞くと、ふふっと嬉しそうに目を細めた。そして、マフラーには一切触れず、ただ両手を口元に当てて、普通に「はぁー」と息を吐き出した。
「ザ・ン・ネ・ン。正解は『6回』でした。私はもうマフラーに顔をうずめる気はありませーん」
「えっ!? あ、ずるいぞ! 最後に仕掛けてこないなんて!」
「ズルくないよ。宮本くんが勝手に、私が最後に仕掛けてくるって深読みしただけでしょ? 深読みしすぎは負けの元だよ、宮本くん」
真白は勝ち誇ったように笑うと、ちょうど青に変わった信号をトコトコと渡っていった。
(またやられた……! あいつ、僕の裏の裏をかいて、あえて何も動かないっていう選択をしたんだ……!)
蓮はガックリと肩を落としながら、彼女の後を追って横断歩道を渡った。
たい焼き屋の前に着くと、ガラスケースの向こうで、黄金色に焼き上がったたい焼きが湯気を立てて並んでいた。
「はい、というわけで宮本くんの負け。約束通り、二人分お買い上げよろしくね」
真白は財布を出そうとする蓮を、少し意地悪に、だけど本当に楽しそうに見つめている。
「……分かったよ。粒あんでいいんだろ?」
「うん、粒あんで!」
蓮が二人分の代金を支払い、紙袋に包まれた温かいたい焼きを2個受け取った。
袋越しにもしっかりと伝わってくる熱が、凍えそうだった蓮の手のひらをじんわりと温めていく。
蓮は真白に1個手渡した。真白は「わーい、ありがとう!」と両手で受け取ると、紙袋を少し開けて、たい焼きの頭のほうから小さく一口、ぱくりと齧り付いた。
「んー! あったかくて、あんこが甘くて最高に美味しい!」
真白は幸せそうに頬を緩め、ハフハフと口を動かしている。その姿を見ていると、勝負に負けた悔しさなんて、本当にどうでもよくなってしまうから不思議だ。
蓮も自分のたい焼きを一口食べた。パリッとした皮の中に、程よい甘さのあんこが詰まっていて、冷え切った体にその温もりが染み渡っていく。
「……確かに、美味いな」
「でしょ? 私のオススメのお店なんだから」
二人はたい焼きを食べながら、駅へと続く夕暮れの道を再び歩き出した。
周囲の街灯がぽつぽつと灯り始め、家路を急ぐ人々の足音が響いている。
歩きながら、真白は手の中の半分ほどになったたい焼きを見つめ、それから蓮の顔を覗き込んだ。
「ねえ、宮本くん。今日の勝負、悔しかった?」
「悔しいよ。真白さんには全然勝てないし、結局僕が奢ることになったしさ」
蓮が少しだけ拗ねたように言うと、真白はクスッと笑って、自分のポケットから、昨日蓮が渡したあの使い捨てカイロを取り出して見せた。
「でもね、このカイロのおかげで、今日お店に着くまで、私そんなに寒くなかったんだよ? だから、マフラーに顔をうずめる回数も、思ったより少なくて済んじゃったの」
「え……?」
「宮本くんが昨日、私に優しくしてカイロなんてくれるから、今日の勝負、私の回数が減っちゃったんだよ? だから、宮本くんが負けたのは……宮本くんが優しかったせい、だね」
真白はそう言うと、残りのたい焼きをぱくりと口に放り込み、満足そうにマフラーに深く顔をうずめた。そして、そのまま少しだけ前をトコトコと歩いていく。
蓮は手の中のたい焼きを見つめたまま、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
(僕が優しくしたせいで、あいつの回数が減って、僕が負けた……?)
それが本当の理由なのか、それともまた蓮を照れさせるための、彼女の高度なからかいのセリフなのかは分からない。ただ、夕暮れの街灯の光に照らされた真白の耳たぶが、たい焼きの熱のせいだけとは思えないほど、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
「……あいつ、本当にズルいな」
蓮は自分の顔がこれ以上ないほど熱くなっているのを自覚しながら、足早に彼女の隣へと並んだ。
冬の風はどこまでも冷たいはずなのに、二人の間にある空気だけは、焼き立てのたい焼きのように、どこまでも温かく満ちているのだった。




