第66話:放課後のいちごオレ
キーンコーンカーンコーン――。
すべての授業の終わりを告げる終業のチャイムが鳴り響くと、教室内は一気に解放感に包まれた。部活動へ向かう生徒たちが慌ただしくカバンを持って飛び出していき、残った生徒たちも雑談を交わしながら帰りの支度を始めている。
宮本蓮は、机の上の筆記用具をカバンに詰め終えると、隣の席をチラリと盗み見た。
白石真白は、すでに帰る準備を完璧に終えており、椅子の背もたれに体を預けて、じっと蓮のことを見つめていた。その瞳には、早くも勝利者の余裕が満ち満ちている。
「宮本くん、準備できた?」
真白はマフラーを首に巻き直しながら、クスッと笑った。
「……できてるよ。約束だろ、行けばいいんだろ」
蓮は少しだけ悔しそうな声を装いながら、カバンを肩にかけた。
実際には、悔しさよりも「これから真白と二人で購買へ行く」という事実に対する微かな緊張の方が勝っていた。照れ隠しのために、わざとぶっきらぼうな態度をとってしまうのは、蓮の悪い癖だった。
二人は並んで教室を出て、静まり返り始めた冬の廊下を歩き出した。
夕暮れのオレンジ色の光が、長い廊下の窓から差し込み、二人の影をコンクリートの床に長く伸ばしている。
校舎の1階にある購買部へと続く階段を下りながら、蓮はふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、真白さん。本当に『真ん中の柱』が基準だったのか? 実は僕が『左』って答えたから、咄嗟に嘘ついて『右でした』って言ったんじゃないの?」
蓮のジト目に、真白は歩みを止めることなく、楽しそうに首を横に振った。
「違うよー。私はそんなズルいことしないもん。神様に誓って、最初から頭の中で『真ん中の柱』って決めてたよ。宮本くんが私のフェイントに引っかかって、手前の足ばっかり見てたのが悪いの」
「フェイントって……やっぱり確信犯じゃないか」
「あはは、ばれた? でも、勝負は勝負だからね」
真白はトコトコと階段を小走りで下りていく。その軽やかな背中を見つめながら、蓮は「やっぱり敵わないな」と小さく溜め息を吐いた。
放課後の購買部は、昼間の大混雑が嘘のようにひっそりとしていた。
お弁当やパンの棚はすでに空っぽで、奥にある大きな飲料用冷蔵庫の明かりだけが、薄暗い空間にぽつんと灯っている。
蓮は冷蔵庫の前に立ち、ガラス扉を開けた。中には数本の紙パック飲料が並んでいる。その中から、真白が指定した「いちごオレ」を1本取り出した。それと同時に、自分用としてパックの緑茶を手に取る。
購買のおばちゃんに代金を支払い、ストローを2本受け取って、蓮は真白にいちごオレを差し出した。
「はい、約束のやつ」
「わーい、ありがと、宮本くん」
真白は嬉しそうに両手でいちごオレを受け取ると、パックの角を器用に開けてストローを差し込んだ。そして、ちゅーっと一口美味しそうに飲むと、ふにゃりと目を細めた。
「んー、やっぱり冷たくて甘いものは最高だね。特に、宮本くんに奢ってもらったやつは一段と美味しい気がする」
「……ただの市販のいちごオレだろ。誰が買っても味は同じだって」
蓮は照れくささを隠すように、自分の緑茶のストローを突き刺して一気に煽った。冷たい液体が喉を通る感覚が、火照りそうになる顔を少しだけ静めてくれるような気がした。
「宮本くんは緑茶なんだ。渋いねえ」
「僕は甘すぎるの苦手だから。ほら、もう約束は果たしたし、寒くならないうちに帰ろう」
「うん、そうだね」
二人は購買部を後にし、昇降口へと向かった。
靴をローファーに履き替え、校舎の外へ出ると、一気に厳しい冬の冷気が二人を襲った。夕方の風は冷たく、グラウンドの隅に残った雪がサラサラと音を立てて風に舞っている。
真白はいちごオレのパックを両手で包むように持ちながら、蓮の少し斜め前を歩いていた。
「ねえ、宮本くん」
「ん?」
「さっきの体育の勝負さ、本当に悔しかった?」
真白が不意に振り返り、歩きながら後ろ向きの姿勢になった。
「そりゃ悔しいよ。1/2の確率だし、絶対当たると思ってたからさ。今度はもっとちゃんとしたルールで勝負して、真白さんを負かしてやる」
蓮が意気込んで言うと、真白は一瞬、何かを考えるように視線を落とした。そして、ちゅーっといちごオレをもう一口飲んでから、いたずらっぽく、だけど少しだけ真剣な瞳で蓮を見つめた。
「じゃあさ、今ここで、もう一回だけ勝負する?」
「え? 今から? 何の勝負だよ」
蓮は足を止め、真白と対峙した。校門へと続く緩やかな坂道の途中で、二人の足が止まる。
真白は手の中のいちごオレを少しだけ持ち上げ、ニヤリと笑った。
「今から私が、このいちごオレを何口で飲み干すか、宮本くんが当てるの。今の時点で、だいたい半分くらい残ってるかな」
「またそんな、当てずっぽうな勝負を……」
蓮は呆れたように言ったが、すぐに頭を働かせた。
(待てよ。残りは半分くらい。紙パックのサイズからして、真白さんの一口の量を考えれば、だいたい3口か4口……。いや、あいつのことだ。『1口で一気に飲む』なんて男前なことはしないだろうし、かと言って細かく刻んでくるか……?)
蓮は真白の顔をじっと観察した。彼女は「さあ、どっち?」と、蓮の回答を待っている。
「……じゃあ、4口。真白さん、意外と一口が小さいから、4口くらいかかるだろ」
蓮が自信ありげに答えると、真白はふふっと不敵な笑みを浮かべた。
「正解は――」
真白はそう言うと、ストローをくわえ、ちゅーーーっと、信じられない長さでいちごオレを吸い込み始めた。パックがペキペキと音を立てて内側に凹んでいく。
真白の頬がぷっくりと膨らみ、彼女は一生懸命に飲み進めていく。
(まさか、一気に全部いく気か!?)
蓮が驚いて見守る中、ズズズ……と、ストローが底の空気を吸い込む音が静かな坂道に響いた。
真白はゴクンと大きな音を立ててそれを飲み干すと、「ぷはっ」と息を吐き出し、空になったパックを蓮に見せてみせた。
「正解は、1口でしたー! 宮本くん、またハズレ!」
「おいおい! さっきまでちびちび飲んでたのに、急にそんな一気飲みするなんてズルいだろ!」
「ズルくないよ。何口で飲むかは、私の自由だもん。宮本くん、私の胃袋を侮りすぎだよ?」
真白は勝ち誇ったように胸を張ったが、さすがに冷たいいちごオレを大量に一気飲みしたせいで、急に「頭がキーンとする……」と言って、おでこを押さえてしゃがみ込んでしまった。
「ほら、言わんこっちゃない。無理するからだろ」
蓮は呆れながらも、思わずクスッと笑ってしまった。
いつもは完璧に自分をからかってくる真白が、勝つために無理をして自爆している姿が、なんだか無性に愛らしく思えたのだ。
蓮はしゃがみ込む真白の前に腰を落とし、自分のポケットから、まだ使っていない温かい使い捨てカイロを取り出して、彼女の白くて小さな手に握らせた。
「ほら、これ使いなよ。頭キーンとしてるなら、手のひら温めるだけでも少しは楽になるから」
「……ありがと、宮本くん」
真白はカイロを両手でギュッと包み込み、ゆっくりと立ち上がった。
その頬は、冷たいものを飲んだせいなのか、それとも蓮の突然の優しさに触れたせいなのか、夕暮れの赤色よりも少しだけ濃いピンク色に染まっていた。
「宮本くんって、たまにすごく優しいよね」
「……別に、普通だよ。風邪ひかれたら寝覚めが悪いし」
蓮は慌てて立ち上がり、先に歩き出した。
真白もその後ろを、トコトコとついてくる。
「ねえ、宮本くん」
「今度は何だよ」
「今日の勝負は私の2連勝だけど……いちごオレ、すっごく美味しかったから、次の勝負で宮本くんが勝ったら、今度は私が何か奢ってあげるね」
「……別に、奢ってもらうために勝負してるわけじゃないって」
「じゃあ、何のために私と勝負してくれてるの?」
真白が横に並び、蓮の顔を覗き込んできた。
その問いに、蓮は言葉を詰まらせた。
(何のためって……。あいつにからかわれて悔しいから、言い返したいから……。いや、本当は――)
本当は、こうして真白と他愛のないことで言い合ったり、彼女の百点満点の笑顔を見たりする時間が、自分にとっても心地いいからだ。という答えが、頭の片隅に浮かんで消えた。だが、そんな恥ずかしいセリフを口にできるわけがない。
「……真白さんに、一回くらい『参りました』って言わせたいだけだよ」
蓮がそっぽを向いて答えると、真白は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから今日一番の、本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきて。でも、私は絶対に負けないからね?」
「見てろよ、明日の勝負こそ、僕が勝つからな」
冬の夕暮れ、冷たい風が吹く帰り道。
二人の歩幅は、いつの間にかぴったりと揃っていた。
恋愛というにはまだ少し遠く、だけどただの友達というにはあまりにも近すぎる、そんな二人の焦れったい距離感のまま、静かな坂道をゆっくりと下りていくのだった。




