第65話:冬晴れのグラウンド
キーンコーンカーンコーン――。
4時間目の始まりを告げるチャイムが学校中に響き渡った。
男子更衣室で急いで紺色のジャージに着替えた宮本蓮は、寒さに身を縮こまらせながらグラウンドへと向かった。
午前中の冷え込みが嘘のように、昼前の太陽は冬特有の澄んだ光をいっぱいに降らせている。しかし、グラウンドの隅には昨日降った雪がまだうっすらと残っており、吹き抜ける風は容赦なく肌を刺した。
「うわ、寒っ……。なんでこんな日に外でサッカーなんだよ」
クラスメイトの男子たちとそんな愚痴をこぼしながら、蓮はグラウンドの中央へと歩いていく。
すでに女子クラスメイトたちも集まっており、彼女たちはグラウンドの反対側でビブスを分け合っていた。女子の今日の種目は長距離走、いわゆる持久走らしい。
蓮が何気なく女子の集団に目をやると、お団子頭に髪をまとめた白石真白の姿がすぐに目に入った。
彼女もまた、寒そうにジャージの袖を手の甲まで伸ばし、両手を口元に当てて「はぁー」と白い息を吹きかけている。蓮の視線に気づいたのか、真白はふっと顔を上げると、遠くからでもよく分かるように、いたずらっぽく片手を小さく振ってきた。
蓮は慌てて目を逸らし、男子の列へと加わった。
(……あぶないあぶない。朝も1時間目も、あいつのペースに巻き込まれっぱなしだったんだ。体育の時間くらいは、自分の競技に集中して、余計な動揺をしないようにしないと)
男子のサッカーの授業が始まった。
蓮はミッドフィルダーのポジションに入り、寒さを吹き飛ばすようにグラウンドを駆け回った。ボールを追いかけ、パスを回している間は、さすがに余計なことを考える余裕はなくなる。冷たい空気が肺に流れ込み、額にはじわりと汗が浮かんできた。
しばらくして、前半のミニゲームが終わり、作戦会議を兼ねた短い給水休憩に入った。
蓮が息を切らせながらグラウンドの端にある給水所へ向かうと、ちょうどトラックを周回していた女子の持久走グループが、トコトコとスピードを落としてこちらに近づいてくるのが見えた。
その先頭を走っていたのは、意外にも真白だった。
彼女は息を弾ませながらも、蓮の姿を見つけると、わざわざ進路を少しだけ蓮のいるベンチの方へと変えてきた。
「……お疲れさま、宮本くん」
真白はスピードを緩め、歩きながら蓮に声をかけてきた。
その頬は、冬の寒さと運動のせいで、綺麗なリンゴ色に染まっている。額には薄っすらと汗の粒が浮かび、首元からは温かそうな湯気がうっすらと立ち上っているようだった。
「あ、うん。真白さんもお疲れ。持久走、結構きついだろ」
蓮がペットボトルの水を飲みながら答えると、真白はふふっと小さく笑って、自分のジャージの胸元をパタパタと仰いだ。
「きついよー。でもね、宮本くんがそっちで一生懸命ボールを追いかけてるのが見えたから、がんばっちゃった」
「なっ……!」
蓮は思わず水を吹きそうになった。
「またそういうことを平気で言う……!」と抗議しようとしたが、真白はすかさず人差し指を口元に当てて、「シー」と制するポーズをとった。
「ねえ、宮本くん。また勝負しない?」
「は? ここでかよ? 競技中だぞ?」
「うん。次の私の周回でね、私がこのベンチの前を通り過ぎる時、私が『右』と『左』のどっちの足を先に出して通り過ぎるか、宮本くんが当てるの」
真白は楽しそうに目を輝かせながら、とんでもなくニッチな勝負を持ちかけてきた。
「なんだよそれ。そんなの完全に1/2の確率だし、運じゃんか」
「運じゃないよ。宮本くんが私のことをちゃんと見ててくれたら、きっと分かるよ? もし宮本くんが勝ったら……うーん、今日の放課後、購買のいちごオレを奢ってあげる」
「え、本当に?」
甘いものに目がない蓮にとって、購買のいちごオレは魅力的な提案だった。
「本当だよ。じゃあ、私が負けたら……宮本くんが私に、いちごオレを奢ってね。はい、約束」
真白はそれだけ言うと、再びトコトコと軽い足取りでトラックの列へと戻っていった。
一人残された蓮は、手の中のペットボトルを見つめながら眉をひそめた。
(『右』か『左』か……。ベンチの前のラインをまたぐ瞬間の足なんて、普通は意識してコントロールできるものなのか? いや、あいつのことだ。きっと何か仕掛けがあるに違いない)
男子の後半のミニゲームが始まったが、蓮の意識の数パーセントは、どうしてもトラックを走る真白の姿に向いてしまっていた。
トラックは一周約200メートル。女子の走るペースからして、あと1分ほどで真白がこのベンチの前に帰ってくるはずだ。
(あいつの歩幅と走るリズムを計算すれば、予測できるか……? いや、そんなのプロの科学者でもなきゃ無理だ。真白さんは、僕が慌てるのを見て楽しみたいだけなんだろう。だったら……!)
蓮は、ゲームの合間に視線をトラックへと走らせた。
真白のグループが、最後の直線に入ってくる。彼女は集団の少し前を走っており、ちょうど蓮のいる給水ベンチの対角線上に差し掛かっていた。
(よし、じっくり見てやる。あいつがどっちの足を意識的に踏み出そうとするか、その一瞬の挙動を見逃さなければいいんだ)
真白がぐんぐんと近づいてくる。
彼女は前を向いて走っていたが、ベンチまであと5メートルというところで、不意に視線を蓮の方へと向けた。そして、悪戯が見つかった子供のような、何とも言えない絶妙な微笑みを浮かべたのだ。
その瞬間、蓮はハッとした。
(あ、歩幅を微調整してる……!?)
真白の足元を見ると、ベンチの真横に設定された「見えないライン」に合わせるように、彼女のステップが一瞬だけ小さくなった。意図的にどちらかの足を合わせにいっている証拠だ。
(右か? 左か? あいつは右利きだから、強く踏み込むのは右足……。いや、僕がそう考えるのを見越して、左足を出してくる可能性の方が高いか!?)
思考がぐるぐると渦巻く中、真白がまさにベンチの真横を通過するその瞬間が訪れた。
彼女の体が一歩を踏み出す。
蓮の目に飛び込んできたのは、白い運動靴の『左足』だった。
真白は左足をしっかりと地面につけ、蓮の方を見て、にやっと意味深に笑って通り過ぎていった。
(左だ……! 左足だった!)
蓮は心の中で叫んだ。
その後、男子のサッカーの授業も無事に終了し、片付けの時間になった。ビブスをカゴに回収し、ボールをネットにまとめていると、授業を終えた女子たちが談笑しながら更衣室へと戻っていくのが見えた。
真白は友達と話しながら歩いていたが、蓮とすれ違う瞬間、わざと少しだけ足を緩めて、声は出さずに口の形だけでこう言ってきた。
『ど・っ・ち?』
蓮は周囲に人がいないタイミングを見計らい、すれ違いざまに小さな声で答えた。
「……左だろ。左足を出してた」
それを聞いた真白は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにいつもの余裕の笑顔に戻ると、人差し指をチッチッと横に振ってみせた。
「ザ・ン・ネ・ン。右でしたー」
「えっ!? なんでだよ! 僕、絶対見たもん! 左足が先に出てたって!」
思わず声を大にしてしまった蓮に、真白の友達が「どうしたのー?」と不思議そうな視線を向けてくる。真白は「なんでもないよー」と笑顔で返しつつ、蓮に向かってノートの端に書くような手つきで、こっそりと人差し指を動かした。
「宮本くんが見てたのは、ベンチの『手前』の足でしょ? 私が心の中で決めてたラインは、ベンチの『真ん中』の柱のところだったんだよ。そこを通った時は、右足だったもん」
「なっ……! そんなの、詐欺だろ! 判定の基準がズルすぎる!」
「ズルくないよー。最初に『ラインはここ』って決めなかった宮本くんの落ち度です。というわけで、宮本くんの負けね」
真白はクスッと笑うと、「いちごオレ、楽しみにしてるね」と言い残し、今度こそ友達と一緒に更衣室の中へと消えていった。
グラウンドに残された蓮は、悔しそうに髪をくしゃくしゃとかき回した。
(また負けた……! あいつ、最初からラインを曖昧にしておいて、僕がどっちを答えても『逆でした』って言うつもりだったんじゃないか……!?)
いや、真白のことだ。本当に彼女の頭の中では、その「真ん中の柱」が基準だったのかもしれない。どちらにせよ、彼女の提示したルールの枠組みの中で踊らされていたことに変わりはなかった。
「……完全にいいようにやられてるな、僕」
蓮はガックリと肩を落としながら、男子更衣室へと向かった。
しかし、悔しがっているはずの自分の胸の奥が、どこか弾むように温かいのを感じていた。
ただの1/2の確率の勝負。学校の、なんてことのない体育の授業のひとコマ。
それでも、真白が自分をからかうために、わざわざ走る歩幅を調整したり、頭の中でマニアックなルールを考えていたのだと思うと、なんだか妙に可笑しくて、そして少しだけ嬉しかったのだ。
(放課後、いちごオレ、ちゃんと冷たいやつを買ってやらないとな……)
蓮はジャージのジッパーを下げながら、窓の外の冬晴れの空を見上げ、小さく微笑むのだった。




