第64話:ノートの余白
朝のホームルームが終わり、1時間目の数学の授業が始まってから15分が経った。
先生の単調な声と、黒板にチョークが当たる規則正しい音だけが教室内を支配している。
宮本蓮は、ノートに数式を書き写しながらも、隣の席からの視線をうっすらと感じていた。
視線だけで隣を窺うと、白石真白は教科書で顔を隠すようにしながら、シャープペンシルの頭をトントンと自分のノートの端に当てていた。
やがて、彼女はサラサラと何かを書き込むと、ノートを少しだけ蓮の机の方へと滑らせてきた。
蓮は先生が黒板に向き直ったのを確認し、素早くそのノートの余白に目を落とした。
『宮本くん、ひま。』
丸っこくて可愛らしい文字がそこにあった。
蓮は小さく溜め息をつき、自分のノートの端に素早く文字を走らせ、真白に見えるように少し傾けた。
『授業に集中しろ。先生にバレたら怒られるぞ。』
それを見た真白は、嬉しそうに目を細めると、すぐに次の文字を書き足してノートを寄せてきた。
『先生、今背中向けてるから平気。それより、勝負しない?』
(また勝負か……)
蓮は眉をひそめた。朝の敗北が頭をよぎる。しかし、ここで無視するのも癪だった。授業中の筆談なら、さっきみたいに大胆なセリフを口頭で攻められる心配もない。文字のやり取りなら、落ち着いて返せるはずだ。
『何の勝負だよ。』
『お互いに、相手の「次の行動」を予想してノートに書くの。当たった方の勝ち。』
なるほど、と蓮は思った。心理戦だ。
これなら真白の行動パターンを読めば勝機はある。
『いいよ。じゃあ先行は僕からな。』
蓮は真白の様子を観察した。彼女は今、シャープペンシルを指先でくるくると回している。
(真白さんの次の行動……。きっと、こっちを見てにやっと笑うか、髪を耳にかけるかだ。いや、裏をかいてくるかもしれない)
蓮は少し考えて、ノートに書き込んだ。
『真白さんは、次に「ため息を吐く」。』
退屈だと言っていたから、これが一番自然な行動のはずだ。
真白は蓮のノートを見ると、フフッと声を出さずに笑った。そして、自分のノートに大きく文字を書いた。
『ハズレ。正解は「宮本くんのノートに落書きする」でした。』
「あ……」
蓮が声を上げそうになった瞬間、真白のシャープペンシルが素早く蓮のノートの余白に侵入してきた。さらさらと描かれたのは、なんとも気の抜けた、下手くそなペンギンのイラストだった。昨日の「ペンギン歩き」のあてつけなのは明白だ。
(くそ、一本取られた……!)
蓮は悔しさに唇を噛みながら、ペンギンの横に書き足した。
『ずるいぞ。じゃあ次は真白さんの番だ。僕の次の行動を当ててみろ。』
真白は顎にシャープペンシルを当て、少し考える素振りをした。それから、迷いのない手つきでノートに文字を走らせる。
『宮本くんは、次に「先生の方を見る」。』
(甘いな、真白さん)
蓮は心の中でにやりと笑った。そう書かれたら、意地でも前(先生の方)なんて見るものか。このまま真白の顔を凝視し続けて、予想を外してやる。
蓮はわざと先生から視線を外し、真白の瞳をじっと見つめ返した。
「どうだ、見ないぞ」という無言の抵抗。
しかし、真白は焦る様子もなく、ただ楽しそうに蓮を見つめ返してくる。
じっと見つめ合っているうちに、蓮はだんだんと恥ずかしくなってきた。真白の綺麗な瞳が至近距離で自分だけを映している事実に、急に意識が向いてしまったのだ。
(う、直視し続けるの、結構きつい……)
耐えきれなくなって視線を逸らそうとした、その時だった。
「――おい、宮本」
突然、教壇の方から太い声で名前を呼ばれた。
「えっ!? は、はい!」
蓮は心臓が跳ね上がり、勢いよく先生の方を向いて直立不動の姿勢をとった。
「そこ、さっきから二人でソワソワして何をやってるんだ。次の問題を解いてみろ」
「あ、ええと……」
蓮が冷や汗を流しながら黒板の数式を睨みつけていると、視界の端で、真白のノートがそっと差し出された。
そこには、先生に気付かれない絶妙な角度で、問題の綺麗な途中式と答えが書かれていた。
「……あ、答えは、エックスイコール3、です」
蓮がノートを盗み見て答えると、先生は「……うむ、正解だ。授業に集中しろよ」と、怪訝そうな顔をしながらもチョークを再び動かし始めた。
蓮は脱力して椅子に座り直した。危うく大恥をかくところを、真白に救われた形だ。
(助かった……。けど、待てよ?)
蓮は自分のノートに目をやった。
真白の予想は『宮本くんは、次に「先生の方を見る」』だった。
先生に名前を呼ばれたのだから、見るのは当然だ。つまり――。
蓮が隣を見ると、真白は自分のノートの予想の文字を指差しながら、勝ち誇ったような、だけど少しだけ「助けてあげたでしょ?」と優しく微笑むような顔で、蓮を見ていた。
蓮は観念して、自分のノートの端に、小さく文字を書いた。
『僕の負けです。……それと、助けてくれてありがと。』
それを見た真白は、満足そうにくすくすと笑い、自分のノートの端に最後のメッセージを書き込んで、前を向いた。
蓮がその文字を盗み見ると、そこにはこう書かれていた。
『どういたしまして。宮本くん、先生に指されるとすぐ分かりやすくビクッとするから、簡単に予想できちゃった。また勝負しようね。』
結局、文字だけの静かな戦いでも、蓮は彼女の手のひらの上で転がされただけだった。
蓮は自分のノートに描かれた下手くそなペンギンの落書きを消しゴムで消そうとしたが、なんとなくもったいない気がして、そのままノートを閉じることにした。




