第63話:ベッドの上の反省会と、翌朝の宣戦布告
「……あいつ、絶対わざとやってるよな」
自室のベッドに仰向けにひっくり返り、宮本蓮は天井の一点を見つめたまま、本日何度目になるか分からない溜め息を吐き出した。
部屋の空気は暖房で適度に温まっているはずなのに、蓮の顔はさっきからずっと熱い。両手で顔を覆ってみるが、手のひら自体が熱を帯びているせいで、ちっとも冷える気配がなかった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、数時間前の出来事だ。
雪の坂道で、滑りそうになった白石真白を夢中で抱きとめたこと。
その時に感じた、驚くほどの体の柔らかさと、鼻腔をくすぐった甘いシャンプーの香り。
そして何より、駅のホームや電車の中で、彼女が仕掛けてきた「からかい」の数々。
『私の心臓の音、ぜったい聞こえてたでしょ?』
『宮本くんの心臓の音も、すっごく速かったの、私に響いてたもん』
挙句の果てには、電車のシートでブレザーの胸元に直接手を当ててくるなんて、反則以外の何物でもない。
「あんなの……誰だって心臓がバクバク言うに決まってるだろ……!」
蓮は枕に顔を埋め、足をバタバタと暴れさせた。
真白はいつもそうだ。
学校でも、登下校の途中でも、何気ない顔をして蓮の心の隙間に踏み込んでくる。そして、蓮が慌てたり照れたりする様子を、楽しそうに、愛おしそうに眺めているのだ。
照れたら負け。
それが、いつの間にか二人の間に定着していた暗黙のルールだった。
だが、今日の一連の出来事に関して言えば、蓮は完全に完敗だった。動揺を隠せず、言い訳も支離滅裂になり、最後は真っ赤になった顔を窓の外に向けることしかできなかった。
しかし、枕から顔を上げた蓮の脳裏に、もう一つの記憶が鮮明に蘇る。
(でも……あの時、真白さんの耳も真っ赤だったよな……?)
そうだ。電車の中で「宮本くんの負けね」と言った時の真白の横顔。
窓ガラスに映った彼女の瞳は、いつも通りの余裕に満ちたものではなかった。どこか潤んでいて、彼女自身も自分の大胆な行動に照れているような、そんな雰囲気が確かにあった。
「あいつも、無理してたんだとしたら……」
そこまで考えて、蓮はハッと我に返った。
「いやいや、ダメだ! あいつの術中にハマるな!」
自分の頬を両手でパチンと叩き、気合いを入れ直す。
真白のことだ。もし明日、蓮が「昨日照れてただろ」なんて指摘しようものなら、さらに上手を行くセリフで十倍にして返されるに決まっている。
「……明日は絶対に負けない。からかわれっぱなしで終わるもんか」
蓮はぎゅっと拳を握りしめ、明日の「リベンジ」を誓いながら、無理やり目を閉じて布団を被った。胸の鼓動は、深夜になってもなかなか静まりそうにありませんでした。
翌朝。
冬の澄んだ青空が広がっていたが、空気は昨日からの雪の影響で一段と冷え込んでいた。
蓮が少し早めに教室に到着し、自分の席にカバンを置くと、まだ数人しかいない教室内を見渡した。隣の真白の席はまだ空いている。
窓の外の景色を見つめながら、蓮は昨夜シミュレーションした作戦を頭の中で反復していた。
(要は、先手必勝だ。あいつが来る前に心の準備をしておいて、日常の何気ない会話から僕が主導権を握る。昨日のことをあいつが持ち出してきたら、すかさず別の話題で切り返すか、逆にこっちからからかい返す……!)
「おはよ、宮本くん」
「うわっ!?」
不意に右耳の後ろから聞こえた鈴を転がすような声に、蓮は文字通り飛び上がった。
振り返ると、そこにはマフラーを口元まで巻いた真白が、クスクスと肩を揺らして立っていた。
「あはは! 宮本くん、今すごい変な声出たよ? 泥棒が入ってきたと思った?」
「ま、真白さん……! 驚かせるなよ、心臓に悪いだろ!」
「えー? 普通に挨拶しただけなのに。もしかして、朝から私のこと考えてぼんやりしてた?」
真白はカバンを机に置くと、マフラーを外しながら、じっと蓮の顔を覗き込んできた。その瞳には、昨日の気まずさなど微塵も残っていないかのような、いつもの無邪気な光が宿っている。
(くそ、さっそくペースを握られた……! でも、ここからだ!)
蓮はゴホンと咳払いをひとつして、努めて冷静な声を意識した。
「そんなわけないだろ。それより真白さん、昨日の雪の坂道、もう大丈夫なのか? 今日もまだ路面が凍ってるところあったし、またペンギン歩きにならないといいけど」
少し意地悪に笑ってみせる。昨日、真白が自分の歩き方を「ペンギンみたい」と言われて恥ずかしがっていたのを思い出したのだ。
しかし、真白は動じるどころか、ふふんと鼻を鳴らした。
「大丈夫だよ。今日は滑らないように、宮本くんに教えてもらった通り、しっかり重心を低くして歩いてきたもん。……ねえ、それとも何? 宮本くんは、今日も私に転びそうになってほしいの?」
「は? なんでだよ」
「だって、そしたらまた……昨日みたいに、ギュッて抱きしめてもらえるでしょ?」
「っ……!?!?!?」
ダイレクトすぎる爆弾発言に、蓮の思考が真っ白にフリーズした。
周りのクラスメイトに聞こえていないか、慌てて周囲を見回すが、幸いみんな離れた席で雑談に夢中になっている。
「な、ななな、何言ってるんだよ真白さん! あれは人命救助っていうか、ハプニングだろ!?」
「人命救助大袈裟だなあ。でも、宮本くんの手、すっごく温かかったなあ。男の人の手って感じがした」
真白は自分の両手を胸の前で合わせ、思い出すようにうっとりとした表情を作ってみせる。それが演技なのか本気なのか、蓮には全く判別がつかない。ただ一つ確かなのは、蓮の顔が朝一番から限界突破寸前まで赤くなっているということだけだった。
(ダメだ、完全に押されてる……! このままじゃ昨日の二の舞いだ。何か、何か言い返さないと……!)
蓮は必死に頭を回転させた。昨夜のベッドでの反省会を思い出す。
真白だって、昨日弱みを見せていたはずなのだ。
「……真白さんさ」
「ん? なに?」
蓮は椅子の背もたれに体を預け、少しだけ意地悪な、だけど核心を突くような笑みを浮かべてみせた。
「昨日、電車の中で『私の負けね』って言ったときのこと、覚えてる?」
真白の眉が、ピクリと僅かに動いた。
「うん、覚えてるよ。宮本くんの心臓がバクバク言ってたやつでしょ?」
「そうだけど、そうじゃなくて。あの時、真白さんの耳、すっごく真っ赤だったよね」
「え……」
「車内の暖房のせいにしてたけど、本当は真白さんも、僕に急に触ったりして、自分で照れてたんじゃないの? からかい上手な真白さんが、まさか自爆しちゃうなんてさ」
勝った、と蓮は内心でガッツポーズをした。
真白の視線が、一瞬だけ泳いだのを蓮は見逃さなかった。彼女の白い頬が、かすかに桜色に染まっていく。
「……へえ」
真白は小さく呟くと、椅子の位置を少しだけ蓮の方へと引き寄せた。
二人の距離が、机一つを挟んで急激に縮まる。
「宮本くん、私のことそんなによく見てたんだ」
「あ、いや、それは……視界に入ったからで……」
「じゃあさ、宮本くん」
真白は机に両肘を突き、手のひらで顎を支えながら、妖艶とも言えるようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「もし、私が本当に照れてたんだとしたら、宮本くんはどうする?」
「え……?」
「私が、宮本くんの反応が見たくてからかってるだけじゃなくて、本当は私自身も、宮本くんに近づくと心臓がドキドキしちゃって、どうしようもなくなってるんだとしたら……宮本くん、どう思ってくれる?」
真白の真っ直ぐな瞳が、蓮の瞳の奥をじっと見つめてくる。
からかいのトーンではない。どこか真剣で、だけど試すような、深い響きを持った声だった。
教室内を流れる時間が、一瞬だけ止まったかのように錯覚する。
冬の朝の柔らかな光が窓から差し込み、真白の綺麗な髪をキラキラと輝かせていた。彼女の表情は、いつもの「からかい」の仮面の裏にある、等身大の女の子のそれに見えた。
「それは……」
蓮は生唾を飲み込んだ。
もしこれが彼女の高度な作戦なのだとしたら、自分は今、最大の窮地に立たされている。だが、もしこれが彼女の本音なのだとしたら――。
心臓の音が、再びうるさいほどのビートを刻み始める。昨日、真白に手で触れられた時と同じ、いや、それ以上の衝撃が蓮の胸を襲っていた。
言葉に詰まり、顔を真っ赤にして固まる蓮を見て、真白はしばらくじっとその様子を楽しんでいたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「あははは! 宮本くん、顔真っ赤! 湯気出そうだよ?」
「あ……!」
「冗談だよ、冗談。そんなに真に受けちゃって、かわいいねえ」
真白は嬉しそうに机を叩いて笑う。
蓮は、自分がまたしても彼女の仕掛けた罠に、頭から飛び込んでしまったことを理解した。
「ま、真白さん……! お前、本当に……!」
「でもね、宮本くん」
真白は笑うのを止めると、今度は蓮にだけ聞こえるような小さな小さな声で、だけどはっきりと、こう囁いた。
「……半分は、本当かもね」
キーンコーンカーンコーン――。
絶妙なタイミングで、朝の予鈴のチャイムが教室内に鳴り響いた。
他の生徒たちが一斉に自分の席へと戻り始め、二人の間の張り詰めた空気は、日常の喧騒の中へと溶けていく。
真白は前を向き、教科書をカバンから取り出しながら、満足そうな笑みを浮かべていた。
一方の蓮は、教科書を持つ手が微かに震えるのを止められず、自分の席で深く溜め息をつくしかなかった。
(半分は本当……って、どっちの半分だよ……!)
結局、今日の勝負も蓮の完全な敗北に終わった。
しかし、教科書を開く蓮の胸の奥には、昨日から続くあの心地よい熱が、さらに勢いを増して居座り続けているのだった。




