第59話:凍える帰り道と、不意打ちのホールド
昼休みの賑やかな雪合戦から数時間。全ての授業が終わり、終礼のチャイムが鳴る頃には、外の景色は再び冷徹な冬の表情を取り戻していた。
日中に太陽の光を浴びて少しだけ溶けた校庭や通学路の雪は、夕方の急激な冷え込みによって水分を奪われ、今やカチカチの透明な氷へと姿を変えていた。街灯の光を反射して怪しく光るアスファルトは、歩くだけで足元が滑る危険な「アイスバーン」と化している。
「うわ、これマジでヤバいな。完全にスケートリンクじゃん」
校門を出た蓮は、慎重に一歩を踏み出しながら路面を睨みつけた。いつもなら十五分で着く駅までの道のりが、今日ばかりは倍以上の時間がかかりそうだった。
「宮本くん、歩き方がペンギンみたい。お尻がフリフリ動いてるよ」
すぐ隣を歩く真白さんが、白いもこもこしたマフラーの隙間からクスクスと笑い声を漏らした。彼女も小さなブーツの底で慎重に氷を踏み締めながら、蓮の少し後ろをトコトコとついてきている。
「うるさいな、転ばないようにバランス取ってんだよ。真白さんこそ、そんな小さな靴で大丈夫か? 転んでも知らないからな」
「大丈夫だよ。私は宮本くんと違って、体幹がしっかりしてるからね」
真白さんはそう言って少し得意げに胸を張った。しかし、冬の夕暮れ時の冷たい風が吹き抜けるたびに、彼女の長い髪がひらひらと揺れ、その体は寒さのせいか、どこか小さく強張っているように見えた。
駅へと続く下り坂の歩道に差し掛かったとき、そのハプニングは起きた。
歩道の真ん中に、一見するとただの濡れた路面に見える、透明な氷の塊が潜んでいたのだ。
「あ……っ!」
真白さんが小さく短い悲鳴をあげた。
彼女の小さなブーツの踵が氷の上でツルリと滑り、その体が大きく後ろへと傾く。
「真白さん……!?」
隣を歩いていた蓮は、考えるよりも先に体が動いていた。
ポケットから大慌てで両手を引き抜き、滑り落ちていく真白さんの体に向かって、がむしゃらに手を伸ばした。
ここで男の子としてのプライドとか、恥ずかしさとか、そんなものを意識している余裕は一瞬たりともなかった。ただ「真白さんをケガさせちゃいけない」という一心だけで、蓮は彼女の細い体に飛びついた。
ガシッ。
静かな冬の帰り道に、衣服が激しく擦れ合う音が響いた。
蓮の両腕は、真白さんのブレザーの背中と腰のあたりを、後ろから包み込むようにしっかりと抱き止めていた。勢いが余って、2人の体は歩道の脇にあるガードレールにドン、と軽くぶつかるようにして止まる。
「……はぁ、はぁ……っ、危な、かった……」
蓮は自分の荒い呼吸の音を聞きながら、必死に踏ん張った両足の感覚を確かめた。なんとか転ばずに支えきることができた。
「真白さん、大丈夫か!? どこか痛めてない……?」
蓮が心配そうに声をかけながら、自分の腕の中にある彼女の様子を確認した。
その瞬間、蓮の全身の血流が、一気に脳天へと駆け上がった。
今、2人はこれまでにないほどの超至近距離で密着していた。
蓮の両腕は真白さんの体を完全にホールドしており、彼の胸の中には、真白さんの小さくて柔らかい体がすっぽりと収まっている。真白さんの頭が蓮の鎖骨のあたりにちょこんと乗っており、彼女の白いマフラーからは、あの甘いシトラスのシャンプーの香りが、衣服の熱とともにこれ以上ないほどの濃度で立ち上って、蓮の鼻腔を真っ直ぐに突き抜けた。
「……あ」
真白さんの小さな唇から、掠れた吐息が漏れた。
彼女は蓮の腕の中で、驚いたように目を見開いたまま、完全に硬直していた。いつもならどんなハプニングが起きても一瞬でからかいの言葉を見つけ出す彼女が、今は完全に言葉を失い、小鳥のようにじっと大人しくなっている。
蓮のブレザー越しに、真白さんの小さな背中から、ドクドク、ドクドクと、信じられないほどの速さで脈打つ心臓の鼓動が、ダイレクトに伝わってきた。
(真白さんの心臓の音……めちゃくちゃ速い……っ!)
それが転びそうになった恐怖のせいなのか、それとも、自分に抱きしめられているせいなのか、蓮には分からなかった。だけど、その鼓動に呼応するように、蓮の心臓もまた、胸が痛くなるほどの激しいビートを刻み始めた。
夕暮れの街灯が、凍りついた路面と2人の影を、アスファルトの上に静かに映し出している。
風が吹いて、近くの木々からパラパラと小さな氷のカケラが落ちてくる音が聞こえるほど、世界は静まり返っていた。
「……ご、ごめん! 急に抱きついたりして……!」
蓮は我に返り、大慌てで真白さんの体から両手を離し、一歩後ろへと下がった。恥ずかしさのあまり、顔が爆発してしまいそうだった。
「ケガ、なかったら、良かったんだけど……」
蓮が真っ赤になった顔を隠すように、首元を縮こまらせてそっぽを向いた。
すると真白さんは、ゆっくりと自分の体を起こし、乱れた髪を細い指先で整えた。彼女はしばらく背中を向けたまま、もこもこのマフラーに顔をごそっと埋めていた。
「……真白さん?」
蓮が恐る恐る声をかけると、真白さんはゆっくりと振り返った。
マフラーの隙間から覗く彼女の顔は、耳の先から首元まで、昼間の雪の赤みなんて比べものにならないくらい、見たこともないほど真っ赤に染まっていた。その瞳は少し潤んでいて、いつも蓮を困らせるあの余裕の笑みは、どこを探しても見当たらなかった。
「……宮本くんの、バカ」
真白さんは、蚊の鳴くような、少し震えた声で呟いた。
「え? なんで俺がバカなんだよ! 助けてあげたのに!」
「……バカ。……あんなに強く捕まえるなんて、聞いてないもん。私の心臓の音、絶対に聞こえてたでしょ」
「そ、それは……しょうがないだろ! 必死だったんだから!」
蓮が顔を真っ赤にして反論すると、真白さんはマフラーにさらに顔を埋め、小さな足元でツンツンと氷を小突いた。
「……でも、助けてくれて、ありがとう。……すっごく、あったかかった」
真白さんはそう言うと、今度は蓮に追いつかれないような速さで、スタスタと凍った道を小走りで駅に向かって歩き始めた。今度は転ばないように、だけど絶対に後ろを振り返らないように。
蓮は残された自分の両手のひらを見つめ、まだそこに残っているような彼女の柔らかい体温と、激しい心臓の鼓動の余韻を噛み締めながら、冬の冷たい空気の中で、自分の恋心が完全に凍りつくどころか、熱く燃え上がっているのを自覚せざるを得ないのだった。




