第56話:図書室からの帰り道と、冬の夕暮れ
誰もいない冬の図書室での、あの心臓が破裂しそうだった勝負を終えてから、およそ二十分。ようやくお互いの顔の赤みが引き、荷物をまとめた蓮と真白さんは、静まり返った校舎を後にして下校の途についていた。
校門を出ると、外の空気は昼間よりも一段と冷え込んでおり、吹き抜ける木枯らしが耳の端をチクチクと刺激した。さっきまで2人をオレンジ色に照らしていた夕日はすでに西の山並みの向こうへと沈みきっており、冬の早い夜の帳が、街全体を深い群青色へと染め上げようとしていた。
「……寒っ。一気に冷えてきたな」
蓮はマフラーを忘れた首元を縮こまらせ、ブレザーのポケットに両手を深く突っ込んだ。吐き出した息は、街灯の白い光に照らされて、まるで煙のように濃く広がっては消えていく。
「宮本くん、マフラー持ってこないからだよ。男の子のプライドも、冬の寒さには勝てないみたいだね」
すぐ隣を歩く真白さんが、白いもこもこしたマフラーに顎を埋めながら、いつもの少し涼しげな笑顔でからかってきた。図書室で蓮の直球すぎる言葉にノックアウトされ、本に顔を隠して机に突っ伏していた姿が嘘のようだ。女の子の切り替えの早さに、蓮は感心すると同時に、どこか少しだけ悔しい気持ちになる。
「うるさいな。歩いてればそのうち温まるって。それより真白さん、今日の勝負、俺の勝ちでいいんだよな? 気持ちを言い当てたら俺の勝ちってルールだったし」
蓮は一昨日のじゃんけんの雪辱を果たすべく、少し得意げに胸を張った。
「えー? 何のこと? 私、そんな勝負したっけ?」
真白さんはすっとぼけた顔をして、わざと視線を遠くの道路へと向けた。
「おい! ずるいぞ! ちゃんと『正解だけど……』って言ったじゃんか!」
「気のせいだよ。図書室が静かすぎて、宮本くんの耳が幻聴を聞いただけじゃない?」
「幻聴なわけないだろ! 顔真っ赤にして本で隠してたの、俺はバッチリ見たからな!」
蓮がムキになって言い返すと、真白さんは歩く足を止め、くるりと蓮の方を向いた。
街灯の光が彼女の長い髪を縁取り、マフラーの上から覗く瞳が、悪戯っぽく、だけどどこか優しく揺れている。
「ふふ、じゃあ百歩譲って宮本くんの勝ちにしてあげる。……でもね、宮本くん」
真白さんはそう言うと、カバンを肩にかけ直しながら、蓮との距離を一歩縮めてきた。
「私の気持ちを言い当てられたのが、そんなに嬉しかった? 私が本当に『明日も宮本くんのとなりにいたい』って思ってるって知って、安心した?」
「うぐ……っ!」
真白さんのカウンター攻撃に、蓮は一瞬で言葉を詰まらせた。相変わらず、彼女のからかいの切れ味は鋭い。中2の冬、クラスメイトたちに噂を流されて気まずかったはずなのに、こうして2人きりになると、いつもの、いや、いつも以上に心臓に悪い距離感が戻ってくる。
「……嬉しかった、っていうか。その、真白さんが気にしてなくて良かったなって思っただけだし」
蓮は真っ赤になった顔を隠すように、そっぽを向いて歩き出した。
「嘘つき。顔、すっごく赤くなってるよ。街灯の光のせいにはできないくらいにね」
真白さんはクスクスと楽しそうに笑いながら、蓮の少し後ろをトコトコとついて歩く。
歩道の脇には、すっかり葉を落とした桜の木々が立ち並んでおり、カサカサと乾いた落ち葉が足元を転がっていく。
2人の間には、しばらく心地よい沈黙が流れた。冷たい夜風が吹くたびに、真白さんの持つカバンのファスナーが、チリンと小さな音を立てる。その音を聞いて、蓮はふと、自分のカバンの横を触った。そこには、先週末にお揃いで買った、あの秋仕様の小さなキツネのストラップがぶら下がっている。
「……あ、そういえばさ、真白さん」
「ん? なあに、宮本くん」
「その、クラスのみんなの噂のことなんだけど……」
蓮はポケットの中で右手をぎゅっと握り締めながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「今日、教室でみんなに冷やかされたとき、真白さん『宮本くんが一緒に歩いてほしいって言うから〜』って、わざと俺が誘ったことにしただろ。なんであんなこと言ったんだよ。余計に噂が広がっちゃったじゃんか」
あの朝の教室の大騒ぎを思い出し、蓮はまた少し顔が熱くなる。
真白さんは蓮の問いかけを聞くと、少しだけ歩くペースを落とした。そして、カバンの横で揺れる自分のキツネのストラップを細い指先でチョンと触りながら、小さく呟いた。
「……だって、本当に宮本くんから誘ってほしかったんだもん」
「え……?」
蓮は耳を疑い、思わず足を止めて真白さんの顔を見た。
「噂になるのはちょっと恥ずかしいけど……でもね、みんなに『宮本くんが私と一緒に帰りたがってる』って思われるの、私はそんなに嫌じゃなかったよ。……宮本くんは、私が誘ったことにされるの、そんなに嫌だった?」
真白さんはまっすぐな瞳で、蓮の目をじっと見つめ返してきた。
いつものからかいのトーンではない。図書室のときと同じ、彼女の本物の、真っ直ぐな本音が、冬の冷たい空気の中にぽつりと落とされたのだ。
「嫌じゃ、ないけど……。ただ、その、びっくりしたっていうか……」
蓮は完全にノックアウトされた。中学2年生の冬。高校生になるのはまだずっと先のことだけど、この少し冷たい夜風の中で交わされる言葉のひとつひとつが、2人の距離を、大人の階段を上るように、ゆっくりと、だけど確実に近づけている気がした。
「ふふ、じゃあこれからも、みんなの前でたくさん私のせいにさせてね。……はい、勝負の景品のココア。約束通り、宮本くんの奢りね」
真白さんはいつの間にか駅前の自動販売機の前に立っており、ボタンを指差して笑っていた。
「あ、ずるい! 話を逸らしたな!」
蓮は悔しそうに財布を取り出しながらも、自分の心臓のバクバクとした高鳴りが、冬の寒さを完全に忘れさせてくれていることに気づき、なんだか無性に幸せな気持ちになるのだった。




