第55話:冬の図書室と、二人の秘密
キーンコーンカーンコーン。
放課後を告げる終わりのチャイムが学校中に鳴り響くと同時に、教室は一気に部活や下校へと向かう生徒たちの騒がしい足音で満たされた。蓮はカバンの中にノートと筆箱を詰め込みながら、心臓がじわじわと緊張で硬くなっていくのを感じていた。
(放課後、図書室の奥の席で待ってるから……)
二限目の休み時間に真白さんから渡された、あの小さなメモ用紙の文字が、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
蓮はクラスの男子たちから「おい宮本、今日部活の帰りに買い食い行こうぜ」と誘われるのを「あ、ごめん、今日ちょっと委員会があってさ」と嘘をついて断り、カバンを肩にかけて足早に教室を後にした。廊下を歩く間も、自分の足音がやけに大きく響いているような気がして落ち着かない。
階段を上がり、校舎の最上階の奥にある図書室へと向かう。
冬の放課後の廊下は、窓から差し込む夕日の光が長い影を作っており、一階の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。木製の重い引き戸を静かに開けると、図書室特有の、古い紙とインクの少しひんやりとした匂いが鼻腔をくすぐった。
「失礼します……」
小さな声で呟きながら中を見渡すが、受付の司書教諭の先生は席を外しているらしく、誰もいない。冬の放課後の図書室は、利用する生徒もほとんどおらず、完全な静寂に包まれていた。
蓮は本棚が立ち並ぶ迷路のような通路を奥へと進んだ。一番奥の、窓際に置かれた四人掛けの読書机。そこに、彼女はいた。
真白さんはブレザーの上から、いつもの白いもこもこしたマフラーを少し緩めに巻き、窓の外の夕焼け空をぼんやりと眺めていた。机の上には一冊の小説が開かれているが、そのページはめくられていない。夕方のオレンジ色の光が彼女の長い髪を透き通るような茶色に染め、その横顔は、教室で見るときよりもずっと綺麗で、蓮は思わず足を踏み出すのを躊躇ってしまった。
床の板が小さく軋む。その音に気づき、真白さんがパッとこちらを向いた。
「あ、宮本くん。本当に来てくれたんだね。遅い、チャイムが鳴ってから三分も経ってるよ」
真白さんはいつもの少し涼しげな笑顔を浮かべ、自分の向かい側の席をトントンと指先で叩いた。だけど、彼女の耳のあたりがほんのりと赤くなっているのを、蓮の目は見逃さなかった。一昨日の噂話や、朝のメモの余韻が、まだ彼女の中にも残っているのだ。
「悪い、ちょっとカバン片付けるのに手間取ってさ。……誰もいないんだな、ここ」
蓮は緊張を隠すようにぶっきらぼうに言いながら、向かい側の椅子を静かに引いて腰掛けた。
「うん、冬の放課後はみんな寒くてすぐ帰っちゃうから。今ここは、私と宮本くんの『2人だけの秘密の場所』だね」
真白さんは机の上に両肘をつき、小さな顔を少し蓮の方へと近づけてきた。ふわりと、彼女のシャンプーの甘い香りが、冬の冷たい空気の中に広がっていく。
「な、何言ってるんだよ。秘密の場所なんて大袈裟だろ……」
蓮は顔が熱くなるのを自覚しながら、カバンから数学のワークを取り出して机の上に広げた。
「大袈裟じゃないよ。だって、クラスのみんなの前では、噂のせいで全然話しかけてくれなかった宮本くんが、こうして私の呼び出しに素直に応じて、2人きりで会ってくれてるんだもん。これ、立派な秘密でしょ?」
真白さんは妖しく目を細め、蓮の反応を楽しむようにじっと見つめてくる。
「それは……真白さんが『たくさんからかってもいい?』なんて言うから、俺が言い返しに来ただけだし!」
「へえ、言い返しに来たんだ。じゃあさ、宮本くん。さっそく勝負、しよっか」
真白さんは開いていた小説をパタンと閉じ、蓮の目の前に差し出した。
「勝負って、また何するんだよ」
「この本をね、今から1ページだけ適当に開くの。そのページにある最初の1行を私が音読するから、宮本くんは、私がその言葉を『どんな気持ち』で言ってるか、当ててみて。もし宮本くんが私の本心を言い当てられたら、宮本くんの勝ち。もし外したら、私の勝ち」
「はあ? 気持ちを当てるって……そんなの、真白さんの演技力次第だろ。ずるくないか?」
「ずるくないよ。だって、朝のメモで、宮本くんは私の考えてること(からかわれるのが嫌なんじゃなくて、話せない方がつまらない)を完璧に言い当ててくれたでしょ? だから、今の宮本くんなら、私の気持ちなんて簡単に分かるはずだよ?」
真白さんは首を少し傾げ、挑戦的に微笑んだ。その瞳の奥には、からかいの光と同時に、どこか蓮に自分の本音を気づいてほしいような、小さく健気な光が揺れていた。
蓮はゴクリと生唾を飲み込んだ。朝の勢いで書いたメモの内容を改めて突きつけられると、恥ずか死にしそうだったが、ここで引くわけにはいかない。
「……いいよ、やってやる。その勝負、乗った」
「ふふ、言ったね。じゃあ、いくよ……」
真白さんは小説を両手で持ち、目を閉じてパラパラとページをめくった。そして、適当なところで指を止め、ページを大きく開いた。そこにある文字を一度目で追い、それから、ゆっくりと顔を上げて蓮の目をまっすぐに見つめた。
図書室の中は、完全に静まり返っていた。窓の外では、冬の早い夕暮れが街を群青色に染め始めており、部屋の中に灯る小さな蛍光灯の光が、2人の影を机の上に長く落としている。
真白さんは、いつもより少しだけ低く、だけど驚くほど優しくて、少し震えているような声で、その1行を口にした。
「……『ねえ、明日の放課後も、私のとなりにいてくれる?』……」
それは、小説の登場人物のセリフのはずだった。だけど、真白さんのその声は、長いまつ毛の奥にあるじっと潤んだ瞳は、完全に蓮個人に向けて放たれたものだった。からかいのトーンなんて、微塵も混ざっていなかった。
(な、ななな……っ!!!!)
蓮の心臓が、まるで鐘を乱打するように激しく波打ち始めた。全身の血流が一気に顔へと駆け上がる。
「……さあ、宮本くん。今の言葉、私はどんな気持ちで言ったと思う? 冗談? それとも……」
真白さんは本を机の上に置き、上目遣いで蓮の反応を待っている。彼女の小さな白い手が、机の上でかすかに震えているのが見えた。
蓮は思考が完全に真っ白になっていた。「どうせからかってるんだろ」と言えば、この勝負には勝てるかもしれない。だけど、今の真白さんのその表情を、その少し赤い耳を見て、あれが嘘や演技だなんて、どうしても思えなかった。
蓮は数学のワークの端をぎゅっと握り締め、真っ赤になった顔のまま、震える声を絞り出した。
「……ほん、本気……。真白さんが、本当に……明日も俺の隣にいたいって、思ってる気持ち……」
蓮が自分の本音をまっすぐにぶつけると、真白さんは一瞬だけ驚いたように大きく目を見開いた。それから、いつも蓮をからかうときの余裕の笑みは完全に消え去り、顔を耳の先から首元まで、見たこともないくらいに真っ赤に染め上げた。
「……あ」
真白さんは慌てて持っていた小説で自分の顔をごそっと隠し、机の上に突っ伏してしまった。
「な、何だよ真白さん! 俺、当たってたのか!?」
蓮も大慌てで机に身を乗り出した。
本の隙間から、真白さんのくぐもった声が聞こえてきた。
「……宮本くんのバカ。……正解、だけど……そんなの、ストレートに言うの、ずるい……」
真白さんは本に顔を隠したまま、小さく肩を揺らしていた。いつも蓮を翻弄していたはずの彼女が、今は蓮の素直な一言によって、完全にノックアウトされていたのだ。
冬の誰もいない図書室の片隅で、お互いに真っ赤な顔をしたまま、2人はしばらく言葉を交わすことができなかった。だけど、その沈黙の時間は、一昨日の噂話による気まずさなんかよりも、ずっとずっと甘酸っぱくて、温かい熱で満たされていた。恋の進展はカメのように遅いけれど、この日の放課後、2人の距離は、誰にも言えない『秘密』の共有とともに、確実にまた一歩、奥へと進んでいくのだった。




