第53話:冬の帰り道に広がる噂
朝のホームルーム前、蓮のブレザーのポケットの中で起きた「ひとつのポケット事件」から数時間後。すべての授業が終わり、終礼のチャイムが鳴り響くと、教室内は一気に放課後の解放感に包まれた。
「宮本くん、約束通り、駅前まで一緒に帰ろ?」
カバンを肩にかけた真白さんが、白いもこもこのマフラーに顔を埋めながら、蓮の席の横にすっと立った。朝の勝負は真白さんの「ハズレ(わざと負けた?)」だったため、蓮の勝ち。しかし、その結果として「放課後に駅前まで一緒に歩く」という約束が成立していたのだ。
「お、おう。分かったよ。じゃあ行くか」
蓮は照れ隠しに少しぶっきらぼうに答え、カバンを掴んで立ち上がった。
クラスメイトたちの目が少し気になったが、みんな部活の準備や友達同士のおしゃべりに夢中で、2人が同時に教室を出て行くことに気づいている様子はなかった。蓮は小さくホッと胸を撫で下ろし、真白さんの少し後ろを歩いて校門を出た。
十二月の夕方は、驚くほど早く夜の帳を下ろしていく。
まだ午後四時半を過ぎたばかりだというのに、西の空は深い群青色と燃えるようなオレンジ色のグラデーションに染まり、街灯がぽつぽつと明かりを灯し始めていた。吹き抜ける木枯らしは冷たく、蓮が息を吐くと、目の前で白い煙のように優しく広がって消えた。
「寒〜い。宮本くん、朝あんなに熱かったのに、今はもう冷たくなっちゃった?」
真白さんは歩くペースを落とし、蓮とぴったり横に並んだ。
「なるわけないだろ。歩いてるからむしろ温まってきたわ」
「ふーん、じゃあ確かめてあげよっか?」
真白さんが悪戯っぽく微笑み、朝のことを思い出させるように自分の左手を蓮のブレザーのポケットに近づけてみせる。
「ば、バカ! 外でそんなことするなよ! 誰かに見られたらどうするんだよ!」
蓮は大慌てで周囲を見回した。駅へと続く一本道は、仕事帰りの大人や、他校の生徒が行き交っている。
「誰も見てないよ。宮本くんは気にしすぎ……あ」
真白さんが不意に言葉を詰まらせ、足を止めた。彼女の視線の先を見た瞬間、蓮の心臓はドクンと嫌な跳ね方をした。
道路の向かい側、買い食い用のポテトの袋を持ったクラスの男子グループ(木村と高橋)が、目を丸くしてこちらを凝視していたのだ。
「あ……おい、あれ宮本と白石じゃね?」
「マジだ、2人で並んで帰ってんぞ……!」
向かい側からヒソヒソと交わされる声が、静かな冬の空気を通じてハッキリと聞こえてきた。
「や、やべっ……! ほら見ろ、見つかったじゃんか!」
蓮はパニックになり、思わず真白さんから一歩距離を置こうとした。しかし、真白さんは逃げるどころか、フフッと少し楽しそうに目を細めた。
「いいじゃん、見つかっちゃっても。悪いことしてるわけじゃないし。……ね、宮本くん」
真白さんはそう言うと、わざと木村たちに見せつけるように、もう一度蓮のすぐ隣へと一歩歩み寄り、肩をぴたりと密着させた。
「お、おい真白さん! 余計に誤解されるだろ!」
「ふふ、じゃあ早く駅まで走ろっか」
真白さんはクスクスと笑いながら足早に歩き出し、蓮も顔を真っ赤にしながら彼女の後を追いかけるしかなかった。
◇
翌朝、学校の教室。
蓮がどんよりとした気持ちで教室のドアを開けた瞬間、一斉に視線が突き刺さるのを感じた。
「お〜い、宮本ォ! お前、昨日、白石さんと2人きりで駅前歩いてたんだって〜?」
案の定、クラスのムードメーカーの男子がニヤニヤしながら大声でハヤし立ててきた。教室内がドッと沸き立つ。女子たちも「え〜、何それ!」「付き合ってるの!?」と興味津々でこちらを見ている。
(最悪だ……。やっぱり噂になってる……!)
蓮は顔から火が出そうになりながら、大慌てで自分の席へと向かった。
「ち、違うわ! 偶然駅前で会って、方向が同じだからちょっと一緒に歩いただけだよ!」
必死に弁明するが、クラスメイトたちは「またまた〜」「偶然のわけないだろ!」と完全に面白がっている。
蓮が席に着くと、となりの真白さんはいつも通り、静かに教科書を広げていた。しかし、彼女の周りにも何人かの女子が集まって、ヒソヒソと質問を浴びせている。
「ねえねえ、真白ちゃん、本当に宮本くんとデートしてたの?」
蓮はハラハラしながら真白さんの反応を見つめた。彼女ならきっと、上手く話を逸らすか、からかって否定してくれるはずだ。
しかし、真白さんは教科書からゆっくりと顔を上げると、困ったような、だけど少し嬉しそうな、絶妙な微笑みを浮かべた。
「デートっていうか……。宮本くんが『寒いから、駅まで一緒に歩いてほしい』って言うから、仕方なくついていってあげただけだよ?」
「おおお〜〜〜〜っっ!!!!」
教室内が、さっきの何倍もの大歓声と冷やかしの声で包まれた。男子たちは「宮本、お前やるじゃん!」「積極的〜!」と蓮の肩を叩いてくる。
「なっ……! し、真白さん! 何言ってんだよ、俺そんなこと言ってないだろ!」
蓮は机から身を乗り出して小声で猛抗議した。真白さんがわざと事実をねじ曲げて、自分が誘ったことにしたのだ。
真白さんは集まっていた女子たちが満足して散っていくのを見届けると、机の上に肘をつき、蓮の方を向いた。
クラスの騒がしい冷やかしの声が背景に流れる中、彼女はノートの端に、綺麗な文字でさらさらと文字を書いて、蓮の机の上に滑らせてきた。
『嘘は言ってないよ? 宮本くん、昨日、私のとなりにいて楽しそうだったもん。……噂されるの、そんなに嫌だった?』
蓮はシャーペンを握り締め、ノートの文字をじっと見つめた。
嫌か、と聞かれれば、恥ずかしくて死にそうではあるけれど、決して「嫌」ではなかった。むしろ、クラスのみんなに「2人は特別な関係なんだ」と噂されることが、胸の奥でどこか小さく、誇らしいような、甘い痺れを伴って響いていた。
蓮は真っ赤になった顔を隠すように、ノートの余白に小さく書き込んだ。
『嫌じゃないけど……恥ずかしいだろ、バカ』
紙を突き返すと、真白さんはその文字を読み、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。それから、いつも蓮をからかうときの余裕の笑顔ではなく、彼女自身も耳のあたりをサッと赤く染めて、慌てて前を向いた。
「……宮本くんの、ヘタレ」
小さな声で呟かれた彼女の本音は、冬の教室の騒がしさの中に優しく溶けていった。噂のせいで2人の距離は、誰も知らないうちに、またしても一歩だけ進んでしまうのだった。




