第52話:冬の始まり
十二月に入り、季節は瞬く間に冬の本番へと突入していた。
つい数週間前まで中庭を鮮やかに彩っていた黄金色のイチョウの葉は、冷たい木枯らしによって完全に吹き飛ばされ、今は黒々と細い枝だけが寒空に向かって伸びている。朝の登校時間ともなれば、生徒たちは全員が厚手のブレザーを着込み、白い息を吐きながら身を縮こまらせて校門をくぐっていた。
「さっむ……。マジで凍えるわ……」
一限目のチャイムが鳴る直前、蓮は自分の席に滑り込み、凍え切った両手を口元に当ててハァーと温かい息を吹きかけた。教室の中はストーブがついているものの、窓際の席は外からの冷気がガラスを透過して伝わってくるため、どうしても足元が冷える。蓮は上着のポケットに手を突っ込み、感覚の鈍くなった指先を必死に動かしていた。
「おはよう、宮本くん。今日もすっごく寒いね」
となりの席から、鈴の鳴るような澄んだ声が聞こえた。
振り返ると、真白さんが白いもこもこしたマフラーに顎をすっぽりと埋め、潤んだ瞳で蓮を見つめていた。彼女の肌は冬の寒さのせいでいつもより少しだけ白く透き通って見え、鼻の頭がほんのりとピンク色に染まっている。その姿が、まるで雪国からやってきた小さな妖精のようで、蓮は不意に胸を突かれた。
「お、おはよう……。真白さんは寒くないの? なんか、そのマフラー、暖かそうだな」
蓮は動揺を隠すように、わざと視線を彼女のマフラーへと向けた。
「うん、すっごく温かいよ。お母さんが編んでくれたの。……宮本くん、寒そう。手、真っ赤だよ? ほら、見せて」
真白さんは机の上に頬杖をつき、蓮のポケットから覗いている手を見て言った。
「大丈夫だって。男子がこれくらいで弱音吐いてられるかよ」
蓮は強がって、右手をポケットの奥深くへと押し込んだ。
「ふーん、男の子のプライドなんだ。じゃあさ、宮本くん。ここで1つ、冬の最初の勝負をしよ?」
「勝負? またかよ。ストーブの近くの席の奪い合いでもするか?」
「違うよ。もっと静かで、温かい勝負。私が今から、宮本くんの右手が『どれくらい温まったか』を秒数で当てるの。もし私がピタリと言い当てられたら、宮本くんの負け。負けたら、今日の放課後、一緒に駅前まで歩いてくれる?」
(駅前まで一緒に歩く……。それって、実質一緒に下校するってことじゃん……)
蓮の心臓がドクンと跳ね上がった。一見すると真白さんに有利な条件のようだが、下校を一緒にするというのは、蓮にとっても決して嫌な提案ではなかった。むしろ、冬の夕暮れを2人で歩けるなら、少しだけ嬉しい。
「いいよ、乗った。でも、手の温度なんて外からじゃ分からないだろ。どうやって当てるんだよ」
「簡単だよ。じゃあ、いくよ? 制限時間は十秒。私の予想は……『宮本くんの手は、まだ全然温まってなくて、冷たいまま』!」
「はあ? そんなの大雑把すぎるだろ!」
蓮がツッコむと、真白さんは自分の席からすっと身を乗り出してきた。そして、信じられないことに、蓮が右手を突っ込んでいるブレザーのポケットの中に、自分の小さな左手を、するりと滑り込ませてきたのだ。
「うおっ!? ちょっと待て、何すんだよ!」
蓮は驚きのあまり声をあげそうになり、大慌てで周囲を見回した。幸い、クラスメイトたちは一限目の準備や友達同士のおしゃべりに夢中で、窓際の一番後ろの席で起きている「事件」には気づいていない。
蓮のポケットの中で、2人の手がピタリと重なり合った。
蓮の大きな手の中に、真白さんの驚くほど小さくて、少し冷んやりとした、だけど驚くほど柔らかい指先が包み込まれる。布一枚を隔てた密着ではなく、ポケットの中という暗闇の中で、2人の素肌が直接触れ合っているのだ。
「……あ、やっぱり」
真白さんはポケットの中で、自分の指先を蓮の指の隙間にきゅっと滑り込ませながら、小さく呟いた。
「宮本くんの手、冷たいって思ったのに……すっごく熱いよ。私の手が、一瞬で温かくなっちゃうくらい」
「そ、それは……真白さんが急に変なことしてくるからだろ……!」
蓮の顔は、完全に限界を超えて真っ赤に染まっていた。ポケットの中の手は、緊張のあまり感覚が麻痺しそうだったが、真白さんの指の柔らかさと、そこから伝わってくる優しい温もりだけが、信じられないほどの解像度で脳裏に焼き付いていく。
「ふふ、じゃあ私の予想はハズレだね。宮本くんの手は、今、世界で一番熱い。だから勝負は宮本くんの勝ち」
真白さんはそう言うと、名残惜しそうにポケットから手を抜くかと思いきや、指先をさらにきゅっと握りしめてきた。
「でも、私の手、まだちょっと冷たいから……一限目のチャイムが鳴るまで、このままでいさせて?」
真白さんはマフラーに顔を深く埋め、照れ隠しをするように窓の外へと目を向けた。だけど、マフラーの隙間から覗く彼女の耳のあたりが、リンゴのように真っ赤に染まっているのを、蓮の目は見逃さなかった。
「……しょうがないな。チャイムが鳴るまでだぞ」
蓮は小さく呟き、ポケットの中で、彼女の小さな手を少しだけ強く握り返した。
キーンコーンカーンコーン。
非情にも、いや、2人にとっては少しだけ遅れて聞こえた始まりのチャイムが教室に鳴り響いた。前方のドアから先生が入ってくる気配がする。
真白さんはパッと蓮のポケットから手を引き抜き、何事もなかったかのように姿勢を正して前を向いた。
蓮も慌てて前を向き、教科書を開いたが、右手のひらに残る彼女の手の柔らかさと、ポケットの中の余熱のせいで、冬の授業の最初の数式は、1文字も頭に入ってこないのだった。




