第102話:教科書の陰の消しゴム落とし
5時間目の国語の授業が始まってから、およそ15分が経過していた。
教壇に立つ先生の、抑揚のない単調な朗読の声と、黒板にチョークが当たる規則正しい音だけが、午後の眠気を誘うように教室内をゆっくりと支配している。
宮本蓮は、一番後ろの廊下側の席で、ノートに板書を書き写しながらも、すぐ左隣の席からの微かな気配に気づいていた。隣の席の白石真白は、国語の分厚い教科書を机の上に立てて自分の顔を完全に隠しながら、ケースに入った四角い消しゴムを、人差し指の先でトントンと蓮のノートの端へと滑らせてきたのだ。
その白いケースの余白には、丸っこい可愛らしい文字でこう書かれていた。
『宮本くん、ひま。勝負しよ?』
蓮は先生が完全に黒板に向き直ったのを確認し、素早く自分のノートの切れ端に文字を走らせ、真白に見えるように少しだけ傾けた。
『授業中だぞ。午前中に木村たちにあれだけ怪しまれたんだから、大人しくしてろよ。……で、何の勝負だよ』
それを見た真白は、マフラーに顔をうずめながら、嬉しそうに目を細めた。そして、手元で新しい紙切れにさらさらと文字を書き込み、再びノートの間に挟み込んできた。
『消しゴム落とし勝負。お互いの消しゴムを交互に指で弾いて、相手の消しゴムを机の上から落とした方の勝ち。ただし、一番後ろの席だから、音を立てたら一発で先生にバレちゃう。だから、「声を出さずに、一番静かに落とした人」の勝ちね。当たったら放課後のいちごオレ。』
(消しゴム落とし……。これなら声を出さずに静かにできるし、何より完全な力加減と角度の勝負だ。お昼休みみたいに、真白さんが後から言葉の綾でルールを誤魔化す余地は一切ない!)
蓮はニヤリと心の中で笑った。こういう物理的なパズルや、指先の細かい感覚を競う勝負なら、男子である自分のほうが得意なはずだ。金曜日の遊園地で散々転がされたリベンジを果たすには、これ以上ない絶好の機会だった。
『いいよ、乗った。僕が勝ったら、放課後に購買のいちごオレを本当に奢れよ。ルール詐欺は無しな』
蓮が念押しして紙を渡すと、真白はコクンと深く頷き、自分の消しゴムを机の真ん中にセットした。蓮も私物の消しゴムを取り出し、戦闘態勢を整える。
先行は真白だった。彼女は指先でほんの少しだけ消しゴムを弾き、蓮の消しゴムのわずか数センチ手前でピタリと止めてみせた。挑発するように、教科書の陰から潤んだ瞳が蓮を覗き込んでいる。
(甘いな、真白さん。位置取りは完璧に僕の有利だ。この角度から弾けば、あいつの消しゴムを静かにスライドさせて、廊下側の床へ落とせる……!)
蓮は呼吸を整え、人差し指に力を込めた。至近距離から、真白の衣服から漂うあの甘いシャンプーの香りがふわりと鼻腔をくすぐるが、蓮は意地でも視線を動かさず、机の上の白い消しゴムだけを見つめ続けた。
(いける……! ここだ!)
パシッ、と、教科書の陰でごく小さな音が響いた。
蓮の放った消しゴムは狙い通りの軌道を描き、真白の消しゴムへと直撃した。真白の消しゴムは音もなく机の端へと滑っていき、そのまま重力に従って、廊下の床へと真っ逆さまに落ちていった。
勝った、と蓮は確信した。ついに、あのからかい上手な真白に、完全な勝利を収めたのだ。
ドヤ顔を向けるべく、チラリと視線を真白の顔へと走らせた、その一瞬の隙だった。
「――おい、そこ。宮本、白石」
突然、教壇の方から太くて低い、先生の声が教室内を切り裂いた。
「ひっ!?」
蓮は文字通り背筋が凍りつき、びくりと跳ね上がってしまった。それと同時に、床に落ちた真白の消しゴムが、静まり返った教室に「コトッ」と、小さく、だけど決定的な音を立てて響いた。
「後ろの席だからって、さっきから二人でこそこそ何を突つき合ってるんだ。何か落としたな。宮本、次の段落を読んでみろ」
「あ、は、はい!」
蓮は冷や汗を流しながら、慌てて国語の教科書を両手で持ち、立ち上がった。しかし、動揺のあまり、今先生がどこのページを読んでいるのか、全く見当がつかない。
(やばい、どこだ!? 金曜日のサボりのバチが今当たったのか!?)
蓮がパニックになりながら教科書のページをめくっていると、視界の左端から、真白のノートがそっと差し出された。そこには、先生に気付かれない絶妙な角度で、今読むべき『ページ数』と『行数』が、大きな文字で綺麗に書かれていた。
「……あ、ええと、82ページの、5行目からです。『その時、彼は初めて……』」
蓮がノートを盗み見てなんとか読み始めると、先生は「……うむ、ちゃんと聞いてたな。よろしい、座れ。授業中に物を落とすなよ」と、少し意外そうな顔をしながらも、再び黒板へと向き直った。
蓮は脱力して椅子に座り直した。危うく午前中の木村たちに続いて、クラス全体の前で大恥をかくところを、またしても真白に救われた形だ。
(助かった……。けど、待てよ?)
蓮は自分の机の上の紙切れに目をやった。
真白のルールは『声を出さずに、一番静かに落とした人の勝ち』だった。
確かに蓮は真白の消しゴムを落としたが、先生に呼ばれた動揺のせいで、結果的に教室内へ「コトッ」と音を響かせてしまった。
蓮が隣を見ると、真白は床から拾い上げた自分の消しゴムを指差しながら、勝ち誇ったような、だけど少しだけ「助けてあげたでしょ?」と優しく微笑むような顔で、蓮を見ていた。
蓮は観念して、自分のノートの切れ端に、小さく文字を書いた。
『僕の負けです。……それと、助けてくれてありがと』
それを見た真白は、満足そうにくすくすと笑い、自分のノートの端に最後のメッセージを書き込んで、前を向いた。蓮がその文字を盗み見ると、そこにはこう書かれていた。
『どういたしまして。宮本くん、私が消しゴムを落とした瞬間に先生の方をチラチラ見るから、先生がこっちを向くタイミングも簡単に予想できちゃった。今日の放課後、いちごオレ楽しみにしてるね』
蓮はガックリと机に突っ伏したくなった。
消しゴムを落とす勝負自体は蓮の勝ちだった。しかし、真白は最初から、蓮が勝って油断した瞬間に先生の視線をこちらへ誘導するような動きを、完璧に計算して仕掛けていたのだ。
結局、物理的な勝負だと思っていたものすら、真白の高度な心理戦の枠組みの中で踊らされていたに過ぎなかった。
(やっぱり、全然敵わないな、真白さんには……)
蓮は真っ赤になった顔を隠すように、首元のチャコールグレーのマフラーに顔を深くうずめ、自習のノートを見つめた。
からかわれてばかりで悔しいはずなのに、一番後ろの席の、誰にもバレないこの静かな戦いの時間が、蓮の胸の奥をどこまでも心地よく、温かい熱で満たしていくのだった。




