第100話:遊園地と二人の休日
空は雲一つなく抜けるように青く、冷たい冬の朝の風が、駅前を彩る街路樹の乾いた枝をカサカサと規則的な音を立てて揺らしていた。
2月の上旬。暦の上では1年の中で最も寒さが厳しく、朝の空気は肌を刺すように鋭い時期だ。そんな金曜日の朝、宮本蓮はいつもの通学路ではなく、自宅から少し離れた私鉄の急行が止まる大きな駅の改札前に立っていた。その手には、いつもなら教科書やノート、冬休みの課題の残りがぎっしりと詰まっている重いスクールバッグの代わりに、財布とスマートフォンだけが入った小さなネイビーのショルダーバッグが緩く握られていた。
(……本当に僕、学校をサボっちゃったんだな)
蓮は深く息を吸い込み、冷たい空気で肺を満たしながら、自分の胸の奥にある心臓がまるで早鐘を打つかのように激しくビートを刻んでいるのを自覚していた。
ことの始まりは、昨日である木曜日の放課後のことだった。
新学期の席替えによって手に入れた、教室の一番後ろの廊下側の席。先生の目からもクラスメイトの視線からも最も遠いその特等席で、いつものように放課後の片付けをしていたとき、隣の席の白石真白がノートの端に悪戯っぽい丸っこい文字をさらさらと走らせて、蓮の机へと滑らせてきたのだ。
『宮本くん、明日の金曜日、学校休んで遊びに行かない?』
最初は、いつもの彼女の突拍子もない冗談か、あるいは蓮が慌てる姿を見て楽しむための引っ掛けの類いだと思った。だから蓮も『何言ってるんだよ。明日は1時間目から数学の小テストがあるだろ。真白さんこそ、勉強したくなくて現実逃避してるだけだろ』と冷たく書き返した。
だが、ノートを受け取った真白はくすくすと笑うこともなく、国語の教科書の陰から、いつになく真剣で、だけどどこか大きな悪巧みを企む子供のようにきらきらと輝く瞳をまっすぐに蓮に向けてきたのだ。
『冬休みの宿題も無事に終わったし、席替えもこうしてまた隣同士になれたんだもん。たまには二人だけの特別な休日を作ってもいいと思わない? もし怖気づいて明日普通に学校の席に座ってたら、宮本くんの完全な負けね』
そう言って、彼女はいつもの挑戦的な笑みを浮かべた。
「照れたら負け、逃げたら負け」というのが、二人の間にいつの間にか定着していた暗黙のルールだった。特に、新学期になってから真白のからかいは手編みのマフラーや手作りのおかずなど、じわじわと蓮の防衛線を脅かすものが増えていた。ここで「そんなのダメだよ」と真面目な顔をして学校へ行くのは、まるで自分が彼女の仕掛けた勝負から一方的に逃げ出すようで、どうしても男のプライドが許さなかったのだ。
そして何より、いつも同じ一番後ろの席で繰り返される日常の風景のその先に、彼女と過ごす「特別な一日」がどんな形をしているのか、ほんの少しだけ覗いてみたいという、抑えきれない好奇心があった。
「――宮本くん、お待たせ!」
不意に背後から聞こえた、鈴を転がすような軽快な声に、蓮の肩がびくりと大きく跳ね上がった。
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、いつも見慣れた地味な紺色の制服姿ではない、完璧な私服に身を包んだ白石真白の姿だった。
白いノーカラーの綺麗なウールコートに、首元からは淡いブルーのタートルネックのニットが覗いている。下はラインの綺麗な黒のスキニーパンツに、冬休みの帰り道にも履いていたキャメル色のショートブーツを合わせ、全体的にすっきりと洗練されたコーディネートだった。いつも学校で見せているお団子頭は綺麗に解かれており、サイドの髪を少しだけ編み込んで後ろでゆるくまとめられたその髪が、冬の冷たい風に吹かれてさらさらと美しく揺れていた。
普段の学校生活では決して見ることのできない、どこか大人びていて、洗練された真白の姿を前にして、蓮は駅の改札前という公共の場所であることも忘れ、完全に言葉を失って立ち尽くしてしまった。
「お、お疲れ、真白さん。本当に制服じゃないんだな……」
「あたりまえじゃん。学校をサボって遊園地に行くんだよ? 制服で行ったら、駅のホームとかで先生に見つかったり、警察の人に補導されちゃうでしょ。……ねえ、宮本くん。何そんなに私のことじっと見つめてるの? もしかして、私の私服姿が可愛すぎて、目が離せなくなっちゃった?」
真白はトコトコと軽い足取りで距離を詰めると、コートのポケットに両手を入れたまま、いたずらっぽく上目遣いで蓮の顔を覗き込んできた。
「み、見惚れてないよ! 普段と雰囲気が全然違うから、ちょっとびっくりしただけだろ!」
蓮は慌てて視線を斜め下の、アスファルトの隙間に生えた雑草へと逸らした。しかし、彼女が一歩近づくたびに、冬の冷たい空気の中に、あの学校の教室でもいつも蓮の鼻腔をくすぐっていた甘いシャンプーの香りがふわりと漂って、胸の奥の鼓動が朝一番からうるさいほどのビートを刻み始めている。蓮の首元には、真白が冬休みに編んでくれたチャコールグレーのマフラーが、今日も完璧に巻かれていた。
「ふふ、そういうことにしておいてあげる。ちゃんとそのマフラーも巻いてきてくれたしね。……じゃあ、新学期最初の、そして今日という特別な一日の始まりを告げる、第1ラウンドの『勝負』を始めよっか」
真白は改札の横にある、自動券売機の方を小さな指で指差した。
自動券売機の上には、網目のように張り巡らされた私鉄の路線図が掲げられていた。目的地である有名な遊園地『ルナ・パーク』がある駅までは、ここから急行に乗って3つ目の駅だ。運賃の表示は大人240円となっている。
真白は財布を手に持ちながら、蓮の横に並んでニヤリといつもの不敵な笑みを浮かべた。
「今からね、宮本くんと私の分の切符をここで買うでしょ? その切符の裏側に黒い帯と一緒に印字されてる、発券番号の『下4桁の数字』をね、全部足した合計が『奇数』か『偶数』か、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の遊園地の入場チケット代、私が半分出してあげる。でも、もし外れたら……今日一日、遊園地の中で私が『あれに乗りたい』って言ったものには、何があっても絶対に文句を言わずに付き合うこと。はい、宮本くん、どっち?」
「何だよそのルール……。真白さん、絶叫系とか得意だろ。最初から僕を怖い目に合わせる気満々じゃないか」
蓮は眉をひそめて、券売機の画面を見つめた。
切符の裏に印字される数字。それは発券された瞬間に機械が自動的に割り振るランダムな番号であり、真白が事前に知ることも、裏で操作することも絶対に不可能な領域だ。確率としては完全に2分の一、1/2の純粋な運の勝負である。
(……いや、待てよ? 本当にただの運か? 真白さんのことだ。もし僕が『奇数』って答えたら、あいつは『じゃあ私は偶数ね』って言って、2枚発券されたうちの自分に都合の良い方の切符を僕に見せて『ハズレでしたー』って言うつもりなんじゃないか? 昨日の放課後の黒板消し勝負だって、あいつは僕が深読みして自滅するのを完璧に計算してたんだ)
蓮はカバンのストラップをぎゅっと握りしめ、脳内コンピューターをフル回転させた。真白の白い頬が、駅の蛍光灯の下でほんのりと桜色に染まっている。彼女は蓮がどうやって悩むかを、まるで楽しむようにじっと見つめていた。
(だったら、あいつの予想のさらに上をいく。2枚同時に発券して、2枚とも僕が確認すれば、あいつは誤魔化せないはずだ!)
「……奇数だ! ただし、2枚とも僕が受け取ってその場で合計を計算するからな。真白さん、途中で切符を隠したりしちゃダメだぞ」
蓮が自信満々に言い放つと、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに「いいよー、じゃあ宮本くんが買ってね」とクスクス笑った。
蓮は財布から小銭を取り出し、券売機に投入して『2枚』のボタンを押した。ガタゴトと小気味良い音を立てて、2枚の硬い切符が発券口に落ちてくる。
蓮は緊張で指先を少し震わせながらその切符を拾い上げ、真白に見せないようにして裏返した。
そこに印字されていた数字は『4・8・1・2』。
「ええと、4足す8は12、プラス1で13、プラス2で15……」
「15は奇数だね! 宮本くん、おめでとう、大正解!」
真白は蓮の手元を後ろから覗き込むようにして、パチパチと小さく手を叩いて、自分のことのように嬉しそうに目を細めた。彼女が背後から近づいた瞬間、蓮の背中に彼女のコートの柔らかい感触が微かに伝わり、蓮の顔は再びカッと熱くなった。
「よし……! 勝った! じゃあ、入場チケット代、本当に半分出してくれるんだな?」
「うん、約束だもん。はい、これ真白の分の半分ね。宮本くん、新年早々運が良いね」
真白はコートのポケットから小さなキャメル色の財布を取り出し、綺麗に畳まれた千円札を蓮の手のひらに乗せた。その瞬間、彼女の小さくて少し冷たい指先が蓮の手のひらにかすかに触れ、蓮は慌ててそれをポケットへと仕舞い込んだ。
付き合うとか、付き合わないとか、そんな明確な一歩はあえて踏み出さない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、二人は自動改札機に切符を通し、特別な一日の始まりを告げる急行電車のホームへと足を進めるのだった。
プシュー、と重い音を立てて、ステンレス製の急行電車がホームへと滑り込んできた。
平日の午前中の下り電車ということもあり、車内は驚くほどガラガラに空いていた。二人は自然な流れで、車両の端にある二人掛けのクロスシートへと腰を下ろした。
車内は暖房がしっかりと効いていて、冷え切っていた体がじんわりと温まっていく。
ガタゴトと電車が走り出すと、窓の外にはいつもの通学路とは違う、見慣れない住宅街の景色が猛スピードで流れていった。
「……なんか、変な感じだな」
蓮はあえて視線を正面の窓に向けながら、ぽつりと呟いた。窓ガラスには、並んで座る私服姿の二人の姿がぼんやりと映り込んでいる。
「何が変なの、宮本くん?」
「だって、今頃クラスのみんなは、1時間目の数学の小テストを受けてる頃だろ。木村や高尾のやつら、僕たちの席がどっちも空いてるのを見て、今頃騒いでるんじゃないかって思うと、なんか妙な罪悪感があるよ」
蓮が少し首をすくめると、真白はカバンを膝の上に乗せたまま、首元のマフラーに顔を深くうずめてクスクスと笑った。
「あはは、木村くんたちなら『あいつら二人揃って風邪引くなんて怪しいなー』とか言って、絶対にニヤニヤしてるよ。でもね、宮本くん。その罪悪感があるからこそ、このお休みがすっごく特別で、楽しく感じられるんじゃん」
「真白さんは相変わらず心臓が強いな……。僕はさっきから、先生に見つかったらどうしようってハラハラしっぱなしだぞ」
「大丈夫だよ。先生は今頃、黒板の前に立って数式を書いてるんだから、こんなところまで追いかけてこないもん。……あ、それより宮本くん、電車の移動時間も退屈だし、第2ラウンドの『勝負』、しよ?」
真白はトコトコとお箸を揃えるように指先を動かしながら、蓮の顔をじっと覗き込んできた。
「また勝負かよ。電車の中くらい普通に座らせてくれよ」
「いいじゃん、すぐ終わるよ。ルールは簡単。今から次の駅に到着するまでの間に、この窓の外の景色に、赤い車が『何台』通り過ぎるか、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、遊園地に着いて最初に乗るアトラクション、宮本くんの好きなものにしてあげる。でも、もし外れたら……遊園地の中では、私が『宮本くん、これ持って』って言った荷物は、何があっても代わりに持つこと。はい、どっち?」
(赤い車の数……。これも完全にタイミングの問題だな)
蓮は窓の外を見つめた。電車は今、高架線の上を走っており、並行する道路の様子が上からよく見える。平日の午前中だから、走っているのは大半が白いトラックやシルバーの乗用車だ。赤い車なんて、そう滅多に通るものではない。
「……2台だ。商店街の近くの道路を通るときに、郵便の車とかが走ってるかもしれないからな」
蓮が少し理屈っぽく答えると、真白は「ふーん、2台ね」と不敵な笑みを浮かべた。
電車が速度を落とし、次の駅へと近づいていく。
蓮は目を皿のようにして窓の外の道路を睨みつけた。すると、交差点の赤信号で止まっている車の中に、鮮やかな赤色のコンパクトカーが1台見えた。
(よし、まず1台……! あと1台来れば僕の勝ちだ!)
しかし、電車がホームへと滑り込み、完全に停止するまでの間、それ以降に赤い車が姿を現すことはなかった。
「というわけで、正解は『1台』でしたー! 宮本くんの負けね」
真白は嬉しそうにシートに深く背を預けると、自分の小さなショルダーバッグを蓮の膝の上にぽんと乗せた。
「はい、約束通り、まずはこのカバン、宮本くんが持っててね」
「くそ……また負けたか。本当に真白さんといると、計算が狂うな」
蓮はがっくりと肩を落としながらも、膝の上に置かれた彼女のカバンの、驚くほどの軽さと、そこからほんのりと漂う甘い香りに、またしても胸の奥がドクンと跳ねるのを止められなかった。
急行電車に揺られること約20分。
目的地である『ルナ・パーク前駅』のアナウンスが車内に流れ、プシューとドアが開いた。
ホームに下り立つと、駅の階段の向こうには、すでに巨大なカラフルな観覧車と、うねるように張り巡らされた絶叫コースターのシルバーのレールが、冬の澄み切った青空に向かってそびえ立っているのが見えた。
平日の午前中ということもあり、遊園地のゲート前は驚くほど静まり返っていた。休日なら長蛇の列ができるチケット売り場も、今は数組の家族連れやカップルがぽつぽつと並んでいる程度で、学校をサボってきた二人にとっては、周囲の目を気にせずに済む最高のロケーションだった。
「わあ……! 宮本くん、本当に来ちゃったね、遊園地!」
ゲートをくぐり、園内へと一歩足を踏み入れた瞬間、真白は子供のように声を弾ませて周囲を見渡した。園内にはにぎやかなポップ調のBGMが流れ、どこからかポップコーンの甘いバターの匂いが風に乗って漂ってくる。
「本当に来ちゃったな。入り口のチケット売り場のお姉さんに『今日、学校はお休みですか?』って聞かれたとき、ガチで心臓が止まるかと思ったぞ」
蓮が自分の右肩をすくめながら言うと、真白は蓮の少し斜め前をトコトコと歩きながら、振り返ってにこにこと笑いかけてきた。
「あはは、宮本くん、あのとき『あ、はい、創立記念日です!』って、すっごい裏返った声で嘘ついてたもんね。お姉さんも絶対気づいてたよ」
「笑い事じゃないって。本当に補導されたら、親に何て言い訳すればいいか分からないだろ……。あ、そういえば約束通り、カバンは僕が持つよ」
蓮はさっきの電車の勝負の罰ゲームを思い出し、真白のベージュ色の小さなカバンを自分の肩にかけ直した。自分のネイビーのバッグと合わせて、二つのカバンを肩に下げる形になる。新学期の最初の朝、彼女のカバンを持って登校したあの時の照れくささが、学校の外のこの場所でも鮮烈に蘇ってきた。
「うん、ありがと。荷物がないと、本当に体が軽くて最高。……じゃあ、せっかく最初の切負勝負で宮本くんが勝ったんだから、まずは宮本くんの乗りたいものから行こ? どこにする?」
真白は園内マップの大きな看板の前に立ち、蓮の顔を覗き込んできた。
蓮は周囲の絶叫マシンの轟音を耳にしながら、少しだけ身震いした。実は、蓮は絶叫系があまり得意ではない。学校の遠足やイベントなら、絶対に避ける種類のアトラクションだった。
「うーん、じゃあ……まずは小慣らしに、あそこに見えるゴーカートとかどうだ? 安全だし、スピードもそんなに出ないから、景色を楽しめそうだろ」
蓮が少し手堅い提案をすると、真白は「えー、ゴーカート? 宮本くん、意外と慎重派だねえ」と少しだけ頬を膨らませた。
「いいよ、じゃあそこまで競争ね! 遅れたほうが、お昼ご飯のときにおかずを1個あげること!」
真白はそう言うと、ベージュのコートの裾をひらひらと揺らしながら、トコトコと先に走り出してしまった。
「あ、おい! 走るなよ、危ないだろ!」
蓮は苦笑いしながら、彼女の背中を追いかけて走った。
恋人同士という明確な関係には決してならない、ただの隣の席の友達。だけど、こうして誰もいない平日の遊園地を二人で駆け抜けている時間は、間違いなく、これまでの人生の中で最もスリリングで、最高の休日の始まりだった。
ゴーカートの乗り場に到着すると、平日の特権で待ち時間は完全にゼロだった。
係員のおじさんに案内され、二人は並んで、赤い小さなオープンカーのような形の車体に乗り込んだ。シートは二人掛けのベンチシートになっており、座った瞬間、お互いの肩と太ももがカサカサと隙間なく密着した。
「宮本くん、運転できるの? 壁にドカンってぶつけたりしないでね?」
真白は助手席で安全バーを握りながら、少しだけ心配そうな、だけど楽しそうな瞳を蓮に向けてきた。彼女のハーフアップにまとめられた髪から、あの甘いシャンプーの香りが、教室のときよりもさらに間近でふわりと漂ってくる。
「失礼な。これでもゲームのレースものなら木村より強いんだぞ。しっかり捕まってろよ」
蓮は緊張でハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。
係員のおじさんの合図とともに、蓮が右足のアクセルペダルをグッと踏み込むと、ブルルンと小さなエンジン音が足元から響き、赤いゴーカートは軽快にコースへと滑り出した。
冬の冷たい風が正面から吹き抜けるが、スピードが出ているせいで、寒さよりも爽快感のほうが勝っていた。
コースは緩やかなカーブと、いくつかのヘアピンカーブで構成されている。蓮がハンドルを右に左にと切るたびに、真白の柔らかな体が蓮の肩や腕に何度もカサカサとぶつかった。その度に蓮は前を向いたまま、心臓がドキドキと暴れるのを必死に抑えていた。
「わあ、宮本くん、意外と運転上手じゃん! コーナー攻めるねえ、かっこいいよ!」
「っ……! だ、だから言っただろ、ゲームで練習してるんだって!」
不意打ちのストレートな褒め言葉に、蓮の顔が一気に熱くなる。
恋人同士のような特別なセリフを、真白は何気ない顔をして平気で口にする。前を向いたままハンドルを握る蓮の手が微かに震えるのを、真白は助手席からじっと見つめていた。
「ふふ、宮本くん、今すごい耳の付け根が赤くなってる。私の勝ち、ね」
「勝ち負けなんて言ってないだろ! 運転に集中させてくれよ!」
蓮は慌ててアクセルを踏み込み、最後の直線を一気に駆け抜けてゴールへと滑り込んだ。
車から下りると、蓮は真っ赤になった顔を隠すように、首元のチャコールグレーの手編みのマフラーに顔を深くうずめた。真白はその様子を本当に面白そうに眺めながら、クスクスと肩を揺らしていた。
「んー、風が冷たかったけど、すっごく楽しかった! 宮本くんの運転、また乗せてね」
真白はコートのポケットに両手を仕舞うと、トコトコと次のエリアへと歩き出した。
蓮は自分のカバンと彼女のカバンを肩にかけ直しながら、彼女の後ろ姿を追いかけた。
勝負には負けてばかりで、相変わらず彼女の手のひらの上で転がされているけれど、首元のマフラーの温もりと、彼女の笑顔が、この冷え切った冬の終わりの遊園地を、どこまでも心地よく、温かい熱で満たしていくのだった。
ゴーカートのコースを無事に一周し、小さなエンジン音が止まると、周囲には再び平日の遊園地特有の、どこか静かで穏やかなBGMが響き渡った。
シートから立ち上がった白石真白は、ベージュのコートの裾をパタパタと手で払いながら、トコトコと出口の階段を軽やかに下りていく。宮本蓮は、自分のカバンと彼女の小さなカバンの二つを右肩にかけ直しながら、未だに彼女の体がカサカサと触れ合っていた右腕の感触を振り払うようにして、その背中を追いかけた。
「宮本くん、さっきのカーブのとき、すっごい真剣な顔してハンドル握ってたね。ゲームのときもあんな顔してるの?」
真白は通路の途中で立ち止まり、首元のチェック柄のマフラーに顔を半分うずめながら、じっと蓮の瞳を覗き込んできた。
「そ、そりゃそうだろ。ゲームだって本気でやんなきゃ木村に負けるし、リアルなゴーカートならなおさら安全運転しなきゃいけないんだから」
蓮が照れ隠しにぶっきらぼうに答えると、真白はふふっと嬉しそうに目を細めた。
園内の中央にある広場へと差し掛かると、冷たい風に乗って、どこからか香ばしくて甘い、なんとも食欲をそそる匂いが漂ってきた。広場の真ん中には、カラフルな日除けテントを広げた小さな移動式ワゴンが停まっており、そこから湯気がふわりと立ち上っている。
「んー、いい匂い! 宮本くん、ちょっと小腹が空かない? お昼ご飯の前に、あそこのチュロス食べよ!」
真白はトコトコとワゴンの前へと歩み寄り、木製のメニュー看板を見上げた。定番のシナモン、濃厚なチョコレート、そして期間限定のストロベリーシュガーの3種類が並んでいる。
「じゃあ、ここで第3ラウンドの『勝負』ね」
真白は小さなキャメル色の財布を手に持ちながら、ニヤリといつもの不敵な笑みを蓮に向けた。
「今から私が、この3種類の中からどれを注文するか、宮本くんが当てるの。もし宮本くんの予想が当たったら、今日のお昼ご飯は私が好きなものを何でも奢ってあげる。でも、もし外れたら……今日の帰り道、駅の改札を出るまでの間、私のこのカバンだけじゃなくて、私がこれから買うお土産の袋も全部、宮本くんが代わりに持ってね。はい、宮本くん、どっち?」
「何だよその罰ゲーム……。ただでさえ今カバン二つ持ってるのに、さらにお土産まで持たせる気かよ」
蓮は腕を組んで、ワゴンのメニューをじっと睨みつけた。
真白の好物。彼女は学校のお昼休みによくいちごオレを飲んでいるし、甘いものには目がない。普通に考えれば、女の子が飛びつきそうな期間限定の『ストロベリーシュガー』だ。
(……いや、待てよ? これはあいつのいつもの罠だ。僕が『ストロベリー』って答えて、その期待を裏切るために、あえて王道の『チョコレート』にしてくるかもしれない。いや、さらにその裏をかいて、僕が深読みして自滅するのを待っているのか? 昨日の放課後の黒板消し勝負だって、あいつは僕が難しく考えすぎるのを完璧に読んできたんだからな!)
真白のこれまでのずる賢いパターンを思い出し、蓮の脳内コンピューターがフル回転を始める。彼女の白い頬が、冬の柔らかな日差しを浴びて、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。
(だったら、あいつの予想のさらに上をいってやる!)
蓮は意気込んで、真白の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……チョコレートだろ。真白さん、ストロベリーに見せかけて、僕がストロベリーって答えた瞬間に、わざとチョコレートを頼むつもりなんだろ。そのずる賢い顔を見れば全部分かるぞ!」
少し挑発的に笑ってみせる。
すると、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。しかし、彼女はすぐにクスッと含み笑いを漏らし、ワゴンの店員さんに向かって、人差し指を一本立てて注文した。
「ストロベリーシュガーを1つ、お願いします!」
「あ……! ストロベリーなのかよ!」
蓮はがっくりと肩を落とした。あいつの罠を警戒しすぎるあまり、ただのストレートな好みの選択肢に自滅してしまったのだ。本当に真白の心理戦には敵わない。
「ザ・ン・ネ・ン。普通にストロベリーでしたー! 宮本くん、また深読みしすぎでハズレ! 私は期間限定に弱いんだもん。はい、というわけで帰りのお土産持ち、よろしくね?」
真白は受け取ったばかりの温かいチュロスを両手で持ち、頭のほうから小さく一口、ぱくりと齧り付いた。
「んー! サクサクしてて、いちごの砂糖が甘くて最高に美味しい! ……ねえ、宮本くんも一口食べる?」
真白は自分が齧ったばかりのチュロスを、蓮の口元へとそっと差し出してきた。
「え……っ!? い、いいよ! 僕はシナモンを自分で買うから!」
「えー、冷たいなあ。美味しいのに。じゃあ、宮本くんがシナモン買ったら、そっちも一口頂戴ね?」
真白はちもちもとチュロスを美味しそうに食べながら、嬉しそうに蓮のことを見つめた。恋人同士という明確な関係には決してならないけれど、お互いの食べたものや、お互いの言葉一つに一喜一憂するこの曖昧な距離感。蓮は自分のシナモンチュロスを受け取り、一口齧りながら、顔の赤みが引かないのを自覚していた。
チュロスを食べ終え、温かいお茶のペットボトルで一息ついた二人は、さらに園内の奥、カラフルなアトラクションが立ち並ぶエリアへとトコトコと進んでいった。
お昼時が近づくにつれて、冬の太陽は真上に昇り、冷たい空気の中にもほんのりと日差しの暖かさが感じられるようになっていた。しかし、園内のスピーカーから流れるにぎやかなBGMの向こうから、時折、凄まじい風切り音と、乗客たちの甲高い悲鳴が響いてくる。
蓮はその音のする方向を見上げた瞬間、ゴクリと大きな生唾を飲み込んだ。
そこには、この遊園地で一番の人気を誇る巨大な絶叫コースター『ビッグバン・ランナー』のシルバーのレールが、まるで巨大な龍のように複雑にうねりながら、地上数十メートルの高さまでそびえ立っていた。
実は、蓮は絶叫系のアトラクションが昔からあまり得意ではない。学校の遠足やイベントなら、男子のノリがあっても何かしらの言い訳を作って絶対に避ける種類のものだった。レールの最高地点から車両が垂直に近い角度で真っ逆さまに落ちていく様子を見るだけで、胃のあたりがスーッと冷たくなるような感覚がする。
「わあ……! すごい迫力! 宮本くん、次はいよいよこれに乗ろうよ!」
真白は目を輝かせながら、蓮のコートの袖の端をツンツンと小さな指で引っ張った。彼女の結んだ髪が、興奮を映すようにぴょこぴょこと揺れている。
「え、これに乗るのか……? 結構高低差あるし、スピードも半端ないぞ。上から落ちるとき、本当に体が一瞬浮くやつじゃんか。他の、ほら、メリーゴーランドとか、あそこに見えるお化け屋敷とかにしないか?」
蓮が少しだけ声を上ずらせながら提案すると、真白は立ち止まり、カバン……ではなく、今は蓮が持っているカバンの代わりにフリーになった両手を胸の前で組み、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。
「えー? もしかして宮本くん、ビビってるの? 英語の小テストのときはあんなに堂々としてたのに、ジェットコースターは怖いの?」
「ビ、ビビってないよ! 男のプライドを舐めるなよ! 乗ればいいんだろ、乗れば!」
真白に「ビビってる」と言われて、引くに引けなくなった。ここで情けない姿を見せたら、新学期の一番後ろの席に戻ったとき、毎日「あのときの宮本くん、震えてたねー」とからかわれるに決まっている。蓮は意地を張って、真白に続いて『ビッグバン・ランナー』の入場ゲートへと足を進めた。
平日の特権で、本来なら2時間待ちになるはずのキューライン(待ち列)は、驚くほどガラガラだった。鉄骨が複雑に組み合わさったレールの下、薄暗い通路を二人は並んで歩いていく。通路の壁にはアトラクションの世界観を演出する近未来的な装飾が施されていたが、蓮の目には全く入っていなかった。
「宮本くん、さっきからすっごい早足。そんなに早く乗りたいの?」
真白は蓮のすぐ隣を歩きながら、肩が触れ合いそうな距離でクスクスと笑いかけてきた。
「そんなわけないだろ。後ろに人が来たら悪いから、詰めて歩いてるだけだよ」
「ふーん。でも、宮本くんの手、今ちょっと震えてる気がする」
「震えてないって! 寒いからだよ!」
蓮は慌てて両手をポケットに突っ込んだ。
しかし、通路を進むにつれて、車両がレールを駆け抜けるゴゴゴゴという凄まじい地響きと、風圧が直接肌に伝わってくる。いよいよ乗り場が目の前に迫ってきた。案内係のお姉さんが、笑顔で二人の進むべきレーンを指差した。
「お二方、一番後ろの列へどうぞ!」
(一番後ろ……!?)
蓮は黒板の座席表を見たときと同じような、強烈な衝撃を覚えた。
学校の教室と同じ、二人だけの特等席。しかし、絶叫コースターにおける『一番後ろの席』は、車両が坂を上りきったあと、前方の車両に引っ張られるようにして最も強烈なスピードと遠心力がかかる、園内で最も恐怖度の高い席として有名だった。
「わあ、ここでも一番後ろの隣同士だね。宮本くん、やっぱり私と隣になる運命なんだよ」
真白は安全バーを跨いで座席に腰を下ろしながら、楽しそうに蓮の顔を見た。
蓮は生きた心地がしないまま、隣の席に座り、上から降りてきた頑丈な安全バーをカチカチと限界まで体に引き寄せた。
カチャ、カチャ、と安全バーが固定される重い金属音が、乗り場の中に響き渡った。
一番後ろの二人掛けのバケットシート。周囲のクラスメイトたちの雑談の声も、先生のチョークの音もない、完全に二人だけの張り詰めた空間がそこにあった。
蓮は安全バーを握りしめる両手に、これ以上ないほどに力を込めていた。手のひらにはじっとりと冷や汗がにじんでいる。
係員のお姉さんが「それでは、ビッグバン・ランナー、出発です!」と手を振った直後、ドンと軽い衝撃とともに、車両がゆっくりと前方に動き出した。
乗り場を出ると、すぐに最初の大きな山に向かって、レールをカタカタカタカタ……と規則正しい音を立てながら上り始める。高くなればなるほど、園内のカラフルな建物や、遠くの街並みが猛スピードで足元へと遠ざかっていった。上空の風は地上よりも一段と冷たく、蓮の頬を容赦なく叩いたが、今の蓮にはその寒さを感じる余裕すら残っていなかった。
レールの頂点までは、あと数十メートル。
真白は隣の席で、恐怖など微塵も感じていないかのように、窓の外……ではなく、広がる景色を眺めながら、ふっと蓮の方を振り返った。首元のチェック柄のマフラーを少しだけ下にずらし、彼女は今日一番の、最高に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、宮本くん。頂上に着くまでの間に、今日最大の『勝負』をしようよ」
「この状況で勝負かよ……! 勘弁してくれ、今それどころじゃないんだって!」
蓮がレールの先を睨みつけながら声を上ずらせると、真白は安全バーを片手で握りながら、身を少しだけ蓮の方へと傾けてきた。
「いいじゃん、これが最後だよ。ルールは簡単。今からこの最初の急降下が始まって、下に辿り着くまでの間に、宮本くんが『わあ!』とか『キャー!』とか、一言でも悲鳴をあげたら私の勝ち。最後まで一言も声を出さずに、カッコつけて耐えられたら、宮本くんの勝ち。もし宮本くんが勝ったら……さっきのチュロスの勝負の罰ゲーム(お土産持ち)は全部チャラにしてあげるし、今日の帰りに駅前のカフェで、私が頼むメニューを宮本くんが何でも一つ決めていいよ。私の奢りでね。……でも、もし私が勝ったら……」
真白は一呼吸置くと、蓮の耳元へと顔を近づけ、風の音に負けないような、だけど小さく焦れったい声でこう囁いた。
「……今日の帰り道、駅の改札を出るまでの間、私の『手』を、宮本くんがずっとギュッと握って歩いてね。はい、どっち?」
「なっ……!? 何だよその罰ゲーム……! 手を握るなんて、そんなの完全に恋人じゃんか!」
蓮はあまりの突拍子もない条件に、恐怖を忘れて隣の真白を凝視した。
付き合うとか、そういう明確な一歩を踏み出さないのが二人の距離感だったはずだ。それなのに、真白は平気でそういう限界を揺るがすような爆弾を落としてくる。
「恋人じゃないよー、ただの勝負の罰ゲームだもん。あ、宮本くん、もう頂上だよ?」
真白が前を指差した。
カタカタという音が不意に止まり、車両はまさにレールの最頂点、地上数十メートルの崖っぷちで一瞬だけピタリと停止した。目の前には、冬の青空を切り裂くようにして、ほぼ垂直に近い角度で下へと落ちていく凶悪なレールが広がっている。
(絶対に声なんて出すものか……! 男の意地を見せて、あいつに『参りました』って言わせてやる!)
蓮が奥歯をグッと噛み締め、呼吸を止めた、次の瞬間だった。
ドンッ、とシートに強烈なマイナスGがかかり、世界が反転した。
一番後ろの席の車両が、前方の車両に引きずられるようにして、猛烈な加速とともに垂直落下へと突入した。
ドンッ、という、まるで大砲の引き金が引かれたかのような重低音の衝撃が、宮本蓮の全身を硬いバケットシートの奥底へと叩きつけた。
新学期の席替えによって奇跡的に手に入れた、教室の一番後ろの廊下側の席。あの場所が先生の目からもクラスメイトの視線からも最も遠い二人だけの特等席であるならば、今こうして腰を下ろしている絶胸コースター『ビッグバン・ランナー』の最後尾車両もまた、周囲の喧騒から完全に切り離された二人だけの絶対的な特等席だった。しかし、この場所に流れる空気の密度と緊迫感は、暖房の効いたあの静かな自習時間のそれとは根本的に異なっていた。車両が前方の連結部分に強烈な力で引っ張られ、レールの最頂点から奈落の底へと真っ逆さまに垂直落下を開始したその瞬間、蓮の視界からすべての水平な境界線が消失し、天地の概念そのものが完全に反転した。
「――っ!?」
叫び声にすらならない風の塊が、蓮の喉の奥を強引に塞ぎにくる。
視界のすべてが時速100キロを超える猛スピードのなかで急激に上下左右にかき混ぜられ、冷たい冬の終わりの北風が、剥き出しになった顔面に容赦なく、まるで小さな氷の礫のようにパチパチと音を立てて叩きつけられた。重力という地球の縛りから完全に解放されたかのような、内臓がすべて胸のあたりまでせり上がってくる強烈なマイナスGの浮遊感が下腹部を直撃し、蓮の頭の中は一瞬で真っ白なパニック状態に陥った。安全バーを握りしめる両手は、生き物としての本能的な恐怖から血の気が完全に引き、関節が白く強張って、プラスチックのグリップをへし折らんばかりの力で硬直している。
(だ、ダメだ……声が出る……! 肺の中に溜まった空気が、全部悲鳴になって飛び出しちゃう……っ!)
抗うことのできない落下のエネルギーが、蓮の喉元を内側から激しく突き上げていた。このまま本能に身を任せて叫んでしまえば、それは確実に白石真白の仕掛けた『悲鳴をあげたら負け』という、今日最大にして最高の勝負に敗北することを意味する。もし負ければ、今日の帰り道、この見知らぬ駅の改札を出るまでの間、彼女の小さくて柔らかい手を、自分の手でずっとギュッと握りしめて歩かなければならないという、中学生の蓮にとっては心臓が爆発してそのまま気絶しかねないほどの羞恥的な罰ゲームが待ち受けているのだ。学校をサボってまで二人でやってきたこの遊園地で、最後の最後にそんな決定的な敗北を喫するわけにはいかないという、男のちっぽけなプライドだけが、辛うじて蓮の口を真一文字に結ばせていた。
だが、レールの斜度が最も急になり、風圧が限界に達しようとしたまさにその瞬間、激しい風の壁を切り裂くようにして、すぐ隣の席から聞き慣れた声が響いた。
「――宮本くんっ!」
それは、いつもの教室内で囁かれる悪戯っぽい小声でも、放課後の廊下をトコトコと歩きながら響く鈴を転がすような笑い声でもなかった。吹きすさぶ轟音と乗客たちの甲高い絶叫の波を貫いて、確かに蓮の右耳へと届いたその声は、いつもより少しだけ高くて、ほんのわずかに震えているように聞こえた。
蓮が反射的に、恐怖と風圧で引きつりそうになる顔を右隣の座席へと向けた、まさにその刹那のことだった。
真白は、恐怖に怯えて目を完全に閉じているわけではなかった。
彼女はこれ以上ないほどに鮮やかな桜色に染まった両頬を冬の冷たい風に晒しながら、安全バーをぎゅっと握りしめていた自分の右手をそっと離し、蓮の感覚を失いかけていた右手のひらの上へと、自分の小さくて柔らかい手のひらを、ギュッと、驚くほどの力強さで重ねて握りしめてきたのだ。
「っ……!?!?!?」
垂直落下の恐怖によって凍りつきかけていた蓮の全身の細胞に、まったく別の、落雷に打たれたかのような凄まじい衝撃が駆け巡った。
激しいスピードでレールを滑り落ちていく極限状態の車両の中、衣服やマフラーという境界線を一切挟まずに、直接触れ合った手のひらから伝わってくる、白石真白という等身大の女の子の確かな温もりと、驚くほどの柔らかさ。
風に激しく舞う彼女のハーフアップの髪が蓮の頬や首元を幾度も掠め、あの学校の教室でもいつも蓮の理性を狂わせていた甘いシャンプーの香りが、この極限状態の脳内に深く、鮮烈に突き刺さってきた。
(あ、あいつ、このタイミングで手を握ってくるなんて、いくら何でも反則だろ……っ!)
あまりの動揺と、胸の奥から爆発するように湧き上がってきた猛烈な照れくささのせいで、蓮の頭からジェットコースターの物理的な恐怖が完全に消し飛んだ。喉の奥まで出かかっていた叫び声は、驚きと混乱、そして胸を締め付けるような切なさに近い感情によって完全にせき止められ、そのまま熱い吐息となって喉の奥へと引っ込んでいった。
車両は落下の勢いをそのまま殺すことなく、地面を掠めるような猛烈な下部カーブを曲がり、そのまま天に向かって巨大な鉄の円を描く垂直ループへと突入した。
重力が通常の数倍になって体に重くのしかかり、視界がぐるりと360度回転する激しいGを感じる間も、真白の手は蓮の右手をぎゅっと握りしめたまま、一瞬たりとも離れようとはしなかった。
いや、よく見ると、真白のほうが蓮よりもずっと強く、その小さな指先に爪が白くなるほどの力を込めて、蓮の右手を必死に掴んでいた。
(……あ、そうか。真白さん、もしかして……)
蓮は激しく反転を繰り返す世界の中で、必死に目を開け、隣の少女の横顔をじっと見つめた。
彼女の表情は、いつも通り余裕たっぷりに蓮の困る顔を見て楽しんでいるような、あの「からかい上手」の仮面を被ったものではなかった。冬晴れの強い光の中で、目をごくわずかに細め、押し寄せる風とスピードの恐怖に必死に耐えているように見えた。
そう、いつも学校で涼しい顔をして蓮を翻弄している白石真白だって、この巨大な絶叫マシンが本当は怖かったのだ。
怖くて、だけど蓮の前で情けない悲鳴をあげるわけにはいかないから、男のプライドを盾にして強がっている蓮の右手を、自分の心の拠り所にするようにして、必死に握りしめていたのだ。
その事実に気づいた瞬間、蓮の胸の奥に、これまでのどんな勝負のときよりも大きな愛おしさと、不思議な男としての勇気が湧き上がってきた。
(なんだ……あいつも、僕と同じだったんじゃないか)
蓮は、恐怖と緊張でガチガチに強張っていた自分の右手の指先の力を少しだけ抜き、逆に真白の小さくて少し冷え切った手のひらを、下から包み込むようにして優しく、だけど今度は自分の意志で、しっかりと力強く握り返した。
その瞬間、繋いだ手の隙間から、真白の肩がビクリと一瞬だけ跳ね上がったのが伝わってきた。彼女は正面のレールを見つめたまま、マフラーのない首元をさらに縮こまらせ、繋いだ手にさらにギュッと力を込め返してきた。
車両はそのまま大きなループを通り抜け、今度は水平方向に身体が激しく振られる連続キャメルバックへと突入した。鉄骨の間を縫うようにして激しく左右に揺さぶられるたびに、お互いの肩と腕が何度も激しくぶつかり合う。しかし、どんなに激しい衝撃が加わろうとも、二人の繋いだ手だけは、まるで一本の太い糸で結ばれているかのように、決して離れることはなかった。
上空を渡る冷たい風が二人のブレザーの袖を激しく羽ばたかせ、チャコールグレーの手編みのマフラーの端が宙に舞う。
蓮は、自分の手のひらの中で脈打つ、真白のドクドクという速い心臓の鼓動を確かに感じていた。それは、2週間前の雪の日の坂道で彼女を抱きとめたときに胸に響いたあの鼓動と同じ、いや、それ以上に激しく、愛おしいリズムだった。学校をサボって、二人でこの遠い遊園地までやってきて、そして一番後ろの席でこうして手を繋いでいる。そのすべての事実が、ジェットコースターのスピード感と混ざり合って、蓮の感覚をどこまでも遠くへと加速させていく。
激しい風の壁を何度も突き破り、車両は最後のブレーキゾーンへと突入した。
ガガガガッ、という強烈な減速の衝撃とともに、身体が前方に大きく投げ出されそうになる。蓮は左手でしっかりと安全バーを支えながら、右手だけは真白の手を離さないよう、最後まで力を込め続けた。
ゆっくりと車両のスピードが落ち、前方にカラフルな乗り場の明かりが見えてくる。
完全な静寂が周囲に戻ってくる直前、真白は蓮が何も言う前に、驚くほどの素早さでスッと自分の手を蓮の手のひらから引き抜いた。そして、何事もなかったかのように、カバンのストラップを両手で握り直し、正面の壁を見つめた。
プラットホームへと滑り込んだ車両は、大きな機械音とともにゆっくりと完全に停止した。
「おかえりなさい! ビッグバン・ランナー、いかがでしたか?」
係員のお姉さんが笑顔で手を振って出迎えてくれる。周囲の乗客たちが「やばかった!」「死ぬかと思った!」と一斉に興奮した声を上げ、白い息を吐き出しながら安全バーを押し上げ始めた。
蓮は自分の右手をゆっくりと下ろし、太ももの上に置いた。
手のひらには、まだ真白の手の柔らかい皮膚の感触と、お互いに握りしめ合っていたせいでかいた、微かな汗の熱が、冷たい空気の中で消えない証拠のようにしっかりと残り続けていた。胸の奥の鼓動は、未だに激しくドクドクと鳴り響いている。
安全バーがプシューという音とともに上へと上がり、解放された。
蓮は一呼吸置き、隣に座る真白の様子を窺った。真白はゆっくりとシートから立ち上がり、通路の方向へと足を踏み出そうとしていた。
しかし、彼女の白いウールコートの襟元から覗くその横顔は、これ以上ないほどに鮮やかな、深い桜色に染まっていた。耳たぶにいたっては、傾きかけた冬の太陽のオレンジ色をそのまま吸い込んだかのように、真っ赤に透き通っている。
いつもなら完璧に蓮をからかって『宮本くん、顔真っ赤だったねー』と笑うはずの少女が、自分の仕掛けたあまりにも大胆な作戦のせいで、自分自身も限界突破するほどに照れてしまい、言葉を失っているのだ。
蓮はそれを見て、不思議と頭がすっきりと冴え渡るのを感じた。
階段を下り、乗り場から出口へと続く薄暗いコンクリートの通路を並んで歩きながら、蓮はカバンのストラップを強く握りしめ、前を歩く真白の背中に向かって、少しだけ声を張り上げた。
「……おい、真白さん。今の勝負、僕の勝ちだろ。僕は一言も悲鳴をあげなかったぞ」
真白はトコトコと歩く足を一瞬だけ止め、それからゆっくりと振り返った。
彼女はマフラーを目の下まで引き上げ、潤んだ瞳で蓮を上目遣いにじっと見つめてきた。その頬の赤みは、薄暗い通路の中でもはっきりと分かるほどだった。
「うん……宮本くんの勝ちだよ。一言も声、出さなかったね。……凄いじゃん、男の子だね」
彼女の声は、いつものからかいのトーンではなく、どこか震えるような、等身大の女の子の、本気で照れているときの響きを持っていた。
「それはそうだけどさ。真白さん、途中で急に僕の手を握ってくるなんて、完全に反則だろ。僕が動揺して声が出なくなるのを狙ったんだろ?」
蓮が顔を真っ赤にしながらも、今度こそ言い負かしてやろうと一歩踏み込んで問い詰めると、真白は一呼吸置き、いつもの悪戯っぽい笑顔を無理に作るようにして、目を細めた。
「反則じゃないよー。私は『声を出すか出さないか』って言っただけで、手を握っちゃダメだなんて一言も言ってないもん。宮本くんが私の手を握られて、そんなに分かりやすくガチガチになって声が出なくなっちゃうなんて、ちょっと予想外だったけどね? ……それに」
真白は言葉を区切ると、通路の出口から差し込む夕暮れの光の中に一歩踏み出し、振り返って小さく微笑んだ。
「……宮本くんのほうも、私の手、すっごく強く握り返してくれたじゃん。あれ、私のほうがびっくりしちゃったんだからね?」
「っ……!?!?!?」
今度は蓮が完全に言葉を詰まらせる番だった。
自分が無意識のうちに、彼女の手を優しく、だけどしっかりと握り返していたこと。それを真白がしっかりと覚えていて、しかも同じようにドキドキしていたという事実を突きつけられ、蓮の顔はこれ以上ないほどに熱くなった。結局、勝負に勝ったはずなのに、彼は彼女の言葉一つで、簡単に手のひらの上で転がされてしまうのだ。
付き合うとか、付き合わないとか、そんな約束なんて今の二人には必要なかった。
学校を二人でサボってやってきた、冬の終わりの遊園地。その一番後ろの席でのスリリングな時間のなかで、二人の間を流れる空気は、冬の寒さを完全に忘れさせてしまうほどに、甘く、そしてどこまでも愛おしい熱を帯びて、静かに流れていくのだった。
蓮は真っ赤になった顔を隠すように、首元のチャコールグレーのマフラーに顔を深くうずめ、彼女の少し斜め前をトコトコと歩く後ろ姿を、ただ見つめながらついていくことしかできなかった。
絶叫コースターの薄暗い降車通路を抜けると、目の前には再び、夕暮れの淡いグラデーションに染まり始めた遊園地の広大な景色が広がっていた。
さっきまで頭上を狂ったような轟音を立てて駆け抜けていたレールの鉄骨が、西日を浴びて長い影をコンクリートの地面に何本も落としている。冷たい風が吹くたびに、園内のスピーカーから流れるにぎやかなBGMが途切れ途切れに響き、それがかえって、この平日の特別な一日の終わりが近づいていることを静かに告げているようだった。
宮本蓮は、右肩に自分のネイビーのバッグと、白石真白のベージュの小さなバッグの二つをかけ直しながら、未だにジンジンと熱を持っている右手のひらをそっと握りしめた。
コースターの上で、真白の手を確かに握り返したあの瞬間の、驚くほどの柔らかさと温もりが、冷え込んできた空気の中でいつまでも消えずに残り続けている。胸の奥の鼓動は、未だに規則正しい波の音のように激しくドクン、ドクンと刻まれており、蓮は照れ隠しのために、真白が冬休みに編んでくれたチャコールグレーのマフラーに顔を深くうずめ、わざと少しだけ大きな足音を立てて歩いた。
「宮本くん、本当に凄かったね、さっきのコースター」
隣をトコトコと歩く真白が、自分のチェック柄のマフラーを少しだけ下にずらし、蓮の顔を覗き込んできた。
低い位置で一つに結ばれた彼女の髪が、夕方の冷たい風に吹かれてさらさらと揺れている。彼女の白いウールコートの襟元から覗く頬は、まだほんのりと桜色を帯びたままだったが、その瞳には、いつもの蓮をからかって楽しむときのような、あの不敵で愛らしい光が少しずつ戻ってきていた。
「……凄かったよ。本当に死ぬかと思ったし、途中で真白さんが急に手を握ってくるから、余計に変な汗かいたじゃんか」
蓮が少しだけ拗ねたような、だけど本心から楽しかったというニュアンスを込めて答えると、真白はふふっと嬉しそうに目を細めた。
「あはは、でも宮本くんが勝ったんだから、約束通り駅前のカフェ、私の奢りで何でも好きなもの頼んでいいよ。……あ、でもね、宮本くん。駅の改札に着くまでの間に、今日最後の『おまけの勝負』を仕掛けちゃおうかな」
真白は歩きながら、カバンのポケットを小さな手でポンポンと叩き、ニヤリといつもの最高に意地悪な笑みを浮かべた。
(最後の最後まで、本当にブレないな、あいつは……)
蓮は苦笑いしながらも、いつものお決まりのやり取りに、どこか学校をサボった一日の終わりが近づく寂しさを紛らわせてもらうような、不思議な安心感を覚えていた。
「何の勝負だよ。僕はもうジェットコースターで燃え尽きたから、これ以上難しい心理戦とかは勘弁してくれよな」
「いいじゃん、これが最後だよ。ルールは簡単。私のこのカバンの中にね、宮本くんに内緒で『こっそり持って帰ってきたもの』が1個だけ入ってるの。それが何か、宮本くんが当てるの。ヒントは……さっきのジェットコースターに乗る前に、宮本くんが探してたものに関係すること。もし宮本くんの予想が当たったら、今日の勝負は私の勝ちで、宮本くんの負けね」
真白はカバンを胸の前にぎゅっと抱え込み、蓮の顔をじっと覗き込んできた。
「当たったら僕の負けって、どんな無茶苦茶なルールだよ。それじゃあ僕、外すしかないじゃんか。……って、僕が探してたもの?」
蓮は歩きながら、今日一日の記憶を必死に手繰り寄せた。
駅での切符の勝負、電車の車の数、ゴーカートの運転、そしてチュロスのワゴン。
(……待てよ。チュロスのワゴンで、僕がシナモンチュロスを買ったあと、お釣りの小銭をポケットに入れようとして、何かを落としたような気がしたな。あのとき、真白さんが後ろでしゃがみ込んで何かを拾ってたような……)
蓮は慌てて自分のショルダーバッグのポケットに手を突っ込んだ。
財布を確かめると、お札や小銭はちゃんと入っている。だが、初詣のときに真白と一緒に引いて、大切に仕舞っておいたはずの、あの『身近な人に目を向けよ』と書かれた『おみくじの紙』が、どこを探しても見当たらなかった。
(あ……! そういえば、チュロスを買うときに、財布を出し入れした拍子に落としちゃったのか!? いや、それを真白さんがこっそり拾って……!)
蓮は真白の顔を凝視した。真白は「早く答えて?」という表情で、歩きながら蓮の顔を覗き込んでいる。夕闇の冷たい空気の中で、彼女の耳たぶがほんのりと赤くなっているのが見えた。
「……分かった。真白さんのカバンに入ってるのは、僕が落とした『おみくじの紙』だろ。チュロスのワゴンの前で、僕が財布を出したときに落としたのを、真白さんがこっそり拾って隠したんだ」
蓮が確信を込めて言い放つと、真白は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、観念したようにふふっと優しく目を細めた。
そして、カバンのポケットから小さな白い手のひらを取り出し、蓮の目の前でそっと開いてみせた。
彼女の小さくて柔らかい手のひらの上で、夕暮れの淡い街灯の光を浴びて綺麗に折りたたまれていたのは、間違いなく、初詣の境内で蓮が引いた、あの『吉』のおみくじの紙だった。
「……正解。宮本くん、本当に私のことよく見てるね。チュロスのワゴンの下に落ちてたから、こっそり貰っちゃった」
真白はトコトコと駅の改札へと続く階段の手前で立ち止まり、そのおみくじを蓮の前に差し出した。
「やっぱり……! 泥棒じゃないか、真白さん。ほら、僕の大事なおみくじなんだから返してよ」
蓮がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、真白はすっと手を引いて、おみくじを自分の胸の前にぎゅっと抱え込んだ。
「ダメだよ。これは、今日私を遊園地に連れてきてくれた宮本くんへの『今日のお礼』として、私が預かっておくの。本当は返そうと思ったんだけど……おみくじに『身近な人に目を向けよ』って書かれてたでしょ? だから、宮本くんがちゃんと私のことを見ているか、私がこれから毎日、一番後ろの席で監視するための『人質』にするんだもん」
真白はマフラーに顔を完全にうずめながら、潤んだ瞳で蓮を上目遣いにじっと見つめ返した。その耳たぶは、夕闇の寒さのせいだけとは思えないほど、これ以上ないほどに真っ赤に染まっていた。いつもなら完璧に蓮をからかうはずの少女が、自分の素直な行動のせいで、自分自身も限界突破するほどに照れてしまっているのだ。
「っ……!?!?!?」
蓮の心臓が、再びうるさいほどの音を立てて暴れ出した。顔が一気に熱くなり、胸の奥がドクンと波打つ。
恋人同士という明確な名前にはあえて踏み出さない、ただの隣の席の友達。その曖昧な距離感のまま、彼女はいつもこうして、学校の外の広い世界でも、蓮の心の最も柔らかいところに、すとんと足を踏み入れてくるのだ。
「……じゃあ、真白さんが持っててよ。僕のおみくじなんだから、大切にしろよ」
蓮が真っ赤になった顔を隠すように、首元のチャコールグレーのマフラーに顔を深くうずめ、観念したように小さく呟いた。
「うん、ありがと。絶対に失くさないで、私の部屋の机の上に、大事に飾っておくね」
真白は本当に嬉しそうに微笑むと、おみくじをカバンの奥へと仕舞い込み、プシューと電車の到着する音が響く駅の改札へと、トコトコと楽しそうな足取りで歩き出した。
学校を二人でサボってやってきた、冬の終わりの遊園地。
恋人同士という明確な名前には決してならない、ただの隣の席の友達。だけど、お互いの作ったマフラーの温もりと、彼女のカバンの奥に眠るおみくじの存在が、これからの学校での一番後ろの席の日常を、もっともっと特別で温かいものにしてくれることを、蓮は静かに確信するのだった。
「見てろよ、来週の学校での勝負こそ、僕が絶対に勝つからな、真白さん」
「ふふ、お望みなら、いつでもかかってきてね、宮本くん」
夕闇が迫る駅のホームで、二人の白い息が、静かに混ざり合って消えていくのだった。




