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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第一章 ヴィンチェンティ・ファミリー

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第8話 コーヒーブレイク

翌朝。


午前の訓練を終えた郁とニコは、食堂で朝食をとっていた。


ニコはパンを頬張りながら郁を見る。


「昨日はマルコさんのところだったっけ?」


「うん」


郁は頷く。


「書類整理を手伝ったよ」


「チェスした?」


突然の質問だった。


郁は少し笑う。


「したよ」


「ニコもやったことあるの?」


ニコは苦笑いする。


「あるある」


「でもボロ負け!」


「マルコさん、めちゃくちゃ強いよな」


郁も昨日の対局を思い出し、小さく笑った。


「うん」


「強かった」


ニコは目を丸くする。


「え?」


「負けたんだよな?」


「最後は」


「最初はハンデをもらって」


ニコはパンを持ったまま固まった。


「……」


「ハンデありとはいえ」


「一回勝ったの?」


郁は少し照れながら頷く。


「うん」


ニコは思わず笑った。


「マルコさん、絶対楽しそうだっただろ」


「うん」


「すごく楽しそうだった」


朝食を食べ終えると、ニコが立ち上がる。


「今日はヴィクトルさんのところだっけ?」


「うん」


「そうだよ」


ニコは少しだけ真面目な顔になる。


「あの人、優しいけど意外と厳しいからな」


「まあ」


笑って肩を叩く。


「郁なら平気か」


「頑張れよ」


郁も笑って頷く。


「うん」


「ニコも任務、頑張って」


「おう!」


二人はそれぞれの持ち場へ向かった。


――――――


コンコン。


「失礼します」


「どうぞ」


ヴィクトルは机から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「おはようございます、郁」


「おはようございます」


「今日はよろしくお願いします」


ヴィクトルは椅子を勧める。


「私の仕事は、主に財務と交渉です」


「今日は財務の仕事を少し手伝っていただきます」


「はい」


ヴィクトルは苦笑した。


「マルコが領収書を溜め込むので、毎月大変なんですよ」


郁も昨日の部屋を思い出し、少し笑う。


「昨日、紛失した書類を探してくださったそうですね」


「ありがとうございます」


「いえ」


「部屋を片付けたら出てきたので、良かったです」


ヴィクトルも思わず笑った。


「それも助かりました」


「では」


机の上へ領収書の束を置く。


「今日はこれで出納表を作成していただきたいのですが……」


一瞬、郁の様子を見る。


「言っている意味は分かりますか?」


郁は頷いた。


「はい」


「やってみます」


ヴィクトルは少し驚いたように目を細める。


「こちらのパソコンでも」


「ノートとペンでも構いません」


「席はあちらを使ってください」


「ありがとうございます」


郁は静かに席へ座った。


領収書を一枚ずつ確認する。


日付。


金額。


用途。


支払先。


自然と手が動いていく。


部屋には紙をめくる音と、キーボードを打つ音だけが響いていた。


しばらくして、郁の手が止まった。


「ヴィクトルさん」


「はい」


「この二枚なんですが」


郁は二枚の領収書を並べて差し出す。


「日付と金額と支払先が、まったく同じです」


ヴィクトルは受け取り、目を通した。


わずかに眉が動く。


「……本当ですね」


「片方は控えでしょう。誤って両方提出されたようです」


「このまま計上すると、二重になってしまうので」


「確認しておきます」


ヴィクトルは片方を脇へ避けながら、郁を見た。


「よく気付きましたね」


「数字が合わなくなるのが、気持ち悪いので」


郁は当然のように答え、作業へ戻っていく。


(言われたのは、出納表の作成だけなのですが)


ヴィクトルは小さく息をつき、口元を緩めた。


約一時間後。


「できました」


ヴィクトルは受け取り、ゆっくり目を通す。


「……」


金額の計算。


分類。


備考欄。


どれも丁寧だった。


「すごいですね」


思わず本音が漏れる。


郁は少し照れながら笑った。


「母が税理士だったので」


「少しだけ教わりました」


ヴィクトルは苦笑する。


「その“少し”は信用できませんね」


郁は首を傾げる。


「そうですか?」


「ええ」


「皆さんそうおっしゃいます」


二人とも思わず笑った。


ヴィクトルは立ち上がる。


「少し休憩にしましょう」


「コーヒーは飲めますか?」


「はい」


「好きです」


ヴィクトルは手際よくコーヒーを淹れ始めた。


部屋いっぱいに香ばしい香りが広がる。


「砂糖は?」


「少しだけお願いします」


「ブラックでも飲めますか?」


「はい」


「家ではブラックでした」


「なるほど」


ヴィクトルはカップを郁へ差し出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


二人は向かい合って、静かにコーヒーを飲む。


しばらく沈黙が流れた。


不思議と、気まずくはない。


部屋には穏やかな静けさが流れていた。


やがて、ヴィクトルがカップを置く。


「郁」


「はい」


「あなたは真面目な人ですね」


突然の言葉に、郁は少し驚く。


「そう……ですか?」


ヴィクトルは穏やかに微笑む。


「ええ」


「昨日はマルコの部屋を片付け」


「今日は頼んだ仕事も丁寧に仕上げる」


「先ほどは、頼んでもいない重複にまで気付いてくださいました」


一度言葉を切る。


「誰かに言われた以上のことまで、自然にやってしまう」


「そういう人は、意外と少ないんです」


郁は照れくさそうに笑った。


「ありがとうございます」


「昔から」


「頼まれたことは最後までやりなさい、と両親によく言われていたので」


ヴィクトルは納得したように頷く。


「なるほど」


「ご両親に大切に育てられたんですね」


郁は少しだけ遠くを見るような表情になる。


「……はい」


短い返事だった。


けれど、その一言だけで十分だった。


ヴィクトルはそれ以上聞かなかった。


聞けば話してくれるだろう。


だが、今はまだその時ではない。


静かにコーヒーを口に運ぶ。


郁もカップを持ち上げた。


温かな香りが、二人の間に穏やかな時間を流していた。


カップが空になった頃。


ヴィクトルが思い出したように立ち上がった。


「そうでした」


部屋の奥の棚から、見覚えのあるものを持ってくる。


黒いリュック。


郁は目を見開いた。


「確認が終わりました」


ヴィクトルはリュックを机の上へ置く。


「ボスの許可も出ています。お返ししますね」


「……いいんですか?」


「ええ」


郁はリュックを受け取り、そっと中を確かめた。


医学書。


講義のノート。


筆箱。


財布。


イヤホン。


すべて、あの日のまま入っていた。


「学生証と日本の通貨も、そのまま入っています」


ヴィクトルは静かに言う。


「こちらでは使えませんが」


一拍置いて、穏やかに微笑んだ。


「あなたにとっては、大切なものでしょうから」


郁は顔を上げる。


「……ありがとうございます」


深く、頭を下げた。


自然と、いつもより長いお辞儀になった。


ヴィクトルは何も言わず、ただ小さく頷いた。


――――――


その夜。


隣のベッドからは、任務から戻ったニコの寝息が聞こえている。


郁は音を立てないようにベッドを降り、机の上に置いたリュックを開けた。


そして、枕元から冷たくなったスマートフォンを手に取る。


昨日の夜から、画面は一度も灯っていない。


もう二度と、灯らない。


郁は買ったばかりの柔らかいタオルを一枚出し、スマートフォンを丁寧に包んだ。


学生証と財布の隣。


リュックの一番奥へ、そっと収める。


失くさないように。


いつでも、ここにあると分かるように。


(……おやすみなさい)


ファスナーを静かに閉じ、リュックをクローゼットの棚へ置いた。


明日からは、夜に見るものがない。


それでも、眠れる気がした。


写真の中の家族は、もう画面の向こうにはいない。


けれど、ちゃんと覚えている。


母の笑顔も。


父の仏頂面も。


あの家の夕食の匂いも。


郁はベッドへ戻り、毛布を引き上げる。


隣の寝息は、今夜も穏やかだった。


この世界へ来て、四日目の夜。


郁の一日は、初めてスマートフォンを開かずに終わった。

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