第7話 整理と戦略
翌朝。
午前の訓練を終えると、ノア直属の部下たちは汗を拭きながら、それぞれの持ち場へ戻っていった。
郁もニコの後ろについていこうとした、その時だった。
「郁」
低い声に呼び止められ、郁はすぐに足を止める。
「はい」
ノアは腕を組み、静かに口を開いた。
「まだ任務には出せない」
「分かっています」
「まずは屋敷の仕事を覚えろ。ボスからも、しばらくは幹部の補佐につけるよう言われている」
郁はまっすぐ頷いた。
「今日は、滞っている書類整理を手伝え」
「はい」
ノアは一拍置き、わずかに視線を逸らす。
「……部屋の片付けも必要になると思うが」
「部屋の片付けですか?」
「ああ」
短い返事だった。
けれど、その口調にはすでに諦めのようなものが混じっている。
「誰のところへ行くんですか?」
「マルコだ」
郁は何となく納得した。
初日に屋敷を案内してくれたマルコは明るく気さくで、細かいことを気にしない性格に見えた。
「マルコは情報収集と戦略立案に関しては、ファミリーで一番だ」
「そうなんですね」
「だが、書類整理と経費申請は苦手だ」
ノアは淡々と続ける。
「必要な書類を失くすことも多い」
「失くすんですか」
「本人は失くしていないと言い張る」
「……なるほど」
郁は思わず笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。
ノアは何も言わず、廊下を歩き始める。
「行くぞ」
「はい」
二人は屋敷の奥へ進み、マルコの部屋の前で足を止めた。
ノアが軽く扉を叩く。
「入るぞ」
「どーぞー!」
中から、気の抜けた返事が聞こえた。
ノアが扉を開ける。
その瞬間、郁は思わず足を止めた。
「……」
床には書類の山。
机の上にも書類。
ソファにも書類。
チェス盤の横にも書類。
本棚には本と資料が隙間なく押し込まれ、椅子の背には脱ぎっぱなしのジャケットがかかっている。
足の踏み場だけは、どうにか確保されていた。
(すごい部屋だ……)
散らかっているというより、部屋全体が巨大な資料置き場になっている。
マルコは机へ突っ伏したまま、顔だけを上げた。
「あ、ノア」
その隣にいる郁へ気付き、ぱっと表情を明るくする。
「郁もいるじゃん!」
「今日から、しばらく幹部の補佐につける」
ノアが告げる。
「今日は、お前の滞っている書類を整理させろ」
「助かる!」
マルコは即答した。
ノアの眉がわずかに動く。
「少しは自分でもやれ」
「やろうとはしたんだよ」
「結果がこれか」
「まあまあ」
マルコは笑ってごまかすと、郁へ顔を向けた。
「ちょうどよかった。ヴィクトルにさ」
机の上にある紙の山を指差す。
「先月の情報取引に関する資料と、その時の領収書を持ってこいって言われたんだけど」
困ったように頭をかく。
「どこに置いたか分からなくなった」
「分からなくなったんですか」
「どこかにはある」
自信満々の返事だった。
「一緒に探してくれない?」
「分かりました」
郁は部屋へ入り、改めて周囲を見回す。
まずは、何を探しているのかを確認する必要がある。
「案件名と、だいたいの時期を教えていただけますか?」
「先月の中頃。南側の取引先から情報を買った時のやつ」
「相手の名前は?」
「ロバート商会」
「領収書には何と書かれていますか?」
「たぶん商会名と金額」
「分かりました」
郁は床に積まれた書類のうち、日付の新しいものから確認し始めた。
内容ごとに分ける。
日付順に並べる。
案件別に小さな山を作る。
必要そうなものは、すぐ手が届く場所へまとめていく。
最初のうち、マルコも一緒になって紙をめくっていた。
「それ、昨日探してたやつ」
「これは何の書類ですか?」
「北側の倉庫に関する報告書」
「では、こちらですね」
「おお」
「これは?」
「それ、半年前の取引記録」
「どうして机の上に?」
「使うかもしれないと思って」
「半年間ですか?」
「……使わなかったな」
いつの間にかマルコは、自分で探すよりも郁の後ろをついて回るようになっていた。
「それも必要だった」
「これは捨てていいやつ」
「いや、待って。やっぱり取っておいて」
「では、保留の書類として分けます」
「そんな分け方あるの?」
「今作りました」
「便利だな」
二十分ほどで、探していた資料と領収書は見つかった。
「あった!」
マルコが郁の手元を覗き込む。
「これこれ! ヴィクトルに怒られずに済む!」
「提出期限はいつだったんですか?」
「昨日」
「……昨日ですか」
「今日持っていけば、まだ軽傷で済む」
どんな怒られ方をするのだろう。
郁は少しだけヴィクトルへ同情した。
目的の物は見つかった。
けれど郁は、そのまま残りの書類の整理を始めた。
「もう見つかったぞ?」
「今のままだと、また同じことになると思うので」
「それは、まあ」
「途中まで分類したので、最後までやってもいいですか?」
マルコは一瞬驚いたように郁を見た。
「いいけど、無理しなくていいぞ」
「大丈夫です」
郁は淡々と書類を分け続けた。
案件ごと。
年代ごと。
提出済みと未提出。
重要度が高いもの。
確認が必要なもの。
保留にするもの。
使っていない棚から不要な物を出し、空いた場所へ資料を収める。
机の上には、今すぐ必要なものだけを残した。
昼食を挟み、気付けば窓から差し込む光が夕方の色へ変わり始めていた。
「終わりました」
郁は最後の書類を棚へ収め、静かに息を吐いた。
マルコは、すっかり様子の変わった部屋を見回す。
「……え?」
床に積まれていた書類は消えている。
机の上には、今日中に処理する必要があるものだけが並んでいた。
棚には案件名と年代を書いた付箋が貼られ、どこに何があるのか一目で分かる。
脱ぎっぱなしだったジャケットも、椅子の背ではなく所定の場所にかけられていた。
「これ、本当に郁一人でやったの?」
「はい」
「案件ごとに分けて、年代順にしてあります」
郁は棚を指差した。
「赤い付箋は早めに確認が必要なものです。黄色は保留、青は提出済みです」
「重要度まで分けたの?」
「その方が、探しやすいと思ったので」
マルコは棚から一冊のファイルを抜く。
目的の書類が、すぐに見つかった。
「……すごいな」
感心したように呟く。
「部屋まで片付いてる」
「書類を整理するために、少し動かしました」
「少しって規模じゃないだろ」
郁は困ったように笑った。
「勝手に触ってしまって、すみません」
「いや、むしろ助かった」
マルコは整理された部屋をぐるりと見回し、心から嬉しそうに笑う。
「お前、仕事できるな」
郁は少し照れたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
「これならヴィクトルにも怒られない」
「提出期限は過ぎていますけど」
「そこは、郁が整理してくれたって言えば」
「私を言い訳に使わないでください」
「冗談だって」
マルコが大声で笑う。
郁もつられて、少しだけ表情を緩めた。
――――――
マルコは整理された部屋を見渡し、大きく伸びをした。
「よーし」
「部屋も片付いたし、ちょっと休憩しようぜ」
「いいんですか?」
「働き詰めだと効率落ちるだろ?」
そう言いながら、本棚の横に置かれていた木箱へ手を伸ばす。
中から取り出したのは、一組のチェスセットだった。
木製の駒が、軽い音を立てる。
郁の視線が、ほんの少しだけ盤へ動いた。
その小さな変化を、マルコは見逃さなかった。
「お?」
「チェス、知ってる?」
「はい」
「やったことは?」
「数回だけ」
郁は盤を見つめながら答える。
「あとは、本を読んで勉強しました」
「本で?」
「定石や過去の対局を見ていました」
マルコは楽しそうに笑う。
「じゃあ、一局やろう」
「いえ、私はまだ仕事中なので」
「休憩も仕事のうち」
「そうなんですか?」
「そういうことにしておこう」
郁は少し迷ったあと、静かに席へ着いた。
「では、お願いします」
「おう」
マルコは慣れた手つきで駒を並べる。
「でも、数回しかやったことないんだろ?」
「はい」
「俺、ファミリーで一番強いからさ」
そう言って、盤上からナイトを一つ取り除いた。
「最初だし、ピース・オッズでやろう」
郁は外された駒を見る。
「いいんですか?」
「いいよ」
マルコは余裕の笑みを浮かべた。
「これでも負けないから」
「分かりました」
郁も自分の駒を整える。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
二人の間に、静かな時間が流れ始めた。
最初に駒を動かしたのは、マルコだった。
序盤は迷いがない。
相手の様子を見るように、軽やかに駒を進めていく。
(数回しかやったことないなら、初心者に近いか)
そう思っていた。
だが。
一手。
二手。
三手。
郁の指し手を見るたび、マルコの表情が少しずつ変わっていく。
(ん?)
無駄が少ない。
相手の攻撃を受けるだけでなく、先を読んで駒を置いている。
(この形……)
マルコの笑顔が、自然と消えた。
対する郁は表情を変えない。
盤だけをじっと見つめている。
手を止める時間は長いが、迷っているというより、いくつもの可能性を比較しているようだった。
(本で覚えたって言ってたけど)
(ちゃんと使えてる)
数十分後。
郁が静かに駒を置く。
「……チェックメイトです」
マルコは盤面を見つめたまま固まった。
「……」
逃げ道はない。
完全に詰んでいる。
「俺、負けた?」
郁は少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません」
次の瞬間。
マルコは腹を抱えて笑い出した。
「はははは!」
「お前、強いじゃん!」
「ハンデをいただいたので」
「それでもだよ!」
マルコは外していたナイトを手に取り、盤上へ戻す。
「もう一回」
「いいんですか?」
「今度はハンデなし」
楽しそうな笑みの奥に、先ほどまでなかった真剣さが浮かんでいる。
「本気でやる」
郁も姿勢を正した。
「お願いします」
二局目が始まる。
先ほどとは、明らかに空気が違った。
マルコの指し手は速く、迷いがない。
序盤から盤面全体を支配するように駒を進めてくる。
郁も必死に食らいついた。
一手先だけでは足りない。
二手、三手。
さらにその先まで読まなければ、すぐに崩される。
けれど、考えることは嫌いではなかった。
むしろ、楽しい。
気付けば一時間近くが過ぎていた。
「……チェックメイト」
最後に駒を置いたのは、マルコだった。
郁は盤面を見つめ、静かに息を吐く。
「負けました」
マルコも背もたれへ身体を預け、大きく息を吐いた。
「はぁー!」
「危なかった!」
「ギリギリだったぞ!」
そう言いながらも、顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「めちゃくちゃ楽しかった」
郁も小さく笑った。
「マルコさん、強いです」
「さすがですね」
素直な称賛に、マルコは少し照れたように鼻の下をこする。
「まあな」
少し間を置き、真面目な顔になる。
「でもさ」
「はい」
「本当に数回しか、人と指したことないの?」
「はい」
「家族や友人と、数回だけです」
「それ以外は?」
「本で学びました」
郁は盤上の駒へ視線を落とす。
「一度覚え始めると、途中でやめるのが落ち着かなくて」
「だからって、ここまでなる?」
「本に書いてあったことを覚えただけなので」
「普通は覚えただけじゃ使えないんだよ」
郁は不思議そうに首を傾げた。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
マルコは苦笑しながら立ち上がった。
「またやろうぜ」
「はい」
郁も席を立つ。
「ぜひお願いします」
その返事を聞き、マルコは嬉しそうに笑った。
整理された部屋。
すぐに見つかるようになった書類。
予想以上に鋭かったチェスの指し手。
訓練で動けることは、ノアから聞いている。
(戦えるだけじゃないんだな)
郁は、言われたことをただこなすだけではない。
状況を見て、自分で必要なことを考える。
そして、教わったことや学んだことを、実際に使える形へ変えていく。
マルコは、部屋を出ようとする郁の背中を見つめた。
(ボスが気に入ったのも、少し分かる気がする)
まだ、信用しきったわけではない。
けれど。
もう少し、この不思議な新人を見てみたい。
マルコはそう思いながら、見つかったばかりの書類を手に取った。――――――
その夜。
隣のベッドから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
郁はそれを確かめてから、そっと枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
毛布の中で、電源ボタンを押す。
画面の隅に、赤い表示が浮かんでいた。
(残り、四パーセント)
昨日の夜、覚悟はしていた。
この数字は、もう二度と増えない。
減っていくだけだと、最初から分かっていた。
(……今夜で、終わりだ)
三分だけ、という約束を、今日だけは破ることにした。
写真のフォルダを開く。
大学の友人と撮った一枚。
実家の夕食。
母の作った肉じゃが。
仏頂面のくせに、ピースだけはしている父。
一枚ずつ、ゆっくりと目に焼き付けていく。
そして最後に、決めていた一枚を開いた。
三人で撮った、家族写真。
笑っている母。
相変わらず仏頂面の父。
その間に挟まれた、少し照れくさそうな自分。
(お父さん)
(お母さん)
画面の中の二人は、何も知らずに笑っている。
娘がもうそこにいないことも。
遠い世界で、それでも生きていることも。
その時。
ふっ、と。
画面が暗転した。
「……あ」
小さな声が漏れる。
電源ボタンを押す。
反応はない。
もう一度押す。
何も映らない。
真っ暗な画面には、暗闇の中の自分の顔だけが、ぼんやりと映っていた。
(……終わった)
分かっていた。
覚悟もしていた。
それでも、目の奥がじわりと熱くなる。
郁は唇を結び、静かに天井を見上げた。
泣けば、隣のニコを起こしてしまう。
ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。
熱が引くまで、それを繰り返した。
(……ありがとう)
写真の中の家族へ。
この機械が繋いでくれていた、すべてのものへ。
心の中だけで、そう告げる。
郁は冷たくなったスマートフォンを、両手でそっと包んだ。
もう画面は灯らない。
それでも、これが大切なものであることは、何も変わらなかった。
明日、丁寧に包んで、荷物の奥へしまおう。
失くさないように。
忘れないためではなく、ちゃんと覚えているから、しまえるのだ。
隣からは、変わらず穏やかな寝息が聞こえている。
(おやすみなさい)
郁はスマートフォンを胸元へ抱いたまま、静かに目を閉じた。
この世界へ来て、三日目の夜だった。




