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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第一章 ヴィンチェンティ・ファミリー

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第6話 友達

訓練を終えた郁は、ニコと並んで部屋へ戻った。


「疲れたー!」


扉を開けるなり、ニコはそのまま自分のベッドへ倒れ込んだ。


軋む音とともに、柔らかな寝具へ身体が沈む。


「隊長、初日から容赦ないよな」


「そうですね」


郁もさすがに疲れていた。


早朝から一時間走り、その後は射撃訓練。さらに体術訓練では、何度も地面へ投げられた。


腕や背中が鈍く痛んでいる。


それでも、嫌な疲れではなかった。


郁は部屋の隅へ荷物を置くと、タオルを持ってシャワー室へ向かった。


「先に使ってもいいですか?」


「もちろん。俺、しばらく動けないから」


ニコはベッドに伏したまま、片手をひらひらと振った。


「ありがとうございます」


郁は部屋を出ていった。


――――――


十分ほどして、郁が部屋へ戻ってくる。


短い髪はまだ少し濡れており、額には水滴が残っている。


けれど、着ている服は朝と同じだった。


白いパーカーに、黒いパンツ。


ベッドで横になっていたニコが、顔を上げる。


「ん?」


「どうしました?」


「着替えなかったの?」


郁は自分の服へ目を落とし、少し困ったように笑った。


「まだ、ここへ来たばかりなので」


「うん」


「着替えを持っていないんです」


「あ」


ニコが納得したように頷く。


「そうか。荷物、ほとんどないんだったな」


「はい」


日本から持ってこられたものは、背負っていたリュックの中身だけだった。


服と呼べるものは、今着ている一着しかない。


ニコは少し考えたあと、ベッドから起き上がった。


そして、自分のクローゼットを開ける。


「とりあえずさ」


中から黒いTシャツと、柔らかそうなスウェットを取り出す。


「俺の服、着る?」


「え?」


郁が目を丸くする。


「背丈、ほとんど同じだし。たぶん入るだろ」


「でも……」


「同じ服をずっと着てる方が嫌じゃない?」


ニコは気にした様子もなく、服を郁へ放った。


郁は慌てて両手で受け止める。


「洗って返してくれればいいから」


借りた服を見つめ、郁は小さく表情を緩めた。


「……ありがとうございます」


「助かります」


「そんな何回も礼を言わなくていいって」


ニコは少し照れくさそうに頭をかく。


「困った時は、お互い様だろ」


郁は一瞬だけ目を丸くした。


この世界へ来てから、警戒されることには慣れ始めていた。


けれど、見返りもなく親切にされることには、まだ慣れていない。


(優しい人だな)


郁は借りた服を抱え直す。


「では、もう一度シャワー室を借りてきます」


「え?」


ニコが不思議そうに郁を見る。


「わざわざ戻るの?」


「はい」


「ここで着替えればいいのに」


郁の動きが一瞬だけ止まった。


ニコにとっては、男同士なのだから何の問題もないのだろう。


けれど、郁にとっては大問題だった。


「……人前で着替えるのが苦手なので」


「そうなの?」


「はい」


郁は真顔で頷いた。


ニコは少し首を傾げたものの、深く追及することはなかった。


「日本人って、恥ずかしがり屋なんだな」


「そうかもしれません」


本当は日本人だからではない。


そう心の中で付け加えながら、郁は再び部屋を出た。


――――――


借りた黒いTシャツとスウェットへ着替えて戻ると、ニコが満足そうに頷いた。


「やっぱり、だいたい同じ大きさだな」


「少し大きいくらいです」


「俺の方が肩幅あるからな」


郁は袖口を少し折る。


着慣れない服ではあるが、汗をかいたまま同じ服を着続けるより、ずっとありがたかった。


「でもさ」


ニコは腕を組みながら郁を見る。


「服一着じゃ、どうにもならないよな」


「そうですね」


「何着か買わないと」


「……そうしたいんですけど」


郁は少し言いにくそうに目を伏せた。


「お金を持っていないので」


「え?」


ニコが大きな声を上げる。


「全然?」


「日本のお金ならあります」


「それ、ここじゃ使えないんだろ?」


「はい」


「じゃあ、本当に何もないじゃん」


あまりにも率直な言い方に、郁は苦笑した。


「そういうことになります」


「なら、俺が貸すよ」


ニコは迷うことなく答えた。


「給料が出たら返してくれればいいし」


「それは……」


郁が戸惑う。


服だけでも借りているのに、さらに金まで借りるのは申し訳ない。


「いいって」


ニコは笑った。


「服がないと困るだろ?」


「そうですけど」


「決まりな」


「でも――」


「そうだ」


ニコは何かを思いついたように手を叩いた。


「勝手に連れ出すと隊長に怒られるから、先に聞いてくる!」


「え?」


「ちょっと待ってて!」


返事を待たず、勢いよく部屋を飛び出していく。


郁は呆然と、その背中を見送った。


(……行動が早い)


静かになった部屋で、思わず小さく笑った。


――――――


ノアは執務室で報告書へ目を通していた。


コンコン、と扉が叩かれる。


「入れ」


「ノアさん!」


返事とほぼ同時に、ニコが勢いよく扉を開ける。


ノアがゆっくりと顔を上げた。


「何だ」


「郁、服がないんですよ」


「……そうか」


「買い物へ連れていってもいいですか?」


ニコの勢いとは対照的に、ノアは静かに考える。


「外出か」


「はい」


「俺が一緒なら大丈夫ですよね?」


「俺の許可だけでは決められない」


ノアは書類を閉じた。


「ボスに確認する」


「お願いします!」


――――――


数分後。


郁はニコとともに、再びレオンの執務室へ呼ばれていた。


ノアから事情を聞いたレオンは、少しだけ目を丸くする。


「あ」


「どうしました?」


「そういえば、郁はこっちのお金を持ってないよね」


「……はい」


郁は申し訳なさそうに頷いた。


「日本のお金しかなくて」


「それじゃ、生活できないね」


レオンは机へ頬杖をつき、少し考える。


やがて、何でもないことのように笑った。


「じゃあ、当面の支度金を渡そうか」


「支度金……ですか?」


「服とか、日用品とか。ここで暮らすために必要な物を買うお金」


郁は戸惑いながらレオンを見る。


「でも、まだ何も働いていません」


「これから働くでしょ?」


「そうですが」


「なら、問題ないよ」


レオンは楽しそうに笑う。


「働き始めたら、少しずつ返してくれればいい」


郁の表情がわずかに和らぐ。


返せるのなら、受け取りやすい。


「分かりました」


「ありがとうございます」


けれど、その直後。


レオンは机の引き出しから金を取り出しながら、付け加えた。


「まあ、必要経費だから本当は返さなくてもいいけどね」


「いえ」


郁は即座に首を横に振った。


「必ず返します」


「律儀だね」


「借りたままは落ち着かないので」


「じゃあ、郁がそうしたいなら好きにして」


レオンは小さな革袋を郁へ差し出した。


「必要な物だけ買っておいで」


「はい」


「ニコ」


「はい!」


「ちゃんと連れて帰ってきてね」


「もちろんです!」


「寄り道しすぎないように」


「善処します!」


「しない顔だね」


レオンが笑い、ノアが静かにため息をついた。


――――――


執務室を出ると、ニコは満面の笑みを浮かべた。


「よかったな!」


「ありがとうございます」


郁は頭を下げる。


「ニコさんのおかげです」


その呼び方を聞いたニコが、少し不満そうに眉を寄せた。


「その“さん”、いらない」


「え?」


「年も近いし、同じ部屋だろ?」


ニコは笑いながら肩をすくめる。


「ほとんど同期みたいなもんじゃん。気軽に呼んでくれよ」


郁は少し考えた。


これまで周囲には年上が多く、誰かを呼び捨てにする機会はほとんどなかった。


「じゃあ……」


少しだけ躊躇いながら口を開く。


「ニコ」


「うん」


「ありがとう」


一瞬、ニコが目を丸くする。


すぐに、人懐っこい笑顔を浮かべた。


「おう!」


郁も小さく笑う。


その表情を見たニコは、少しだけ目を細めた。


(笑うと、ちゃんと年相応なんだな)


訓練中は真剣な顔ばかりで、落ち着きすぎて見えた。


けれど今の郁は、どこにでもいる同年代の少年のようだった。


(弟がいたら、こんな感じなのかな)


ニコはそんなことを思いながら、楽しそうに歩き始めた。


――――――


二人は屋敷を出て、街へ向かった。


「まずは服!」


「はい」


「靴もいるだろ?」


「一足ありますけど」


「訓練用と普段用、分けた方がいいって」


ニコは指を折りながら、必要な物を数えていく。


「シャンプー、歯ブラシ、洗剤、タオル。それから――」


「そんなに急がなくても大丈夫です」


「急ぐって!」


ニコは振り返り、当然のように言う。


「今日から生活するんだから」


その言葉に、郁は小さく目を瞬かせた。


今日から生活する。


言われてみれば、その通りだった。


ここは一時的な避難場所ではない。


少なくとも今の郁にとっては、帰るべき場所になりつつある。


二人は衣料品店へ入った。


ニコは迷うことなく、男性用の服が並ぶ一角へ向かう。


「お前、こういうの好きそう」


黒や白のパーカー、細身のパンツ、シンプルなシャツ。


どれも、郁が日本で普段から選んでいたものに近い。


男性用ではあるが、特に違和感はなかった。


「これは?」


ニコが黒いパーカーを広げる。


余計な装飾がなく、動きやすそうな形だった。


郁は少し考え、頷く。


「……好きです」


「だろ?」


ニコが得意そうに笑う。


「俺も、郁にはこれが似合うと思った」


「ありがとうございます」


「あと、ズボンも何本か」


ニコは次々に服を持ってくる。


郁は最初こそ戸惑っていたが、次第に自然と意見を返すようになっていた。


「これは少し大きいです」


「じゃあ、こっちは?」


「こっちの方が動きやすそうです」


「分かった。そっちにしよう」


二人で服を選び、靴を選ぶ。


日用品も一通りかごへ入れたところで、ニコが何気なく口を開いた。


「下着も必要だろ?」


郁の動きが止まった。


「……それは」


「ん?」


「自分で選びます」


「何で?」


「自分で選びたいので」


郁は真剣な顔で答える。


ニコは不思議そうに首を傾げた。


「変なところでこだわるなあ」


「こだわります」


「分かったよ。じゃあ俺、向こうで待ってる」


「お願いします」


郁はニコが離れたことを確認すると、静かに息を吐いた。


(危なかった……)


男性用の服だけなら問題ない。


けれど、下着まで男性用を選ぶわけにはいかなかった。


幸い、同じ店の別の区画に女性用も置いてある。


周囲を確認しながら必要な物を選び、外から見えない袋へ入れてもらった。


ニコは何も疑わず、入口で待っていた。


「終わった?」


「はい」


「じゃあ次!」


「まだ行くんですか?」


「タオル足りないだろ?」


「一枚あれば――」


「足りないって!」


郁は慌てて、先を歩くニコのあとを追った。


「ニコ、そんなに急がなくても!」


「急ぐ急ぐ!」


二人の声が、賑やかな街の中へ溶けていく。


知らない世界へ来てから、初めてだった。


何も考えず、誰かと並んで笑えたのは。


――――――


買い物を終えて屋敷へ戻る頃には、二人の両腕は荷物で塞がっていた。


「結構買ったな!」


ニコが楽しそうに笑う。


郁も袋の数を見下ろし、少しだけ笑った。


「はい」


「おかげで、生活できそうです」


「最初からそのつもりで買いに行ったんだから、当然だろ」


二人は部屋へ戻り、買ってきた物を順番に片付けていく。


服をクローゼットへ入れ、日用品を棚へ並べる。


空いていた郁の側にも少しずつ物が増え、ようやく誰かが暮らす部屋らしくなってきた。


荷物を片付け終えると、部屋に静けさが戻る。


「……ニコ」


「ん?」


郁が少し照れたように口を開く。


「今日は、本当にありがとうございました」


ニコはベッドへ腰掛けたまま笑った。


「気にすんな」


「でも」


「困った時は、お互い様」


借りた服を渡してくれた時と、同じ言葉だった。


郁は小さく頷く。


「はい」


夜になり、部屋の明かりを落とす時間が近づく。


ニコは寝巻きへ着替えようと、上着へ手をかけた。


郁は反射的に視線を逸らす。


「別に、着替える時まで隠れなくてもいいのに」


「……私は気にします」


「やっぱり日本人って恥ずかしがり屋なんだな」


「そういうことにしておいてください」


「分かった分かった」


ニコは笑いながら、さっさと着替えを済ませた。


郁はニコがベッドへ入ったのを確認してから、買った寝巻きを持って部屋の外へ出る。


「また外で着替えるの?」


「はい」


「面倒じゃない?」


「人前で着替えるよりは」


「変なの」


「よく言われます」


郁は淡々と答え、そのまま部屋を出た。


――――――


着替えを終えて戻ると、ニコはすでにベッドへ横になっていた。


「じゃ、おやすみ」


「おやすみなさい」


郁も自分のベッドへ横になる。


部屋の明かりが消え、暗闇が訪れた。


しばらくして、隣から静かな寝息が聞こえ始める。


郁は天井を見つめながら、この世界へ来てからの出来事を思い返していた。


マルコには美男子と言われた。


店では当然のように男性用の服を勧められた。


そして今、ニコは何の疑問も持たず、自分と同じ部屋で眠っている。


(……やっぱり、男だと思われてる)


郁は小さく息を吐いた。


けれど、驚きはなかった。


前の世界でも、短い髪と中性的な顔立ちのせいで、男に間違われることは珍しくなかった。


制服を着ていない時などは、声をかけられたあとで驚かれることもあった。


(またか、くらいだし)


今すぐ訂正する必要もない。


ここへ来たばかりで、まだ何者なのかも信用されていない。


わざわざ話を複雑にするより、聞かれた時に答えればいい。


(それに、男だと思われている方が都合がいいこともあるかもしれない)


郁はそう考え、毛布を胸元まで引き上げた。


ここは日本ではない。


しかも、マフィアの屋敷だ。


女性だと分かることで、余計な気を遣われたり、別の警戒をされたりする可能性もある。


今はまず、ここで生きていくことの方が大切だった。


隣のベッドでは、ニコが無防備な寝息を立てている。


困っている自分へ服を貸し、買い物にも付き合ってくれた。


その優しさは、性別をどう思われているかとは関係ない。


(この世界に来て、まだ二日しか経っていない)


家族も、大学も、帰る場所も失った。


それなのに。


(もう一人、友達ができた)


そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。


郁はニコの寝息を確かめてから、そっと枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。


毛布の中で、電源ボタンを押す。


(残り、三十五パーセント)


昨日より、また減った。


分かっていたことだ。


それでも、数字を見るたびに、胸の奥が少しだけ軋む。


(……三分だけ)


写真のフォルダを開く。


大学の友人と撮った一枚。


実家の夕食。


母の作った肉じゃが。


仏頂面のくせに、ピースだけはしている父。


(…………)


失った世界と、今日できた友達。


どちらも、郁にとっては本物だった。


決めた時間より早く、電源を落とす。


真っ暗になった画面を、胸元へ抱えた。


隣からは、変わらず穏やかな寝息が聞こえている。


(……おやすみなさい)


誰へともなくそう呟いて、郁は暗闇の中で、ほんの少し笑った。


そして静かに、目を閉じた。

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