第5話 新人を侮るな
午前八時。
屋敷の裏手にある訓練場には、ノア直属の部下たちが整列していた。
朝日が昇り始めたとはいえ、空気にはまだひんやりとした冷たさが残っている。
郁はノアの少し後ろに立ち、静かに周囲を見回した。
黒や紺の訓練着に身を包んだ男たち。
どの顔にも、裏社会で生きてきた者特有の鋭さがある。
昨日突然現れ、ボスの判断だけで屋敷に置かれることになった新人。
自然と、彼らの視線が郁へ集まった。
「昨日、ボスが連れてきた奴だ」
「新人か」
「細いな」
「男……だよな?」
小さなざわめきが広がる。
郁は聞こえていないふりをした。
自分が警戒されるのは当然だ。
むしろ、簡単に受け入れられる方がおかしい。
ノアが一歩前へ出る。
「朝礼を始める」
低い声が響いた瞬間、ざわめきが消えた。
「今日から、こいつも訓練に参加する」
ノアが郁へ視線を向ける。
「名前は郁。しばらく俺が預かる」
郁は一歩前へ出た。
「如月郁です」
まっすぐ前を見て、深く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、よろしくお願いします」
数秒の沈黙。
やがて、部下たちから短い返事が返ってきた。
「よろしく」
「まあ、頑張れ」
「隊長についていけるなら大したもんだ」
まだ好意的とは言い難い。
それでも、露骨に拒絶されなかっただけで十分だった。
その時。
訓練場の入口から、軽い足音が近づいてきた。
「間に合った!」
明るい声とともに、一人の青年が姿を現す。
ふわふわとしたアッシュブラウンの髪。
人懐っこそうな笑顔。
郁とさほど年齢が変わらないように見える。
青年は軽く息を弾ませながら、列の端へ滑り込んだ。
ノアが眉を寄せる。
「ニコ」
「はい」
「任務はどうした」
「予定より早く終わりました」
青年――ニコは、少し誇らしげに胸を張った。
「報告も済ませてあります」
「そうか」
ノアは短く頷く。
ニコはほっとしたように息を吐いたあと、郁へ視線を移した。
「この人が、新入り?」
「ああ」
ニコは遠慮なく郁を観察する。
白い肌。
細身の身体。
短い茶色の髪。
訓練場に立つ姿は、どう見ても戦闘向きには見えない。
「思ったより細いな」
悪意のない率直な感想だった。
「よく言われます」
郁が答えると、ニコは笑った。
「俺はニコ。よろしく」
「よろしくお願いします」
ノアが二人を見比べる。
「ちょうどいい」
その一言に、ニコが嫌な予感を覚えたような顔をした。
「ニコ」
「はい」
「郁の相手をしろ」
「俺ですか?」
「任務帰りで身体は動いているだろう」
「まあ、動きますけど」
ニコは郁をちらりと見る。
「最初から俺で大丈夫ですか?」
「手加減しろ」
「了解です」
軽い調子で答えたニコは、郁の正面へ立った。
周囲の部下たちが少し距離を取る。
ノアは腕を組んだまま、二人を見つめた。
「まずは、どの程度動けるかを見る」
郁は小さく頷く。
「分かりました」
「危険だと思ったら止める。無理はするな」
「はい」
ニコが軽く構えた。
「じゃあ、よろしく」
「お願いします」
郁も見よう見まねで構える。
ノアの声が落ちた。
「始め」
ニコが一歩踏み込む。
(新人だし)
(まずは様子を見るか)
速さを抑えた拳が、郁の肩口へ伸びる。
その瞬間だった。
郁の身体が、考えるより先に動いた。
伸びてきた腕を外側へ流す。
半歩踏み込み、相手の重心を崩す。
腰を落とす。
「え」
ニコが声を上げるより早く、郁はその身体を投げていた。
ドンッ。
ニコの身体がきれいに宙を舞い、そのまま地面へ転がる。
訓練場が静まり返った。
「……」
「……え?」
「ニコが投げられた?」
「今、何した?」
投げられた本人が、一番驚いていた。
ニコは地面へ手をつき、目を丸くしたまま郁を見上げる。
「いてて……」
郁も我に返り、慌てて頭を下げた。
「すみません!」
「反射で……」
「反射?」
ニコはまだ状況を飲み込めていない。
ノアだけは、驚いた様子を見せずに郁を見ていた。
「何かやっていたな」
郁は少し迷ってから答える。
「合気道を三年ほど」
「それと、柔道を一年」
「護身術も少し習っていました」
部下たちの間に、小さなどよめきが走る。
「細いのに?」
「見た目じゃ分からないな」
ノアが郁を見た。
「昨日は言わなかったな」
「射撃には関係ないと思ったので」
郁は当然のように答えた。
(……なるほど)
嘘はつかない。
だが、聞かれた以上のことを、自分から話す性格でもない。
ノアは郁の返答を頭の中に留めた。
ニコは立ち上がり、服についた砂を払った。
「何でそんなにやってたんだ?」
何気ない問いだった。
けれど、郁は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
脳裏に、昔の記憶がよぎる。
後ろから伸びてきた手。
塞がれた口。
車の扉が開く音。
必死に腕を振りほどいた感触。
助けを呼ぶ自分の声。
あの時は、たまたま近くに人がいた。
運がよかっただけだ。
「……昔」
郁は静かに口を開いた。
「誘拐されそうになったことがあって」
訓練場の空気が変わった。
ニコの笑顔もわずかに消える。
「それで始めたのか」
「はい」
郁は小さく頷いた。
「一度怖い思いをすると、何もできないままでいる方が不安だったので」
一拍置く。
「心配性なんです」
少しだけ困ったように笑った。
「何かあった時に、自分の身くらいは守れるようにしておきたくて」
「それで三年も?」
「始めたら、途中でやめるのが落ち着かなかったので」
ニコが数秒黙ったあと、小さく笑った。
「真面目だな」
「よく言われます」
周囲からも、わずかに笑い声が漏れる。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
ノアがニコを見る。
「油断するな」
「……はい」
ニコは苦笑しながら、もう一度構えた。
「新人だと思って舐めてました」
先ほどまでの軽さは消えている。
「もう一回、お願いします」
郁も構え直した。
「こちらこそ、お願いします」
ノアが頷く。
「続けろ」
今度のニコは、最初から動きが違った。
速い。
踏み込みも深い。
郁が腕を受け流そうとした瞬間、その動きを読まれる。
手首を取られ、体勢を崩された。
「っ」
次の瞬間。
郁の身体が地面へ投げられた。
ドサッ。
背中に衝撃が走る。
肺から空気が抜けた。
「大丈夫か?」
ニコが手を差し出す。
郁は一度息を整え、その手を借りずに立ち上がった。
「大丈夫です」
「続けられる?」
「お願いします」
再び構える。
ニコが踏み込む。
郁は受ける。
崩される。
投げられる。
地面へ倒れる。
それでも、すぐに立ち上がる。
「もう一度お願いします」
再び投げられる。
肘が擦れ、痛みが走る。
呼吸も少しずつ乱れていく。
「もう一度」
ニコの表情が変わっていく。
(また立つのか)
最初の一度は、反射と経験で投げられた。
だが、本気になった自分にはまだ敵わない。
それを本人も理解しているはずだ。
それでも、郁は一歩も引かなかった。
何度倒されても、目だけは死んでいない。
ノアも黙ってその様子を見ていた。
郁はニコの動きを追いながら、必死に考える。
(速い)
(正面から受けたら崩される)
また手首を取られる。
地面へ投げられた。
「っ……」
痛みを堪え、起き上がる。
先ほどノアから教えられた姿勢。
ニコに崩された時の重心。
腕を取られる直前の動き。
一つずつ頭の中で整理する。
「休むか」
ノアが尋ねた。
郁は息を弾ませながら首を横に振る。
「大丈夫です」
「無理をする必要はない」
「無理ではありません」
郁は額の汗を拭った。
「まだ、できると思います」
その言葉に迷いはなかった。
ニコも真剣な表情で構え直す。
「分かった」
今度は、郁も自分から一歩踏み込んだ。
ニコの腕が伸びる。
郁は正面から受け止めず、半歩外へずれる。
腕を流す。
重心を落とす。
先ほどまでと同じように手首を取られそうになる。
その直前。
郁は身体をひねり、教わった動きで相手の力を逃がした。
「おっ」
ニコの体勢が、ほんのわずかに崩れる。
郁はその隙を逃さなかった。
肩を入れ、前へ踏み込む。
ドンッ。
ニコの身体が一歩後ろへ下がった。
倒すことはできない。
投げることもできなかった。
それでも、初めてニコの体勢を崩した。
郁はそれ以上追わず、すぐに距離を取る。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
ニコは一瞬驚いたあと、楽しそうに笑った。
「いや」
「今の、良かった」
「ありがとうございます」
「さっきまで俺に投げられてたのに、もう動き変えたのか」
「教えていただいたことを試しただけです」
「それがすぐできるのがすごいんだよ」
郁は少しだけ照れたように笑った。
ノアは腕を組んだまま、その姿を静かに見つめている。
初めは反射で投げた。
本気になったニコには、何度も負けた。
それでも立ち続けた。
倒されるたびに、相手の動きを見ていた。
教えたことを、その場で自分のものにしようとしていた。
(諦めない)
(考える)
(教えたことを使える)
ノアは小さく息を吐いた。
そして。
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「……見込みあるな」
訓練場が静まり返った。
「え」
「隊長が褒めた?」
「今、見込みあるって言ったよな?」
「初めて聞いたぞ」
部下たちがざわつく。
郁はきょとんとしたまま、ノアを見た。
「……私ですか?」
「他に誰がいる」
淡々とした返事だった。
けれど、否定はしなかった。
郁の表情が、少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
ノアは短く頷く。
「ああ」
ニコが郁の肩を軽く叩いた。
「隊長に褒められるなんて、相当だぞ」
「そうなんですか?」
「俺、初めて聞いた」
周囲の部下たちも口々に続ける。
「俺も」
「隊長、人を褒めるタイプじゃないからな」
「それだけ期待されてるってことだ」
郁は少し困ったように笑った。
「……そうなんですね」
嬉しい。
けれど、どう反応すればいいのか分からない。
そんな表情だった。
ノアはその様子を一度だけ見て、背を向ける。
「休憩だ」
「はい!」
郁はいつもより少し明るい声で返事をした。
倒されて、痛む身体を押さえながらも、その足取りは軽い。
ニコは郁の後ろ姿を眺め、小さく笑った。
「面白いやつだな」
たった一度勝っただけで、強くなったわけではない。
何度も負けた。
実力の差も、まだ大きい。
それでも郁は、負けるたびに立ち上がった。
そして最後には、ほんの少しだけ前へ進んだ。
その日。
郁は初めて、自分の力でファミリーの人間から認められた。




