第4話 努力家
翌朝。
空がようやく白み始めた頃、屋敷はまだ深い静けさに包まれていた。
郁は借りたばかりの部屋で身支度を整えると、音を立てないように扉を開けた。
同室になる予定のニコは、まだ仕事から戻っていない。
二つあるベッドのうち、片方だけが使われた室内は、ひどく静かだった。
(昨日、マルコさんが言ってた)
ノアは、毎朝早くから一人でトレーニングをしているらしい。
郁は記憶を頼りに廊下を進み、ノアの部屋の前までやってきた。
扉の正面に立つのは邪魔になるかもしれない。
少し離れた壁際へ移動し、廊下の掛け時計で時刻を確認する。
聞いていた時間より、まだ少し早い。
(新人だし)
(遅れるよりは、早い方がいい)
そう考え、背筋を伸ばして静かに待つ。
しばらくして。
カチャリ、と扉の開く音がした。
黒いトレーニングウェアを身にまとったノアが、部屋から姿を現す。
壁際に立つ郁を見つけると、わずかに目を見開いた。
「……おはようございます」
郁はすぐに頭を下げた。
ノアは一瞬だけ黙ったあと、小さく頷く。
「おはよう」
低い声が、静かな廊下に響く。
「早いな」
「新人なので」
郁が真面目な顔で答えると、ノアは少しだけ考えるように目を細めた。
「そうか」
それ以上は何も言わず、歩き始める。
郁も一歩後ろからついていった。
「ほかの方たちは、まだですか?」
「八時頃に集まる」
「全体の体術訓練は、それからだ」
「分かりました」
数歩進んだところで、郁は申し訳なさそうに尋ねた。
「……ご迷惑でしたか?」
ノアが足を緩める。
「何がだ」
「こんなに早く来てしまって」
「いや」
短く否定してから、ノアは郁へ視線を向けた。
「だが、俺が部屋を出る時間をよく知っていたな」
「あ……」
郁は昨日のやり取りを思い出す。
「マルコさんに聞きました」
「ノアさんは何時からトレーニングを始めるんですか、と」
「なるほど」
ノアは再び前を向いた。
表情は変わらない。
けれど、その胸中にはわずかな感心が生まれていた。
(真面目だな)
教えられるのを待つのではなく、自分から時間を聞きに行ったらしい。
「まずは、体力を見る」
「はい」
「外周を走る。ついてこい」
「分かりました」
二人は屋敷の外へ出た。
朝の空気は冷たく、まだ薄暗い空には夜の名残が残っている。
ノアは軽く身体をほぐすと、走り始めた。
決して全力ではない。
だが、一般人が朝の運動として走るには、十分すぎるほど速かった。
郁もすぐにその後を追う。
一定の歩幅。
一定の呼吸。
余計な力を使わず、淡々と足を動かしていく。
十分。
二十分。
三十分。
ノアは振り返らずに走り続けていたが、足音が途切れないことを確認していた。
四十分を過ぎた頃、初めて後方へ視線を送る。
郁はまだ、数歩後ろについてきていた。
短い髪が汗で額に張りついている。
呼吸は少し荒くなっていたが、足取りは崩れていない。
(細い身体の割に、体力がある)
ただ意地で走っているわけではない。
着地が安定している。呼吸の取り方も分かっている。
(走り慣れているな)
一方の郁は、少しずつ重くなる足を必死に前へ運んでいた。
(速い……)
ノアは、息を乱している様子すらない。
郁に合わせて速度を落としているのだろう。それでも、ついていくだけで精一杯だった。
(でも、このくらいなら)
(まだいける)
日本にいた頃も、郁は早朝のランニングを習慣にしていた。
講義や実習が忙しくなってからも、短い時間を見つけて続けてきた。
今、その積み重ねが身体を動かしている。
一時間後。
ノアが速度を落とし、やがて足を止めた。
郁も数歩遅れて立ち止まる。
「はぁ……っ」
大きく息を吐き、膝へ手をつく。
額から落ちた汗が、地面へ染みを作った。
対するノアは、額へわずかに汗を浮かべているだけだった。
「よくついてきたな」
差し出されたのは、冷たい水の入った瓶だった。
「ありがとうございます」
郁は両手で受け取り、喉へ流し込む。
冷たい水が、熱を持った身体へ染み渡った。
「飲みすぎるな」
「はい」
「落ち着いたらストレッチをする」
郁は頷き、呼吸を整える。
少し休んだあと、二人は並んで身体を伸ばし始めた。
静かな朝。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。
ノアは自分のストレッチを続けながら、何気なく郁へ視線を向ける。
郁は長座の姿勢から上体を倒し、無理なく足先へ手を伸ばしていた。
(柔らかいな)
単に関節が柔らかいだけではない。
重心の移動が滑らかで、身体の軸がほとんどぶれない。
伸ばすべき筋肉を理解し、呼吸に合わせて動いている。
(体の使い方を知っている)
走り方と同じだ。
何かしら、継続して身体を鍛えていたのだろう。
ストレッチを終えると、郁は近くのベンチへ腰を下ろした。
地平線から昇り始めた朝日が、屋敷の庭を少しずつ照らしていく。
「休憩のあとは、何をしますか?」
息を整えながら、郁が尋ねる。
「普段なら八時まで休む」
ノアは空を見上げた。
「そのあと、全員で体術訓練だ」
「分かりました」
ノアは隣に座る郁を見た。
体力はある。
柔軟性も高い。
だが、それだけではこの世界で身を守ることはできない。
「お前」
「はい」
「銃を使ったことはあるか」
郁は少し考えた。
友人に勧められて、何度か遊んだFPSゲーム。
画面の中でなら、銃を撃ったことはある。
けれど現実では、モデルガンにすら触れたことがなかった。
「……ありません」
「そうか」
ノアは立ち上がった。
「この世界で生きるなら、早く扱いを覚えた方がいい」
郁もすぐに立ち上がる。
「教えていただけるんですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
「礼は、使えるようになってから言え」
「はい」
二人はそのまま、屋敷の地下にある射撃場へ向かった。
――――――
重たい防音扉を開けると、冷えた空気と独特の金属臭が郁を迎えた。
細長い射撃スペースの奥には、いくつもの標的が並んでいる。
壁際の保管庫には、さまざまな形の拳銃やライフルが収められていた。
郁は思わず足を止める。
本物の銃。
日本にいた頃には、画面や写真でしか見たことのなかった物だ。
「勝手に触るな」
郁の視線に気付いたノアが告げる。
「今後も、俺か担当者がいる時だけ使え」
「分かりました」
ノアは保管庫の鍵を開け、ケースの中から何丁かの拳銃を取り出した。
「まずは、お前に合うものを選ぶ」
郁は並べられた拳銃を見つめる。
違いは分からない。
大きさも重さも、実際に触ったことがなければ判断できなかった。
「……すみません」
「何だ」
「選んでいただけますか。触ったことがないので、どれが合うか分かりません」
ノアは何も答えず、郁の身体を観察した。
肩幅。
腕の長さ。
手の大きさ。
指の長さ。
細身だが、極端に華奢というわけではない。
しばらく考えたあと、一丁の拳銃を手に取った。
「これだ」
弾が装填されていないことを確認してから、郁へ手渡す。
郁は両手で慎重に受け取った。
予想していたよりも、ずっしりと重い。
「これは?」
「フィオレッタのコンパクトモデルだ」
ノアは銃を指しながら、構造と安全装置について簡潔に説明していく。
「小型で、反動が穏やかだ。手が小さくても握りやすい。お前のような細身でも扱える」
郁は一言も聞き漏らさないように耳を傾けた。
「まずは安全確認を覚えろ」
「はい」
「銃口を人へ向けるな。撃つ時以外、引き金に指をかけるな」
「はい」
「自分の判断で装填するな」
「分かりました」
ノアの指示どおりに、一つずつ動作を確認する。
何度か繰り返したあと、ノアが弾倉を装填した。
「構えてみろ」
郁は射線へ立ち、両手で銃を握った。
「肩に力が入りすぎだ」
「はい」
「足をもう少し開け」
郁が足の位置を直す。
ノアは背後から姿勢を確認し、肘の角度をわずかに修正した。
「腕は伸ばしきるな」
「このくらいですか?」
「ああ。重心を少し前へ」
郁は言われたとおりに身体を動かす。
「最初は当たらなくていい」
ノアが標的を見る。
「反動に驚いて銃口を下げるな。まっすぐ狙って撃て」
「はい」
郁は静かに息を吸った。
照準の先に、白い標的が見える。
引き金へ指をかける。
パンッ――。
耳を塞ぐ防音具越しにも、乾いた銃声が大きく響いた。
想像以上の衝撃が、両手から腕へ伝わる。
弾は標的の左下へ外れていた。
「……っ」
郁は銃口を下げず、ゆっくりと息を吐く。
(難しい)
ゲームとは、何もかもが違う。
重さも、音も、引き金の感覚も。
「力が入りすぎだ」
ノアが隣へ立った。
「特に肩」
「はい」
「反動を押さえ込もうとするな。身体全体で受けろ」
「分かりました」
「腕を少し下げろ」
郁は姿勢を直す。
「そうだ。もう一度」
「はい」
目を閉じ、小さく息を吐いた。
弓を引いていた時の感覚を思い出す。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
無理に狙おうとせず、身体の軸と標的を重ねる。
(弓と同じ)
(焦って当てようとしない)
ゆっくりと目を開く。
照準の向こうにある標的だけを見る。
パンッ。
二発目の弾が、黒い円の内側へ突き刺さった。
ノアは標的を見たが、表情を変えなかった。
「続けろ。あと五発だ」
「はい」
郁は呼吸を整え、再び引き金へ指をかける。
パンッ。
パンッ。
銃声が響くたびに、郁の動きから余計な力が抜けていく。
撃った直後も銃口を逸らさず、標的を見続ける。
パンッ。
パンッ。
最後の一発。
郁はゆっくり息を吐き、引き金を引いた。
パンッ――。
銃声の余韻が消える。
「……ふぅ」
郁は指を引き金から外し、教えられたとおりに銃口を下げた。
ノアが標的を確認する。
一発目は外れている。
だが、二発目以降はすべて黒い円の中に収まっていた。
後半の弾は、中心に近い位置へまとまっている。
「……」
ノアはわずかに目を細めた。
「お前」
「はい」
「本当に、銃を撃ったことはないのか」
「ありません」
郁は銃を置き、素直に答える。
「ゲームの中でなら、何度か撃ちました。でも、実物は触れたこともありませんでした」
「ほかに何かやっていたか」
「ほかに……」
郁は少し考える。
「弓道なら、学生時代に」
「どのくらいだ」
「中学と高校で続けていました」
「なるほど」
ノアは標的へ視線を戻した。
「呼吸。姿勢。集中。狙い」
一つずつ確認するように言葉を並べる。
「銃とは違うが、共通する部分はある」
「そうなんですね」
「だから、修正が早かった」
郁は標的を見つめる。
言われてみれば、確かに似ていた。
当てようと焦るほど身体が強張り、狙いが乱れる。
呼吸を整え、同じ動作を繰り返すことが大切なのも同じだった。
「弓道をやっていて、よかったです」
郁がわずかに笑う。
ノアはその表情を見たあと、視線を外した。
(才能だけじゃない)
最初の一発を外した時、郁は言い訳をしなかった。
教えられたことを聞き、すぐに身体へ反映させた。
そこには、これまで何度も同じ動作を繰り返してきた人間特有の粘りがある。
(積み重ねることを知っている)
ノアは拳銃を片付けた。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
郁は深く頭を下げる。
「銃は一日で扱えるようになるものではない」
「はい」
「覚えたと思っても、勝手に使うな」
「分かりました」
「戻るぞ」
「はい」
二人は射撃場をあとにし、地上へ戻った。
――――――
屋敷へ向かう途中、明るい声が響いた。
「ノア!」
振り返ると、マルコが大きく手を振りながら近づいてくる。
「お、郁も一緒か。もう始めてたんだな」
「ああ」
「どうだった?」
マルコが興味津々といった様子で郁とノアを見比べる。
「走ったのか?」
「一時間ほど」
「一時間?」
マルコが郁を見る。
「初日から?」
「何とか、ついていけました」
「何とかって顔じゃないけどな。結構疲れてるぞ」
「少しだけです」
「それを少しって言うのか……」
マルコは呆れたように笑った。
「それで? ノア先生、新人の評価は?」
ノアは答えず、歩き続ける。
「おーい。無視するなよ」
「まだ分からん」
「珍しく慎重だな」
「初日だ」
「それはそうだけど」
マルコが郁の顔を覗き込む。
「銃も撃った?」
「はい」
「初めてだったんだろ?」
「はい。難しかったです」
「当たったのか?」
「最初は外しました」
郁は正直に答えた。
「そのあとは、少しだけ」
「少しだけねえ」
マルコはノアを見る。
「実際は?」
ノアは足を止めないまま、郁をちらりと見た。
「まだ評価するには早い」
「でも」
わずかな間を置く。
「努力する奴だ」
郁が目を瞬かせた。
「教えたことは、すぐに吸収する」
短い言葉だった。
けれど、ノアから向けられた初めての肯定だった。
郁は少しだけ照れたように笑う。
「ありがとうございます」
ノアはそれ以上、何も言わなかった。
まだ信用したわけではない。
戦場で役に立つとも、仲間として認めたとも言っていない。
評価するには、あまりにも早すぎる。
だが。
(悪くない)
次は、実戦に近い状況でどこまで動けるか。
何度倒されても立ち上がれる人間なのか。
ノアは静かに、そう考えていた。




