第3話 誰も使わない図書室
「じゃあ行こうぜ、郁」
マルコは軽い足取りで廊下を歩き始めた。
「まずは、生活する場所から案内するな」
「よろしくお願いします」
郁は小さく頭を下げ、その後ろをついていく。
執務室を出た先には、長い廊下が続いていた。
深い色合いの絨毯。壁に並ぶ絵画。大きな窓から差し込む、赤みを帯びた夕方の光。
まるで古い城か、高級ホテルのようだった。
角を曲がったマルコの姿を見失わないよう、郁は足を速める。
けれど、曲がった先にマルコの姿はなかった。
「……あれ?」
同じような扉。同じような絨毯。同じような絵画。
どちらへ進めばいいのか、分からない。
「おーい、郁!」
背後から声が響いた。
振り返ると、反対側の角からマルコが顔を出している。
「そっちじゃない! 逆だ!」
「すみません!」
郁は慌てて駆け戻った。
マルコがにやにやと笑う。
「な? 迷子になるって言っただろ」
「……面目ないです」
「ま、そのうち覚えるって」
マルコは気にした様子もなく、再び歩き出した。
「ここが食堂」
マルコが大きな扉を開く。
その先には、広々とした空間が広がっていた。
長いテーブルがいくつも並び、奥の厨房では数人の料理人が夕食の準備をしている。
肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、郁の鼻をくすぐった。
「腹が減ったら、ここに来ればいい。決まった時間なら、シェフが飯を作ってくれるから」
「分かりました」
郁は食堂を見回したあと、少し迷うように口を開く。
「……自炊はできますか?」
「ん?」
マルコが目を丸くした。
「お前、料理するの?」
「はい。一応」
「へえ!」
先ほどまでよりも少し興味を示し、マルコが身を乗り出す。
「何作れるんだ?」
郁は少し考えた。
「和食が多いです。煮物とか」
「ワショク?」
「日本の料理です」
「ああ、なるほど」
「魚も捌けますし、パンやお菓子も少しなら作れます」
マルコが黙った。
「……」
そのまま数秒、郁の顔を見つめる。
「すげえじゃん」
「そうですか?」
「そうだろ。俺なんか、卵焼くくらいしかできないぞ」
「卵が焼ければ十分だと思います」
「優しいな、お前」
マルコは楽しそうに笑った。
「今度、何か作ってよ」
「お口に合うかは分かりませんけど」
郁も、わずかに表情を緩める。
その笑顔を見たマルコは、一瞬だけ目を丸くした。
「……お前」
「はい?」
「笑うと可愛いんだな」
「そんなことないです」
郁は真顔で答えた。
マルコはしばらく郁を見つめたあと、吹き出す。
「本当に自覚ないんだな」
「何の話ですか?」
「いや、いい」
マルコはにやにやしながら、再び廊下を歩き始めた。
(……天然か)
心の中でそう呟く。
少し歩いたところで、今度は郁が口を開いた。
「マルコさん」
「ん?」
「私のこと、怪しまないんですか?」
マルコは足を止めず、肩をすくめた。
「怪しんではいるよ」
「……やっぱり」
「そりゃ、ボスの部屋に突然現れた奴を、はいそうですかって信用する方がおかしいだろ」
「そうですよね」
「でもまあ、ボスが生かすって決めたからな」
マルコは振り返り、少しだけ笑う。
「変なことしたら、ノアが黙ってないし」
「……」
郁の表情がわずかに固くなった。
それを見たマルコが、面白そうに眉を上げる。
「あ、今の顔」
「何ですか」
「殺されると思った?」
「違うんですか?」
郁が真剣に聞き返す。
マルコは一瞬黙ったあと、けらけらと笑い出した。
「半分くらいは合ってる」
「半分……」
「ここは裏社会だからな」
冗談めいた口調だった。
けれど、その言葉が嘘ではないことを、郁も理解している。
つい先ほどまで、自分は複数の銃口を向けられていた。
(忘れちゃだめだ)
(ここは日本じゃない)
(普通の会社でもない)
郁は静かに頷いた。
「分かりました」
「そんな固くなるなよ。何もしなきゃ大丈夫だから」
「その言葉を信じます」
「真面目だなあ」
マルコは呆れたように笑った。
しばらく進むと、一つの扉の前で足を止める。
「ここが郁の部屋」
扉を開けると、質素だが十分な広さのある部屋が現れた。
ベッドが二つ。机も二つ。
奥には小さな収納棚と窓がある。
「同室はニコ。ノアの部下だ」
「ニコさん」
「そう。今は仕事で外に出てる。今日と明日は戻らないはずだから、会うのは少し先かな」
「分かりました」
「朝は、とりあえず誰かについていけば大丈夫。分からなかったら俺を捕まえろ」
「ありがとうございます」
マルコは部屋の奥を指さす。
「荷物はそこに置ける。服はあとで用意してもらえると思う」
郁は自分の服へ視線を落とした。
白いパーカー。細身の黒いパンツ。白いスニーカー。
つい数時間前までは、何の変哲もない日常着だった。
けれど今は、この場所で明らかに浮いている。
「助かります」
「それから、こっちがシャワーとトイレ」
再び廊下へ出て、マルコが隣の扉を指さした。
「共同だけど、個室だから問題ないだろ?」
「はい。大丈夫です」
「よし。じゃあ、次」
歩き出したマルコが、ふと廊下の先へ目を向けた。
「あ」
「どうしました?」
「ボス見つけた」
窓際に、レオンが立っていた。
誰かと話していたようだが、マルコの声に気付いて振り返る。
「ボスー!」
大きな声で呼ばれ、レオンがこちらへ歩いてくる。
「案内、終わった?」
「あと一か所!」
「どこ?」
「図書室」
レオンは少しだけ興味を示したように目を細めた。
「じゃあ、俺も行こうかな」
三人で廊下を進み、奥にある重たい木製の扉の前へ向かう。
マルコが取っ手へ手をかけた。
「ここ」
扉を開く。
そこは、図書室だった。
壁一面を埋め尽くす本棚。
天井近くまで続く、無数の本。
古い洋書。専門書。歴史書。経済。語学。小説。
さまざまな分野の本が、ところ狭しと並んでいる。
「何代か前のボスが、本好きだったらしくてさ」
マルコが本棚を見上げる。
「集めた本が、そのまま残ってるんだ」
「随分な量ですね」
「だろ?」
郁は返事をしなかった。
吸い寄せられるように、本棚へ近づいていく。
指先で背表紙をそっとなぞる。
「……すごい」
その声は、思わず漏れたものだった。
それまで張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩んでいる。
瞳も、わずかに輝いていた。
レオンはその横顔を静かに見つめる。
「本、好き?」
郁は本棚から目を離さないまま、小さく頷いた。
「はい」
短い返事だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
レオンは本棚を見上げ、それから再び郁へ視線を戻す。
「そう」
優しく微笑む。
「よかった」
郁が不思議そうに振り返る。
「何がですか?」
「ここ、ほとんど誰も使わないから」
レオンは郁の隣に立ち、本棚を見上げた。
「これからは、遠慮なく使っていいよ」
郁が目を見開く。
「……いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
ほんの一瞬。
それまで緊張で固くなっていた郁の表情が、柔らかくほどけた。
声も、先ほどまでより少しだけ明るい。
レオンはそんな郁の横顔を見つめ、静かに目を細める。
「……やっと、少し笑った」
「え?」
郁が振り向く。
けれど、その時にはもう、レオンはいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「何でもないよ」
「そうですか」
郁は少し不思議そうにしながら、再び本棚へ顔を向ける。
その様子を見て、レオンは静かに微笑んだ。
誰も使わなかった図書室。
その日、そこは初めて、郁にとってこの世界の中で少しだけ息をつける場所になった。
――――――
その夜。
あてがわれた部屋で、郁は一人、ベッドの端に腰掛けていた。
もう一つのベッドは、綺麗に整えられたまま主を待っている。
同室になるという、ニコ。
どんな人なのだろう、と思いながら、郁はリュックの中からスマートフォンを取り出した。
電源ボタンを押す。
見慣れた画面が、静かな部屋に浮かび上がった。
画面の隅に表示された数字を、まず確認する。
(残り、六十八パーセント)
充電する手段は、この世界のどこにもない。
この数字は、もう二度と増えない。
減っていくだけだ。
(……三分だけ)
自分に言い聞かせて、写真のフォルダを開く。
大学の友人と撮った一枚。
実家の夕食。
母の作った肉じゃが。
仏頂面のくせに、ピースだけはしている父。
(…………)
見たいものは、まだたくさんあった。
けれど。
郁は目を閉じて、息を吐く。
そして、決めた時間より早く、電源を落とした。
真っ暗になった画面に、自分の顔だけが映る。
(明日も、あるから)
減らさなければ、明日も見られる。
分かっている。
こんなものを見ても、何も戻らないことくらい。
それでも郁は、スマートフォンを胸元へ抱えたまま、静かに目を閉じた。
長い、長い一日が、ようやく終わった。




