第2話 拾われた少年?
郁が差し出された手を取ると、レオンは満足そうに笑った。
「それじゃあ、まずは荷物を確認させてもらうね」
穏やかな言い方だったが、拒否できる雰囲気ではなかった。
郁は背負っていた黒いリュックを下ろす。
「分かりました」
床に置いたリュックへ手を伸ばしかけると、すぐそばに立っていたノアが制した。
「自分で開けるな」
低い声に、郁の手が止まる。
「武器が入っている可能性がある」
「……すみません」
郁は素直に手を引いた。
ノアは郁から目を離さないまま、リュックを手に取る。ファスナーを開き、中身を一つずつ机の上へ並べていった。
医学書。講義で使っていたノート。筆箱。財布。イヤホン。飲みかけのペットボトル。
最後に、薄い板のようなものが姿を現す。
「これは?」
ノアが警戒した様子で尋ねた。
「スマートフォンです」
「すまーと……?」
金髪の青年が首を傾げる。
郁は少し迷ってから答えた。
「電話です」
「電話?」
「通話だけではなく、文字を送ったり、写真を撮ったり、調べ物をしたりできます」
「それ一つで?」
「はい」
金髪の青年が興味深そうに身を乗り出した。
「すげえな。使ってみてくれよ」
郁はノアの顔を見る。
ノアは一度レオンへ視線を向け、許可を確認してからスマートフォンを郁へ差し出した。
電源ボタンを押す。
画面はついた。
けれど、当然ながら通信を示す表示はない。
「……電波がありません」
「壊れてる?」
「いえ。使える通信設備が周囲にないんだと思います」
答えながら、郁は内心で確信を深めていた。
(電波がないだけじゃない)
目の前の男たちは、スマートフォンそのものを知らなかった。
イタリアは、日本と変わらない先進国のはずだ。まして、これだけの組織の人間が、誰一人この機械を見たことがないなんて。
(ここは……私の知っている世界じゃない)
白銀色の髪をした青年が、郁の手元をじっと見つめている。
「貸して」
短く告げられ、郁はスマートフォンを差し出した。
白銀髪の青年は細い指で画面へ触れる。
「文字が違う」
「日本語です」
「分解していい?」
「駄目です」
郁が即答すると、白銀髪の青年が初めて顔を上げた。
二人の視線がぶつかる。
「大切なものなので」
「……分かった」
名残惜しそうにしながらも、白銀髪の青年は素直にスマートフォンを返した。
金髪の青年が小さく笑う。
「ルカが一回で諦めた」
「壊したら情報が消える」
「そこじゃないだろ」
その隣で、眼鏡をかけた男は財布の中身を確認していた。
見覚えのない紙幣と硬貨を机の上へ並べる。
「これが日本の通貨ですか?」
「はい。円といいます」
「こちらでは使用できないでしょうね」
「……そうですよね」
分かっていたことだった。
それでも、財布の中にある金が何の価値も持たないと告げられると、郁は改めて自分が帰る場所を失ったのだと実感した。
眼鏡の男が財布の中から、一枚のカードを取り出す。
「これは?」
「学生証です」
カードには、大学名と郁の写真、そして名前が記されていた。
文字を読むことはできなくても、顔写真から本人の物だということは分かる。
レオンが眼鏡の男の手元を覗き込む。
「学生だったんだ」
「はい」
「何の勉強を?」
「医学です」
その答えに、幹部たちの空気がわずかに変わった。
「医者なのか?」
金髪の青年が尋ねる。
「まだ学生です。治療行為をできる資格はありません」
「でも、知識はある?」
レオンの問いに、郁は頷く。
「基礎的なことと、簡単な応急処置なら」
「へえ」
レオンの琥珀色の瞳に、興味が浮かんだ。
「それは役に立ちそうだね」
ノアは医学書を一冊手に取り、中を開く。
当然、そこに並ぶ文字は読めない。
「これも日本語か」
「はい」
「暗号ではないと証明できるか?」
「……難しいです」
郁は正直に答えた。
「こちらの言葉に訳すことはできますが、内容が正しいか判断できる人がいなければ、証明にはならないと思います」
ノアは郁を見た。
疑うような鋭い視線。
けれど、郁は目を逸らさなかった。
「嘘をつけば、ごまかせたと思うけど」
レオンが楽しそうに言う。
「その答えを選ぶんだね」
「証明できないものを、できるとは言えません」
「真面目だなあ」
金髪の青年が肩をすくめる。
「怪しいけど、少なくとも今の荷物に武器はなさそうだな」
「刃物も薬品もありません」
ノアが報告する。
眼鏡の男は学生証と財布を机へ戻した。
「身元を証明する物はありますが、こちらで確認する手段はありませんね」
「そうだね」
レオンは少し考えたあと、郁へ向き直った。
「この荷物は一度預からせてもらうよ」
「スマートフォンもですか?」
「それは返してあげて」
白銀髪の青年が不満そうにレオンを見る。
「調べたい」
「壊さない自信は?」
「ない」
「じゃあ駄目」
「……分かった」
白銀髪の青年はあっさり引き下がった。
レオンは郁へスマートフォンを差し出す。
「大事なんでしょ?」
「……ありがとうございます」
受け取ったスマートフォンを胸元へ寄せる。
今は何の役にも立たない。
それでも、日本とつながっていた唯一の物だった。
「残りの荷物は確認が終わったら返す」
ノアの言葉に、郁は頷いた。
「分かりました」
「じゃあ、改めて紹介するね」
レオンは郁の隣へ立ち、四人の幹部たちへ視線を向けた。
「俺がボスのレオン・ヴィンチェンティ」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「見てのとおり、このファミリーには俺以外に四人の幹部がいる」
郁は小さく頷いた。
目の前に並ぶ四人は、誰一人として隙がない。
つい先ほどまで自分へ銃を向けていたこともあり、自然と背筋が伸びた。
「ひとまず、郁にはノアの下についてもらおうと思う」
レオンが大柄な黒髪の男を見る。
ノアは郁の前まで歩いてきた。
鋭い眼差し。無駄のない立ち姿。
一歩近づいただけで、周囲の空気が張り詰める。
「ノア・リナルディだ」
低い声が部屋へ響いた。
「ボスが生かすと決めた。だから、その決定には従う」
一度言葉を切り、郁をまっすぐ見据える。
「だが、お前を信用したわけではない」
「はい」
「ここに置かれる以上、役に立て」
「……分かりました」
郁は深く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
(……強そうだ)
鍛えられた身体。鋭い視線。動きに一切の無駄がない。
(この人、多分、この組織で一番強い)
「その認識で合ってるよ」
「……え?」
郁が思わず顔を上げると、レオンが楽しそうに笑っていた。
「顔に書いてあった」
「そうですか……」
「ノアはファミリーで一番腕が立つ。分からないことがあれば、まずノアに聞いて」
ノアは何も言わず、腕を組んで郁を見つめている。
「次はヴィクトル」
レオンが眼鏡をかけた男へ視線を移した。
「財務と人事、契約関係を担当してる。俺の予定もほとんどヴィクトルが管理してるかな」
「管理しなければ、ボスは予定を増やし続けますから」
ヴィクトルは淡々と答えたあと、郁へ向き直った。
「ヴィクトル・モレッティです」
穏やかな笑顔。丁寧な口調。
一見しただけでは、裏社会の人間には見えない。
「ボスがお決めになったことです。ですから、私もあなたを受け入れます」
その言葉に、郁はわずかに肩の力を抜いた。
「ただし」
ヴィクトルは笑顔のまま続ける。
「このファミリーを裏切った場合、容赦はいたしません」
笑顔が一切変わらない。
だからこそ、余計に怖かった。
「……よろしくお願いします」
(この人が、一番怖いかもしれない)
郁は心の中だけでそう呟いた。
「次、マルコ」
「やっと俺の番か!」
金髪の青年が、軽い足取りで郁の前までやってくる。
「情報収集と交渉担当。顔が広くて、口がうまい」
「褒めてる?」
「もちろん」
レオンが笑うと、マルコも楽しそうに笑った。
「マルコ・ヴェルディ。よろしくな!」
「如月郁です。よろしくお願いします」
マルコは郁の顔をじっと見つめた。
「お前さ」
「はい」
「ずいぶん綺麗な顔してるよな」
「……ありがとうございます」
「美男子ってやつ?」
「……」
どう答えればいいのか分からず、郁は黙った。
マルコはさらに郁の顔を覗き込む。
「日本ではモテただろ?」
「普通です」
即答だった。
一瞬、室内が静まり返る。
そしてマルコが吹き出した。
「自覚ないのかよ!」
レオンまで小さく笑っている。
(……陽気な人だ)
先ほどまで銃を向けられていたとは思えない距離の詰め方に、郁は少しだけ圧倒された。
「最後はルカ」
レオンが白銀色の髪をした青年へ顔を向ける。
「情報解析と技術関係。機械については、俺たちの中で一番詳しい」
ルカは端末から一瞬だけ顔を上げた。
「ルカ・フェラーリ」
短く名乗る。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
「スマートフォン、あとで見せて」
「壊さないなら」
「努力する」
「努力では困ります」
郁が真顔で返すと、マルコがまた笑い出した。
ルカは少し考えたあと、小さく頷く。
「分かった」
そして、何事もなかったかのように画面へ視線を戻した。
(あまり話さない人なんだ)
郁は四人を順番に見回す。
ノア。ヴィクトル。マルコ。ルカ。
(本当に、全員違う)
レオンが満足そうに頷いた。
「紹介はこんなところかな。とりあえず、幹部の名前だけは覚えておいて」
「はい」
「それと、急で悪いんだけど」
レオンは少し申し訳なさそうな顔をした。
「部屋はしばらく二人部屋でも大丈夫?」
「はい。置いていただけるだけで十分です」
「よかった。助かる」
レオンがそう言った瞬間、ノアがわずかに眉を動かした。
「じゃあ、部屋まで案内しようか」
レオンが言うと、幹部四人の視線が一斉に集まった。
「……ボス」
マルコが笑いながら口を開く。
「ボス御自身が案内するんですか?」
「俺でもいいけど」
レオンは少し考えると、マルコへ視線を向けた。
「マルコ、こういうの得意でしょ?」
「こういうのって何だよ」
「新入りの案内」
「まあ、得意だけど」
「お願いしていい?」
「もちろん!」
マルコは親指を立てた。
「任せろ、ボス!」
「助かる」
レオンは自然にそう返した。
そのやり取りから、二人の普段の関係が伝わってくる。
「じゃあ行こうぜ、郁」
マルコが扉を開ける。
「広いから迷子になるなよ」
「気を付けます」
郁はレオンへ一礼し、マルコのあとについて執務室を出た。
重厚な扉が、静かに閉まる。
――――――
執務室には、レオンと三人の幹部だけが残された。
短い沈黙のあと、最初に口を開いたのはヴィクトルだった。
「本当によろしかったのですか?」
レオンは窓の外へ目を向ける。
夕日が街を赤く染めていた。
「何が?」
「郁です」
「勘だけで、生かすことをお決めになったのですか?」
レオンは少しだけ考える。
「……いや」
三人の視線が集まる。
「あの目かな」
「目?」
ノアが尋ねた。
「死ぬ覚悟はしてた」
銃を向けられても、郁は取り乱さなかった。
処分という言葉の意味を理解しても、命乞いをしなかった。
「でも、生きることは諦めてなかった」
恐怖を押し殺しながら、まっすぐこちらを見返していた。
わずかな可能性にも、手を伸ばそうとしていた。
「ああいう目をする人は、嫌いじゃない」
部屋が静かになる。
ノアは腕を組んだまま、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
ヴィクトルはわずかに微笑む。
「それも勘ですか?」
レオンは悪戯っぽく笑った。
「そういうことにしておこう」
ノアは何も答えず、窓の外へ視線を向けた。
ルカだけは端末を操作し続けている。
「それより」
ヴィクトルが机の上へ残された学生証を見る。
「二人部屋で本当によろしいのですか?」
「空いている部屋、そこしかないでしょ?」
「そうですが……」
郁が本当に危険な存在ではないとは言い切れず、ヴィクトルは言葉を濁した。
レオンが不思議そうに首を傾げた。
「男同士なら、問題ないんじゃない?」
誰も異論を挟まなかった。
写真に写っているのは、短い髪に中性的な顔立ちの郁。
名前だけでは、性別までは判断できない。
白いパーカーに細身の黒いパンツという服装も相まって、彼らは誰一人として疑っていなかった。
如月郁が、少年だと。
その時、廊下からマルコの大きな声が聞こえてきた。
「おーい、郁!」
「そっちじゃない! 逆だ!」
「すみません!」
慌てて戻ってくる足音に、レオンは自然と笑みをこぼす。
「……賑やかになりそうだね」
その声には、わずかな楽しさが混じっていた。




