第1話 ボスの目の前に落ちた日
重厚な扉が閉ざされた執務室。
磨き上げられた木製の机。壁一面を埋め尽くす本棚。天井まで届く大きな窓の向こうには、夕日に染まるヨーロッパの街並みが広がっている。
執務机に腰掛けた青年は、静かに書類へ目を通していた。
柔らかなハニーブラウンの髪。琥珀色の瞳。
黒いスーツを隙なく着こなした姿には、若さに似合わない静かな威圧感がある。
その時だった。
何もない空間が、ふっと揺らいだ。
「……?」
青年が書類から顔を上げる。
次の瞬間。
ドサッ、と鈍い音が執務室に響いた。
青年の目の前に、一人の人間が落ちてきた。
白いオーバーサイズのパーカー。細身の黒いパンツ。履き慣れた白いスニーカー。
背中には、黒いリュックを背負っている。
短い茶色の髪に、すらりとした細身の体格。俯いた横顔だけを見れば、少年にも見えた。
青年は一瞬だけ目を細める。
次の瞬間には、迷いなく机の引き出しへ手を伸ばしていた。
カチャリ。
静まり返った執務室に、冷たい金属音が響く。
銃口が、床に倒れた人物にまっすぐ向けられた。
「……誰だ」
低く落ち着いた声。
イタリア語だった。
床に手をついていた郁は、その言葉を聞いた瞬間、小さく目を見開いた。
(……イタリア語?)
聞き取れる。
旅行に行くときに困らないようにと、勉強を続けていた言葉だ。
(ここ、イタリア……?)
顔を上げないまま、視線だけを動かす。
重厚な家具。見たことのない調度品。大きな窓の向こうに広がる、ヨーロッパらしい街並み。
どこを見ても、日本ではない。
そして何より。
目の前には、自分に拳銃を向けている男がいる。
(……まずい)
(ものすごくまずい)
冷たい汗が背中を伝う。
なぜここにいるのか。何が起きたのか。
何一つ分からない。
それでも、郁は混乱する頭を必死に押さえ込んだ。
(取り乱したら、もっと警戒される)
銃を持つ男の指は、引き金にかかっている。
不用意に動けば撃たれる。
そう判断した郁は、ゆっくりと両手を上げた。
青年は何も言わず、その動きを観察している。
「質問を変えよう」
相変わらず、冷静な声だった。
「どこから来た?」
郁は一度、息を整える。
「……その前に、一つ聞いてもいいですか」
青年の眉が、わずかに動いた。
許可されたわけではなかったが、郁は続けた。
「ここは……イタリアですか?」
今度こそ、青年の表情がわずかに変わった。
――――――
数十分前。
郁は大学からの帰り道を歩いていた。
白いパーカーのポケットへ片手を入れ、もう片方の手で黒いリュックの肩紐を握っている。
今日も講義と図書館で一日が終わった。
(帰ったら、今日の範囲をもう一度復習しよう)
イヤホンから流れる音楽を聴きながら、いつもの道を歩く。
その時だった。
公園から、小さな女の子が道路へ飛び出した。
その先から、大型トラックが迫っている。
「危ない!」
郁は考えるより先に駆け出していた。
(間に合う)
瞬時に距離と速度を測る。
(抱えて、反対側へ飛べば助けられる)
迷わず腕を伸ばし、女の子の身体を抱き上げようとした。
けれど。
「……え?」
動かない。
小さな身体は、まるで地面に縫い付けられているかのように、びくともしなかった。
(どうして……?)
郁が顔を上げる。
女の子もまた、ゆっくりとこちらを見上げた。
そして。
ふっと笑った。
「――っ」
背筋が凍る。
(この子、普通じゃない)
そう気付いた時には、もう遅かった。
けたたましいクラクション。
全身を砕くような衝撃。
身体が宙へ浮く。
痛い。
息ができない。
(私、死ぬんだ)
視界が白く染まっていく。
助けようとした女の子は、どうなったのだろう。
最後にそれだけを考えて――。
――――――
「……ねえ、」
低い声が聞こえた。
郁は、はっと意識を引き戻される。
目の前には、まだ拳銃を向けた青年がいる。
夕日に照らされた琥珀色の瞳が、郁をじっと見つめていた。
(夢じゃない)
トラックにはねられた。
自分は、確かに死んだはずだ。
それなのに。
(……私は、どこへ来たの?)
答えが見つからないまま、郁は銃口を見つめた。
青年もまた、郁を静かに観察している。
しばらくして、彼は机の上に置かれていた小さな呼び鈴へ手を伸ばした。
――――――
コンコン。
少しして、執務室の扉が叩かれた。
「入って」
青年が短く告げる。
重厚な扉が開き、最初に入ってきたのは、浅黒い肌に黒髪を刈り上げた大柄な男だった。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、鋭い視線が状況を捉える。
青年へ向けられた銃口。
床に座り、両手を上げている見知らぬ人物。
大柄な男は迷うことなく拳銃を抜き、郁へ向けた。
続いて入ってきた金髪の青年も、状況を確認するとすぐに銃を構えた。
「……ボス」
大柄な男が低い声で尋ねた。
「そいつは?」
ボスと呼ばれた青年は、拳銃を構えたまま答えた。
「俺の目の前に落ちてきた」
部屋が静まり返った。
「……は?」
金髪の青年が、思わず素っ頓狂な声を上げる。
「落ちてきた?」
「うん」
「どこから?」
「分からない」
「分からないって……」
「本当に、何もないところから突然現れたんだよ」
ボスは少し困ったように笑った。
「俺も信じられないから、呼んだ」
大柄な男は銃口を郁へ向けたまま、素早く窓際へ移動した。
窓には鍵がかかっている。ガラスも割れていない。
侵入した形跡は、どこにもなかった。
その間に、白銀色の髪をした青年が静かに扉を閉める。
郁には一度だけ視線を向けたが、銃を構える様子はない。
「監視記録、確認する」
それだけを告げると、白銀髪の青年は執務机の端末を操作し始めた。
最後に入ってきたのは、眼鏡をかけた、髪をきっちりと整えた男だった。
彼は不用意に郁へ近づかず、まずボスの様子を確認する。
「お怪我はありませんか」
「ないよ」
「接触は?」
「してない」
眼鏡の男は安堵することなく、郁へ厳しい視線を向けた。
白銀髪の青年が、画面を見たまま小さく首を振る。
「映ってない」
「廊下は?」
「誰も通ってない。扉も開いてない」
眼鏡の男が室内を見回す。
「……あり得ません」
「あり得ないよね」
ボスが苦笑する。
「でも、本当に突然現れたんだ」
部屋に重たい沈黙が流れた。
郁は相変わらず、両手を上げたままだった。
正面には二つの銃口。
周囲には正体の分からない男たち。
(……完全に包囲されてる)
逃げられるとは思えない。
逃げようとも思わなかった。
少しでも不審な動きをすれば、その瞬間に撃たれるだろう。
(これ、殺されるかな)
一度死んだ。
だから、もう一度死ぬ運命なのだろうか。
何が起きているのかも分からない。助けを求められる相手もいない。
それでも。
(取り乱すな)
(落ち着け)
(なるようにしかならない)
郁はゆっくりと息を吸った。
その様子を、ボスはじっと見ていた。
「ノア」
呼ばれた大柄な男が、ボスへ視線を向ける。
「どう思う?」
「侵入経路はありません」
ノアは窓から離れ、再び郁へ銃口を向けた。
「それでも、ボスの執務室へ侵入した事実は変わりません」
「そうだね」
「危険です」
眼鏡の男も続ける。
「身元が判明するまで、自由にするべきではありません」
「同意」
端末を操作していた白銀髪の青年も短く答えた。
金髪の青年は郁を頭の先から足元まで眺める。
「見たところ、武器は持ってなさそうだけどな」
「隠していないとは限らない」
ノアの言葉に、金髪の青年が肩をすくめた。
「まあ、それはそうだけど」
そしてノアは、冷静な声で尋ねた。
「どうしますか」
一度、言葉を区切る。
「処分しますか」
郁の心臓が、大きく跳ねた。
(処分)
その言葉が何を意味するのか。
考えるまでもなかった。
(……殺される)
けれど、その恐怖を顔には出さない。
目を逸らさず、呼吸を乱さず、ただ相手の判断を待った。
ボスは顎へ手を添え、少し考え込む。
「うーん」
その声は、命の処遇を決めているとは思えないほど穏やかだった。
やがて彼は、郁へ視線を戻した。
「名前は?」
「……如月郁です」
流暢とはいえない。
けれど、十分に意味の通じるイタリア語だった。
ボスがわずかに目を細める。
「イタリア人じゃないとは思ったけど、話は理解できるんだね」
「はい」
「どのくらい話せる?」
「日常会話程度なら」
「へえ」
初めて、彼の表情に興味が浮かんだ。
「どこの国の人?」
「日本です」
「日本」
金髪の青年が小さく口笛を吹く。
「ずいぶん遠いな」
ボスも楽しそうに目を細めた。
「どうやって、ここまで来たの?」
郁は答えに詰まった。
トラック。
道路へ飛び出した女の子。
不気味な笑み。
全身を襲った衝撃。
そして、目を覚ますとこの部屋にいた。
すべてを正直に話したところで、信じてもらえるとは思えない。
「……分かりません」
郁は静かに答えた。
「気が付いたら、ここにいました」
金髪の青年が眉を寄せる。
「そんなわけないだろ」
「でも、監視記録には何もない」
白銀髪の青年が淡々と告げた。
「天井にも窓にも異常はありません」
眼鏡の男の表情は険しいままだ。
「だからこそ危険です」
「ボス」
「判断をお願いします」
四人の視線が、一斉にボスへ集まる。
「うーん」
ボスは困ったように笑った。
その表情からは、何を考えているのか分からない。
「でもさ」
彼は拳銃を下ろし、椅子から立ち上がった。
ゆっくりと、郁の前まで歩いてくる。
「俺にも、この子がどこから来たのか分からないんだよね」
「だから危険だって言ってるんだろ」
金髪の青年が呆れたように返す。
「ちょっと面白そうじゃない?」
「全然面白くない」
即答だった。
ボスは、くすりと笑う。
「そう?」
「怪しい芽は早めに摘むべきです」
眼鏡の男が厳しく告げる。
「ボス御自身の安全に関わります」
「分かってるよ」
ボスは郁の目の前で立ち止まった。
そして、しゃがみ込むでもなく、郁を見下ろす。
「君」
「……はい」
「意外と取り乱さないね」
郁は少し考えた。
取り乱したくないわけではない。
本当は怖い。
今すぐにでも、誰かに助けてほしい。
けれど、助けを求める相手などどこにもいなかった。
「……取り乱しても」
郁はゆっくりと言葉を選ぶ。
「なるようにしかならないので」
ボスは数秒間、黙って郁を見つめた。
郁も、目を逸らさなかった。
やがて。
彼の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「面白いね、お前」
郁は何も返さなかった。
正確には、返せなかった。
ボスは振り返り、四人へ告げる。
「生かそう」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「……は?」
最初に反応したのは、金髪の青年だった。
「理由は?」
ボスは少しだけ考えるような仕草をしたあと、にっこりと笑った。
「勘」
室内が静まり返る。
「また勘ですか……」
眼鏡の男が、深いため息をつく。
ノアは銃を下ろしながら、小さく息を吐いた。
「止めても無駄ですね」
「従います」
白銀髪の青年も短く頷く。
金髪の青年だけは、納得できない様子で頭を抱えていた。
「その勘でいつか死ぬぞ」
「今のところ、よく当たってるよ」
「そういう問題じゃない」
ボスは楽しそうに笑うと、再び郁へ向き直った。
そして。
右手を伸ばし、郁の顎をそっと持ち上げる。
突然の接触に、郁の身体がわずかに強張った。
至近距離で、琥珀色の瞳と視線が重なる。
笑顔は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものは読み取れない。
「俺は、レオン・ヴィンチェンティ」
低く、よく通る声。
「この辺りを拠点に活動している、ヴィンチェンティ・ファミリーのボスだ」
穏やかな笑みとは裏腹に、圧倒的な存在感があった。
(ファミリー)
その言葉が示すものを、郁も知っている。
(……マフィア)
やはり、普通の人間ではなかった。
レオンは郁の顎から手を離す。
「帰る場所は?」
「……」
郁は答えられなかった。
帰る場所。
日本には、自分の家がある。
両親もいる。大学もある。
けれど。
トラックにはねられた時の感覚は、あまりにも生々しく残っていた。
あの状態で生きているとは思えない。
それに、ここが本当に自分の知るイタリアなのかさえ分からない。
「……ありません」
絞り出すように答える。
今の郁には、それ以外の言葉が見つからなかった。
レオンは少しだけ目を細めた。
「行く場所も?」
「ありません」
「そう」
レオンはしばらく郁を見つめたあと、何でもないことのように告げた。
「行く場所がないなら、しばらくここに置いてあげる」
郁が目を見開く。
「その代わり、働いてもらうけど」
断ればどうなるのだろう。
選択肢があるように聞こえて、実際にはないのかもしれない。
それでも。
(生きられる)
今は、それだけで十分だった。
郁はまっすぐにレオンを見返す。
「……働きます」
一瞬の静寂。
レオンは、心から楽しそうに笑った。
「うん」
そう言うと、彼は笑いながら郁へ向けて右手を差し出した。
差し出された手を、郁は見つめる。
信用していい相手なのかは分からない。
これから何をさせられるのかも分からない。
それでも郁は、ゆっくりとその手を取った。
「よろしくね、郁」
こうして。
何もかもを失った如月郁は、200年続くマフィアのファミリーに拾われた。




