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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第一章 ヴィンチェンティ・ファミリー

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第1話 ボスの目の前に落ちた日

重厚な扉が閉ざされた執務室。


磨き上げられた木製の机。壁一面を埋め尽くす本棚。天井まで届く大きな窓の向こうには、夕日に染まるヨーロッパの街並みが広がっている。


執務机に腰掛けた青年は、静かに書類へ目を通していた。


柔らかなハニーブラウンの髪。琥珀色の瞳。


黒いスーツを隙なく着こなした姿には、若さに似合わない静かな威圧感がある。


その時だった。


何もない空間が、ふっと揺らいだ。


「……?」


青年が書類から顔を上げる。


次の瞬間。


ドサッ、と鈍い音が執務室に響いた。


青年の目の前に、一人の人間が落ちてきた。


白いオーバーサイズのパーカー。細身の黒いパンツ。履き慣れた白いスニーカー。


背中には、黒いリュックを背負っている。


短い茶色の髪に、すらりとした細身の体格。俯いた横顔だけを見れば、少年にも見えた。


青年は一瞬だけ目を細める。


次の瞬間には、迷いなく机の引き出しへ手を伸ばしていた。


カチャリ。


静まり返った執務室に、冷たい金属音が響く。


銃口が、床に倒れた人物にまっすぐ向けられた。


「……誰だ」


低く落ち着いた声。


イタリア語だった。


床に手をついていた郁は、その言葉を聞いた瞬間、小さく目を見開いた。


(……イタリア語?)


聞き取れる。


旅行に行くときに困らないようにと、勉強を続けていた言葉だ。


(ここ、イタリア……?)


顔を上げないまま、視線だけを動かす。


重厚な家具。見たことのない調度品。大きな窓の向こうに広がる、ヨーロッパらしい街並み。


どこを見ても、日本ではない。


そして何より。


目の前には、自分に拳銃を向けている男がいる。


(……まずい)


(ものすごくまずい)


冷たい汗が背中を伝う。


なぜここにいるのか。何が起きたのか。


何一つ分からない。


それでも、郁は混乱する頭を必死に押さえ込んだ。


(取り乱したら、もっと警戒される)


銃を持つ男の指は、引き金にかかっている。


不用意に動けば撃たれる。


そう判断した郁は、ゆっくりと両手を上げた。


青年は何も言わず、その動きを観察している。


「質問を変えよう」


相変わらず、冷静な声だった。


「どこから来た?」


郁は一度、息を整える。


「……その前に、一つ聞いてもいいですか」


青年の眉が、わずかに動いた。


許可されたわけではなかったが、郁は続けた。


「ここは……イタリアですか?」


今度こそ、青年の表情がわずかに変わった。


――――――


数十分前。


郁は大学からの帰り道を歩いていた。


白いパーカーのポケットへ片手を入れ、もう片方の手で黒いリュックの肩紐を握っている。


今日も講義と図書館で一日が終わった。


(帰ったら、今日の範囲をもう一度復習しよう)


イヤホンから流れる音楽を聴きながら、いつもの道を歩く。


その時だった。


公園から、小さな女の子が道路へ飛び出した。


その先から、大型トラックが迫っている。


「危ない!」


郁は考えるより先に駆け出していた。


(間に合う)


瞬時に距離と速度を測る。


(抱えて、反対側へ飛べば助けられる)


迷わず腕を伸ばし、女の子の身体を抱き上げようとした。


けれど。


「……え?」


動かない。


小さな身体は、まるで地面に縫い付けられているかのように、びくともしなかった。


(どうして……?)


郁が顔を上げる。


女の子もまた、ゆっくりとこちらを見上げた。


そして。


ふっと笑った。


「――っ」


背筋が凍る。


(この子、普通じゃない)


そう気付いた時には、もう遅かった。


けたたましいクラクション。


全身を砕くような衝撃。


身体が宙へ浮く。


痛い。


息ができない。


(私、死ぬんだ)


視界が白く染まっていく。


助けようとした女の子は、どうなったのだろう。


最後にそれだけを考えて――。


――――――


「……ねえ、」


低い声が聞こえた。


郁は、はっと意識を引き戻される。


目の前には、まだ拳銃を向けた青年がいる。


夕日に照らされた琥珀色の瞳が、郁をじっと見つめていた。


(夢じゃない)


トラックにはねられた。


自分は、確かに死んだはずだ。


それなのに。


(……私は、どこへ来たの?)


答えが見つからないまま、郁は銃口を見つめた。


青年もまた、郁を静かに観察している。


しばらくして、彼は机の上に置かれていた小さな呼び鈴へ手を伸ばした。


――――――


コンコン。


少しして、執務室の扉が叩かれた。


「入って」


青年が短く告げる。


重厚な扉が開き、最初に入ってきたのは、浅黒い肌に黒髪を刈り上げた大柄な男だった。


部屋へ足を踏み入れた瞬間、鋭い視線が状況を捉える。


青年へ向けられた銃口。


床に座り、両手を上げている見知らぬ人物。


大柄な男は迷うことなく拳銃を抜き、郁へ向けた。


続いて入ってきた金髪の青年も、状況を確認するとすぐに銃を構えた。


「……ボス」


大柄な男が低い声で尋ねた。


「そいつは?」


ボスと呼ばれた青年は、拳銃を構えたまま答えた。


「俺の目の前に落ちてきた」


部屋が静まり返った。


「……は?」


金髪の青年が、思わず素っ頓狂な声を上げる。


「落ちてきた?」


「うん」


「どこから?」


「分からない」


「分からないって……」


「本当に、何もないところから突然現れたんだよ」


ボスは少し困ったように笑った。


「俺も信じられないから、呼んだ」


大柄な男は銃口を郁へ向けたまま、素早く窓際へ移動した。


窓には鍵がかかっている。ガラスも割れていない。


侵入した形跡は、どこにもなかった。


その間に、白銀色の髪をした青年が静かに扉を閉める。


郁には一度だけ視線を向けたが、銃を構える様子はない。


「監視記録、確認する」


それだけを告げると、白銀髪の青年は執務机の端末を操作し始めた。


最後に入ってきたのは、眼鏡をかけた、髪をきっちりと整えた男だった。


彼は不用意に郁へ近づかず、まずボスの様子を確認する。


「お怪我はありませんか」


「ないよ」


「接触は?」


「してない」


眼鏡の男は安堵することなく、郁へ厳しい視線を向けた。


白銀髪の青年が、画面を見たまま小さく首を振る。


「映ってない」


「廊下は?」


「誰も通ってない。扉も開いてない」


眼鏡の男が室内を見回す。


「……あり得ません」


「あり得ないよね」


ボスが苦笑する。


「でも、本当に突然現れたんだ」


部屋に重たい沈黙が流れた。


郁は相変わらず、両手を上げたままだった。


正面には二つの銃口。


周囲には正体の分からない男たち。


(……完全に包囲されてる)


逃げられるとは思えない。


逃げようとも思わなかった。


少しでも不審な動きをすれば、その瞬間に撃たれるだろう。


(これ、殺されるかな)


一度死んだ。


だから、もう一度死ぬ運命なのだろうか。


何が起きているのかも分からない。助けを求められる相手もいない。


それでも。


(取り乱すな)


(落ち着け)


(なるようにしかならない)


郁はゆっくりと息を吸った。


その様子を、ボスはじっと見ていた。


「ノア」


呼ばれた大柄な男が、ボスへ視線を向ける。


「どう思う?」


「侵入経路はありません」


ノアは窓から離れ、再び郁へ銃口を向けた。


「それでも、ボスの執務室へ侵入した事実は変わりません」


「そうだね」


「危険です」


眼鏡の男も続ける。


「身元が判明するまで、自由にするべきではありません」


「同意」


端末を操作していた白銀髪の青年も短く答えた。


金髪の青年は郁を頭の先から足元まで眺める。


「見たところ、武器は持ってなさそうだけどな」


「隠していないとは限らない」


ノアの言葉に、金髪の青年が肩をすくめた。


「まあ、それはそうだけど」


そしてノアは、冷静な声で尋ねた。


「どうしますか」


一度、言葉を区切る。


「処分しますか」


郁の心臓が、大きく跳ねた。


(処分)


その言葉が何を意味するのか。


考えるまでもなかった。


(……殺される)


けれど、その恐怖を顔には出さない。


目を逸らさず、呼吸を乱さず、ただ相手の判断を待った。


ボスは顎へ手を添え、少し考え込む。


「うーん」


その声は、命の処遇を決めているとは思えないほど穏やかだった。


やがて彼は、郁へ視線を戻した。


「名前は?」


「……如月郁です」


流暢とはいえない。


けれど、十分に意味の通じるイタリア語だった。


ボスがわずかに目を細める。


「イタリア人じゃないとは思ったけど、話は理解できるんだね」


「はい」


「どのくらい話せる?」


「日常会話程度なら」


「へえ」


初めて、彼の表情に興味が浮かんだ。


「どこの国の人?」


「日本です」


「日本」


金髪の青年が小さく口笛を吹く。


「ずいぶん遠いな」


ボスも楽しそうに目を細めた。


「どうやって、ここまで来たの?」


郁は答えに詰まった。


トラック。


道路へ飛び出した女の子。


不気味な笑み。


全身を襲った衝撃。


そして、目を覚ますとこの部屋にいた。


すべてを正直に話したところで、信じてもらえるとは思えない。


「……分かりません」


郁は静かに答えた。


「気が付いたら、ここにいました」


金髪の青年が眉を寄せる。


「そんなわけないだろ」


「でも、監視記録には何もない」


白銀髪の青年が淡々と告げた。


「天井にも窓にも異常はありません」


眼鏡の男の表情は険しいままだ。


「だからこそ危険です」


「ボス」


「判断をお願いします」


四人の視線が、一斉にボスへ集まる。


「うーん」


ボスは困ったように笑った。


その表情からは、何を考えているのか分からない。


「でもさ」


彼は拳銃を下ろし、椅子から立ち上がった。


ゆっくりと、郁の前まで歩いてくる。


「俺にも、この子がどこから来たのか分からないんだよね」


「だから危険だって言ってるんだろ」


金髪の青年が呆れたように返す。


「ちょっと面白そうじゃない?」


「全然面白くない」


即答だった。


ボスは、くすりと笑う。


「そう?」


「怪しい芽は早めに摘むべきです」


眼鏡の男が厳しく告げる。


「ボス御自身の安全に関わります」


「分かってるよ」


ボスは郁の目の前で立ち止まった。


そして、しゃがみ込むでもなく、郁を見下ろす。


「君」


「……はい」


「意外と取り乱さないね」


郁は少し考えた。


取り乱したくないわけではない。


本当は怖い。


今すぐにでも、誰かに助けてほしい。


けれど、助けを求める相手などどこにもいなかった。


「……取り乱しても」


郁はゆっくりと言葉を選ぶ。


「なるようにしかならないので」


ボスは数秒間、黙って郁を見つめた。


郁も、目を逸らさなかった。


やがて。


彼の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。


「面白いね、お前」


郁は何も返さなかった。


正確には、返せなかった。


ボスは振り返り、四人へ告げる。


「生かそう」


一瞬、誰も言葉を発しなかった。


「……は?」


最初に反応したのは、金髪の青年だった。


「理由は?」


ボスは少しだけ考えるような仕草をしたあと、にっこりと笑った。


「勘」


室内が静まり返る。


「また勘ですか……」


眼鏡の男が、深いため息をつく。


ノアは銃を下ろしながら、小さく息を吐いた。


「止めても無駄ですね」


「従います」


白銀髪の青年も短く頷く。


金髪の青年だけは、納得できない様子で頭を抱えていた。


「その勘でいつか死ぬぞ」


「今のところ、よく当たってるよ」


「そういう問題じゃない」


ボスは楽しそうに笑うと、再び郁へ向き直った。


そして。


右手を伸ばし、郁の顎をそっと持ち上げる。


突然の接触に、郁の身体がわずかに強張った。


至近距離で、琥珀色の瞳と視線が重なる。


笑顔は穏やかだった。


けれど、その奥にあるものは読み取れない。


「俺は、レオン・ヴィンチェンティ」


低く、よく通る声。


「この辺りを拠点に活動している、ヴィンチェンティ・ファミリーのボスだ」


穏やかな笑みとは裏腹に、圧倒的な存在感があった。


(ファミリー)


その言葉が示すものを、郁も知っている。


(……マフィア)


やはり、普通の人間ではなかった。


レオンは郁の顎から手を離す。


「帰る場所は?」


「……」


郁は答えられなかった。


帰る場所。


日本には、自分の家がある。


両親もいる。大学もある。


けれど。


トラックにはねられた時の感覚は、あまりにも生々しく残っていた。


あの状態で生きているとは思えない。


それに、ここが本当に自分の知るイタリアなのかさえ分からない。


「……ありません」


絞り出すように答える。


今の郁には、それ以外の言葉が見つからなかった。


レオンは少しだけ目を細めた。


「行く場所も?」


「ありません」


「そう」


レオンはしばらく郁を見つめたあと、何でもないことのように告げた。


「行く場所がないなら、しばらくここに置いてあげる」


郁が目を見開く。


「その代わり、働いてもらうけど」


断ればどうなるのだろう。


選択肢があるように聞こえて、実際にはないのかもしれない。


それでも。


(生きられる)


今は、それだけで十分だった。


郁はまっすぐにレオンを見返す。


「……働きます」


一瞬の静寂。


レオンは、心から楽しそうに笑った。


「うん」


そう言うと、彼は笑いながら郁へ向けて右手を差し出した。


差し出された手を、郁は見つめる。


信用していい相手なのかは分からない。


これから何をさせられるのかも分からない。


それでも郁は、ゆっくりとその手を取った。


「よろしくね、郁」


こうして。


何もかもを失った如月郁は、200年続くマフィアのファミリーに拾われた。

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あらすじではイタリアによく似た異世界とあるけど本編では直球でイタリアといってるけど?
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