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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第三章 平穏な日々

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第76話 この場所から

数か月が過ぎた。


重厚な扉の奥。


見慣れた執務室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。


壁一面を埋め尽くす本棚は、あの日から変わらない。


けれど机の上には、契約書や事業計画といった、以前とは違う種類の書類が並んでいる。


「レオン、こちらの承認をお願いします」


郁が数枚の資料を差し出す。


レオンはペンを走らせながら、ちらりと目を上げた。


「もう秘書らしくなったね」


「もう半年やっています」


「うん。でも、たまに"社長"じゃなくて名前で呼ばれると、まだ嬉しい」


郁は小さく笑って、それ以上は答えなかった。


書類にサインを終えたレオンが、伸びをするように背もたれへ体を預ける。


「今日はこれで最後?」


「はい。あとはヴィクトルさんの確認待ちです」


「じゃあ、少し休憩しようか」


コンコン、と扉が鳴る。


「失礼します」


ヴィクトルが顔を出し、机の端へ新しい資料を置いた。


「来月の研究予算、ルカさんの分だけ桁が違います」


「また?」


「また、です」


その後ろから、マルコがひょいと顔を覗かせる。


「ボス、来週の取材同行、郁借りていい?」


「今日はもう休憩中だよ」


「わかった、また今度な」


軽く笑って去っていくマルコの後ろで、ルカが無言のまま片手を挙げて通り過ぎていく。


騒がしいような、静かなような。


いつも通りの、いつもの午後だった。


――――――


一人になった部屋で、郁はふと足を止める。


視線の先は、窓際のあたり。


何の変哲もない床の、ある一点だった。


(……ここだ)


かつて、何もないところから落ちてきた場所。


銃口を向けられ、震えながらも目を逸らせなかった夜。


『面白いね、お前』


そう笑った青年の声が、今も鮮明に思い出せる。


あの日から、たくさんのことがあった。


ノアに鍛えられ、ヴィクトルに仕事を教わり、マルコに市場を案内してもらい、ルカと友達になった。


ニコを失い、彼が最後に遺した言葉を、今も胸のどこかで覚えている。


――郁だから。


ルチアと出会い、サルヴァトーレと戦い、この街に平穏を取り戻した。


失ったものは、確かにあった。


それでも。


得たもののほうが、ずっと多かった。


「郁?」


いつの間にか、レオンが隣に立っていた。


「どうしたの?」


郁は少しだけ笑って、その足元を指す。


「ここに落ちてきたんだな、と思って」


レオンも視線を落とし、懐かしむように目を細めた。


「あの時は、まさかこうなるとは思わなかったな」


「私もです」


「殺されるかもしれないと思っていましたから」


「ひどい第一印象だ」


「勘で生かしたのは、レオンですよ」


「今なら分かる」


レオンは静かに笑った。


「あれは勘なんかじゃなかった」


郁は左手の薬指へ、そっと触れる。


指輪が、窓からの光を受けて小さく輝いた。


「不思議です」


「何が?」


「あの日、全部を失ったと思ったのに」


郁はレオンを見上げる。


「今は、これ以上ないくらい満たされています」


レオンは何も言わず、ただ手を伸ばして郁の頬に触れた。


「これから」


「もっと満たしていくよ」


「気が早いです」


「毎日思ってることだから」


いつものやり取りに、郁は小さく吹き出す。


窓の外では、夕日がゆっくりと街を染め始めていた。


あの日、初めて目にしたのと同じ、ヨーロッパの空。


けれどあの時とは違い、恐怖はどこにもない。


ただ、隣に立つ人の温もりだけがあった。


「行こうか」


レオンが手を差し出す。


郁は迷わず、その手を取った。


「はい」


重厚な扉を、二人で開ける。


その先には、家族が待っている。


何もない世界から始まった郁の物語は。


ここで終わるのではなく。


これからも、この場所から続いていく。

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