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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第三章 平穏な日々

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第75話 もうひとつの門出

創業パーティーを終え、屋敷へ戻った頃には、すでに日付が変わろうとしていた。


慣れない挨拶や、大勢の招待客への対応。


すべてが終わって自室へ戻ると、郁はようやく肩の力を抜いた。


「今日は疲れましたね」


ジャケットを脱ぎ、ソファの背へ掛ける。


「うん」


レオンはそう答えたものの、なぜか扉の近くに立ったままだった。


いつものように笑っている。


けれど、どこか落ち着かない。


郁は首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「郁」


レオンの声が、少しだけ真剣になる。


「一つ聞いておきたいことがある」


「はい」


レオンはすぐには続けなかった。


言葉を選ぶように、ゆっくりと郁を見る。


「会社ができたら、今までより生活は安定する」


「戸籍もある。学校へ通う手配もできる」


郁は静かに聞いていた。


「時間はかかると思う」


「この世界の医学を、最初から学び直すことにもなる」


そこでレオンは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。


「でも、郁が望むなら」


「医者を目指す道も作れる」


郁の目がわずかに見開かれる。


レオンは視線を逸らさなかった。


「元の世界で、なりたかったんだろ?」


「……はい」


「なら、ここでなる道も選べる」


穏やかな声だった。


けれど郁には分かった。


これは単なる提案ではない。


レオンは、郁を手放す可能性まで考えたうえで聞いている。


会社の仕事を離れ、何年も学校へ通うかもしれない。


今までのように、毎日隣にはいられなくなるかもしれない。


それでも。


郁が望む人生なら、レオンは応援するつもりなのだ。


「郁が決めていい」


「俺や会社のことは考えなくていい」


「これから、どうしたい?」


郁は少し黙った。


医者になりたかった。


白衣を着て、人を助ける未来を思い描いていた。


その気持ちが、嘘だったわけではない。


けれど。


この世界へ来て、たくさんのものを得た。


共に戦う仲間。


帰る場所。


そして。


目の前にいる、大切な人。


郁はゆっくりと口を開いた。


「ずっと医者になりたいと思っていました」


レオンの表情は変わらない。


ただ、黙って続きを待っている。


「今でも、医学は好きです」


「人を助けることができるので」


「うん」


「でも」


郁はレオンをまっすぐ見た。


「私は、人を救うレオンの隣で、レオンを支えたいです」


「レオンの隣で生きていきたいです」


レオンの瞳が、わずかに揺れる。


「会社でも」


「この部屋でも」


「これから先も」


「私は自分で、ここを選びたい」


レオンは何も言わなかった。


郁は少し笑う。


「医者は手段だったんです」


「人を助けるための道を選びたかった」


「だからレオンの隣にいたいから、支えたいから、残るんです」


「夢をあきらめたんじゃないんです」


「新しい夢が、レオンの隣でできました」


しばらく沈黙が続いた。


やがてレオンは、困ったように笑った。


「……それ、反則だな」


「何がですか?」


「今から俺が言おうとしてること、全部言いやすくなった」


「?」


郁が首を傾げると、レオンは小さく息を吐いた。


そして、部屋の奥にある机へ向かう。


引き出しを開け、中から小さな箱を取り出した。


郁はそれを見つめる。


「……?」


レオンは珍しく、少し照れたように笑った。


「本当は」


「レストランとかにしようかな」


「夜景が綺麗なところとか」


「そういうのも考えた」


「でも」


「今日言いたくて時間も遅いから間に合わないなって考えた」


郁は優しく笑う。


「私は、ここが好きですよ」


その言葉に、レオンも微笑んだ。


「今日、会社ができた」


「俺の夢が一つ叶った」


「だから」


「次は、もう一つ叶えたい」


レオンは郁の前へ進み、小さな箱を開く。


柔らかな光を受けて、指輪が静かに輝いた。


「郁が自分で、俺の隣を選んでくれたから」


その声は、少しだけ震えていた。


「今度は俺から、お願いしたい」


レオンは郁をまっすぐ見つめる。


「会社でも」


「プライベートでも」


「ずっと隣にいてほしい」


そして、優しく笑った。


「郁」


「結婚しよう」


音が消えたように感じた。


郁は指輪を見つめたまま、動けなかった。


結婚。


レオンと。


自分が。


今、そう言われた。


頭の中で言葉だけがぐるぐると回り、何一つ形にならない。


返事をしなければと思うのに、喉が震えるだけで声が出なかった。


代わりに、涙が一粒こぼれた。


続けて、もう一粒。


「郁?」


レオンの声に、わずかな焦りが混じる。


「びっくりした?」


郁は慌てて首を横に振った。


違う。


嫌なのではない。


驚いてはいるけれど、それ以上に――。


「……嬉しい」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


レオンが瞬きをする。


郁は頬を伝う涙を拭いながら、泣いているのに笑った。


「嬉しすぎて」


一度言葉を切らなければ、声が震えてしまう。


「言葉が、出ません……」


レオンの表情が、目に見えて和らいだ。


深く息を吐き、心から安心したように笑う。


「良かった」


その笑顔を見た瞬間、郁の胸に広がった喜びが、さらに大きくなる。


郁は涙を拭いながら、しっかりと頷いた。


「はい」


そして、レオンへ手を差し出す。


「よろしくお願いします」


レオンはその手を大切なものを扱うように取り、指輪を郁の左手へ通した。


細い指に収まったそれを、二人で見つめる。


「似合う」


レオンが嬉しそうに言う。


郁は笑った。


泣きながら笑う自分が少しおかしくて、また涙がこぼれた。


「まだ泣くの?」


「レオンのせいです」


「ごめん」


謝りながらも、レオンは幸せそうだった。


立ち上がった彼に抱きしめられ、郁もその背中へ腕を回す。


聞き慣れた鼓動が、いつもより少しだけ速い。


レオンは郁を強く抱きしめたまま、耳元で囁いた。


「ありがとう」


その声は、かすかに震えていた。


「幸せにする」


郁は彼の胸元へ顔を埋め、静かに首を横に振る。


「一緒に幸せになりましょう」


レオンの腕に、さらに力がこもった。


「うん」


その夜。


新しく生まれた会社とともに、二人の新しい未来も始まった。


――――――


翌朝。


まだ指輪が自分の指にあることが信じられず、郁は何度目か分からないほど左手を眺めていた。


光の角度によってきらきらと輝くそれを見るたびに、昨夜の言葉が蘇る。


結婚しよう。


思い出すだけで、頬が緩んだ。


「お」


背後から声をかけられ、郁が振り返る。


廊下の向こうから歩いてきたマルコが、郁の左手を見て足を止めた。


「指輪」


郁は反射的に手を胸元へ寄せた。


隠すつもりはないのに、どうしても少し照れてしまう。


「はい……」


マルコは楽しそうに口元を緩めた。


「やっと渡したか」


「やっと?」


郁が聞き返したところで、その後ろからレオンが現れた。


「おはよう、郁」


「おはようございます」


レオンの姿を見たマルコは、さらに面白そうな顔をする。


「いつ渡すんだろうなって、思ってたんだよ」


「何の話?」


レオンは笑っている。


けれど、郁には分かった。


これは、マルコにそれ以上話すなと言っている笑顔だ。


もちろん、マルコが止まるはずもない。


「忙しい中、仕事帰りに何回も指輪見に行ってたぞ」


郁は目を見開いた。


「……え?」


「マルコ」


レオンが穏やかな声で名前を呼ぶ。


その笑顔が少しだけ深くなった。


マルコは気にせず続ける。


「七軒」


「六軒」


間髪入れず、レオンが訂正した。


一瞬の沈黙。


マルコが呆れたように笑う。


「細けぇ」


「一軒増やすなよ」


「大差ねぇだろ」


「あるよ」


二人のやり取りを聞きながら、郁はもう一度、指輪へ視線を落とした。


レオンはただ忙しい合間に買ったのではない。


何軒も店を回り、たくさんの指輪を見比べて。


郁に似合うものを、一つずつ考えて。


悩みながら選んでくれたのだ。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「郁?」


レオンに呼ばれ、顔を上げる。


「どうしたの?」


郁は指輪をそっと撫で、微笑んだ。


「いいえ」


それから、いつもより少し素直に言った。


「とても嬉しいなと思って」


レオンは一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


その横で、マルコがわざとらしく肩をすくめる。


「朝からやってんな」


「マルコ」


「はいはい。邪魔者は消えますよ」


笑いながら立ち去っていく背中を見送り、郁はもう一度指輪を眺める。


六軒も回って。


悩んで。


選んでくれた指輪。


これから先、見るたびにきっと思い出す。


レオンが自分との未来を、どれほど大切に考えてくれたのかを。


郁はそっと左手を握りしめた。


その指に光る約束を、確かめるように。

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