第72話 設立準備
翌日から、ヴィンチェンティは一気に慌ただしくなった。
敵組織との戦いが終わっても、会社化するとしても、今までの仕事がなくなるわけではない。
むしろ、会社を一から設立するとなれば、これまでとは違う種類の問題が山ほど出てくる。
幹部室の大きな机には、銃や地図の代わりに、分厚い書類の束が積み上げられていた。
「こちらが会社設立に必要な申請書類です」
ヴィクトルが一冊のファイルを机へ置く。
「そして、こちらが全員分の雇用契約書です」
「……全員分?」
マルコが嫌そうに書類を見つめた。
ヴィクトルは眼鏡を押し上げる。
「当然です」
「会社として雇用する以上、契約内容を明確にしなければなりません」
隣では、郁が一人ずつ名前の入った書類を確認していた。
「氏名、生年月日、所属を確認してください」
「勤務時間や休日、給与についても記載されています」
マルコは自分の雇用契約書を手に取り、何とも言えない顔をする。
「俺らも、これ書くのか?」
「当然です」
「今さらレオンに雇われるって、変な感じだな」
ルカは契約書を読みながら、淡々と答えた。
「今までも実質そう」
ノアもペンを手に取る。
「給料はもらっていた」
「夢がねぇな!」
マルコの声が幹部室へ響いた。
レオンは楽しそうに笑っている。
「でも、契約書を書くのは初めてだね」
「今までは、ファミリーに入ったらそのままだったからな」
「契約期間とか、退職についてまで書いてあるぞ」
マルコが一文を指差す。
「俺たち、辞めてもいいのか?」
その問いに、レオンはあっさり頷いた。
「もちろん」
「働く場所は、自分で選ぶものだから」
マルコが少し意外そうにレオンを見る。
「止めねぇの?」
「寂しいとは思うけどね」
レオンは穏やかに笑った。
「ここにいたいからいるのと、逃げられないからいるのは違うでしょ?」
マルコはしばらく黙ったあと、肩をすくめた。
「まあ」
「俺は辞めねぇけどな」
「うん。知ってる」
レオンは嬉しそうに笑った。
「俺を雇ってくれる会社なんて、ほかにねぇだろうし」
「それもあるね」
「そこは否定しろよ!」
笑い声が広がる。
ヴィクトルはため息をつきながら、次の書類を郁へ渡した。
「郁、こちらも確認をお願いします」
「はい」
郁は受け取ると、素早く内容へ目を通す。
「この方は警備部門を希望していますが、大型車両の運転資格も持っています」
「運送部門との兼任にしてもいいかもしれません」
「そうですね。本人の希望を確認しましょう」
「こちらの方は読み書きの研修が必要です」
「入社前研修の一覧へ追加します」
ヴィクトルが感心したように郁を見る。
「やはり仕事が早いですね」
「人数が多いので、先に分類した方が効率的かと」
「非常に助かります」
その様子を見ていたレオンが、嬉しそうに頷く。
「さすが俺の秘書」
郁は書類から顔を上げない。
「まだ正式には就任していません」
「もう十分働いてるけどね」
「会社設立の手伝いです」
「真面目だなぁ」
レオンの視線が郁へ向いたままなのを見て、マルコが契約書で机を叩いた。
「見てねぇで、お前も働け!」
「働いてるよ」
「さっきから郁しか見てねぇだろ!」
「秘書の働きぶりを確認してる」
「便利な言葉を覚えやがったな!」
郁は小さくため息をつきながらも、少しだけ笑っていた。
――――――
全員分の雇用契約書を用意したあとは、幹部たちの役職を正式に決めることになった。
ヴィクトルが新しい資料を机へ並べる。
「まず、代表者からです」
資料の最上部には、レオンの名前が記載されていた。
代表取締役社長――レオン・ヴィンチェンティ。
マルコが文字を見つめる。
「代表取締役社長」
「長ぇな」
ルカがレオンを見る。
「社長」
レオンは微笑む。
「うん」
「違和感」
「ひどいなぁ」
ノアは静かに資料を確認した。
「ボスよりは平和だ」
「俺もそう思う」
レオンは特に抵抗もなく頷いた。
次に、ヴィクトルの役職。
管理本部長――ヴィクトル。
「経理、財務、人事、採用、法務」
マルコが仕事内容を読み上げ、眉を寄せる。
「多すぎねぇか?」
「現時点では、これらをまとめて管理できる人材が私しかいませんから」
ヴィクトルは平然と答えた。
「郁にも一部を補佐していただきます」
「承知しました」
「お前ら二人がいれば、会社は潰れなさそうだな」
「マルコが余計な経費を使わなければ、より安全です」
「まだ何も買ってねぇだろ!」
「先に言っておきました」
次はノア。
警備・セキュリティー部門責任者――ノア。
「異論なし」
マルコが即答する。
「というか、ノア以外にできねぇ」
「護衛だけでなく、警備員の育成もお願いします」
ヴィクトルが説明すると、ノアは短く頷いた。
「分かった」
「訓練、厳しくしすぎないでね」
レオンが笑いながら言う。
「使えない人間を現場には出せない」
「それはそうだけど」
「郁と同じ訓練内容にはしないでくださいね」
ヴィクトルが念を押す。
ノアは少し考えた。
「基礎だけにする」
「郁の基礎は、一般的には基礎ではありません」
「そうか?」
「そうです」
郁は口を挟むべきか迷ったが、黙って書類へ目を戻した。
続いてルカ。
技術開発部門責任者――ルカ。
「商品開発、情報技術、システム管理」
レオンが資料を指でなぞる。
「それから情報収集と、好きな研究」
ルカは小さく頷く。
「研究室がいる」
「作ろう」
「機材も」
「必要なものを一覧にして」
「予算は私が確認します」
ヴィクトルがすぐに付け加えた。
「全部は通りませんので、そのつもりで」
ルカはヴィクトルを見る。
「まだ何も出してない」
「先に言っておきました」
「さっきも聞いたぞ、それ」
マルコが笑う。
そして、そのマルコの役職。
営業・広報部門責任者――マルコ。
「営業かぁ」
マルコは椅子へ深くもたれた。
「俺、真面目な取引先と話せるかな」
「話すこと自体は得意でしょ?」
レオンが首を傾げる。
「真面目に話すのが得意かって聞いてんだよ」
「必要な時はできる」
ノアが静かに言う。
「一応な」
ルカが付け加えた。
「一応ってなんだ!」
レオンは笑いながら説明を続ける。
「営業だけじゃなくて、会社の広報や取材も任せたい」
「街の人から情報を集めたり、社会の問題を記事にしたり」
「新聞社みたいなこともできるかもしれない」
マルコは資料を見ながら、少しずつ面白そうな顔になる。
「取材か」
「現場を走り回って、話を聞いて、記事にする」
「うん」
「俺、社内にずっといるより向いてそうだな」
「俺もそう思う」
役職が一つずつ決まっていく。
最後に残ったのは、郁だった。
資料には、ほかの幹部よりも長い役職名が書かれている。
社長秘書兼、各部門補佐――如月郁。
郁はその文字を見つめた。
「各部門補佐……」
「今まで通り、必要な場所を手伝ってもらいます」
ヴィクトルが説明する。
「警備部門の現場補佐、技術開発の商品検証、営業への同行、翻訳、資料作成」
「そして、社長秘書です」
レオンが嬉しそうに続ける。
「俺の予定を管理して、会議に一緒に来て」
「出張にも同行して、なるべくそばに――」
「社長秘書兼、便利屋だろ?」
マルコの一言で、レオンの説明が止まった。
全員の視線が郁へ集まる。
郁は否定しようと口を開いた。
「……」
警備ができる。
運転ができる。
通訳も交渉も、事務作業もできる。
応急処置や商品開発の補助も任される。
これまでファミリーでも、困った時にはとりあえず郁を呼べば何とかなっていた。
しばらく考えた末。
郁は静かに口を閉じた。
「否定しねぇのかよ!」
マルコが吹き出す。
「実際、間違ってはいないかと……」
郁は困ったように答えた。
ルカが頷く。
「便利屋」
ノアも否定しない。
「適任だ」
ヴィクトルは少し表現を選んだ。
「多方面で活躍できる人材、ということにしましょう」
「言い方を変えただけじゃねぇか」
レオンは郁を見ながら、楽しそうに笑う。
「でも、一番大事なのは俺の秘書だからね」
「またそれかよ」
「だって、そばにいてほしいし」
「仕事に私情を持ち込むな!」
マルコが机を叩く。
郁も少し頬を赤くしながらレオンを見る。
「仕事中ですよ、社長」
レオンが目を輝かせた。
「社長って呼ばれるのもいいね」
「そこじゃねぇ!」
幹部室に笑い声が広がった。
――――――
役職が決まると、次に問題となったのは会社の本拠地だった。
ヴィクトルが屋敷の見取り図を広げる。
「現在使用している幹部室や、空いている客室を改装すれば、当面の事務所として利用できます」
「費用も抑えられますし、設立直後はこちらを本社として登録する方法もあります」
「ここを会社にするのか?」
マルコが室内を見回す。
「確かに広さはあるな」
「食堂もある」
ルカが言う。
「警備設備も整っている」
ノアも屋敷の構造を頭に浮かべているようだった。
今までファミリーの拠点として使ってきた建物だ。
人が働くための部屋も、会議をする場所も十分にある。
郁も資料へ目を落とす。
「初期費用を考えると、合理的ではありますね」
「ただ、社員の人数が増えた場合には手狭になる可能性があります」
「それなら最初はここで、あとから移ればいいんじゃねぇか?」
マルコの言葉に、ヴィクトルも考えるように頷いた。
「それも一つの案です」
全員が意見を交わす中。
レオンだけは、黙って屋敷の中を見渡していた。
長い机。
幹部たちがいつも座る椅子。
窓の向こうに広がる中庭。
食堂から聞こえてくる、ファミリーの笑い声。
ここでは、いくつもの作戦を立てた。
傷ついて帰ってきた仲間を迎えた。
食事をして、笑って。
誰かの誕生日を祝った。
郁が初めてこの世界で安心して眠ったのも、この屋敷だった。
「レオン?」
郁が静かに呼ぶ。
レオンは皆へ視線を戻した。
「会社は、別の場所に作ろう」
ヴィクトルが見取り図から顔を上げる。
「新しい建物を購入するということですか?」
「うん」
「街に、大きな建物を買おう」
「今後人が増えても使えて、研究室も、訓練施設も作れるような場所」
ルカがすぐに反応する。
「研究室」
「ちゃんと作るよ」
「警備の訓練ができる広さも必要だ」
ノアも条件を加える。
「探してみましょう」
ヴィクトルは新しい書類へ必要事項を書き始めた。
しかし、マルコだけは不思議そうに首を傾げる。
「ここを使えば安く済むのに」
「なんでわざわざ、でかい建物を買うんだ?」
レオンは少しだけ笑った。
そして、迷いなく答える。
「ここは、ファミリーの家だから」
全員が静かになる。
「仕事をするための場所じゃない」
「疲れた時に帰ってきて」
「ご飯を食べて、眠って」
「みんなが安心して過ごすための家」
レオンは穏やかな目で、もう一度屋敷を見渡した。
「会社になっても、それは変えたくない」
郁の胸が、静かに温かくなる。
レオンにとってファミリーとは、働く仲間ではない。
役職や契約で繋がった関係でもない。
帰る場所を共にする、本当の家族なのだ。
ノアが静かに頷いた。
「賛成だ」
「俺も」
マルコも笑う。
「仕事が終わったあとまで会社にいるみたいなの、嫌だしな」
「今まで仕事と生活の区別なんかなかったけど」
ルカが指摘する。
「これから作るんだよ」
ヴィクトルは見取り図を閉じた。
「では、本社として使用できる建物を探しましょう」
「各部門に必要な設備をまとめ、予算も算出します」
「郁、物件の候補を調べていただけますか?」
「はい」
「交通の便と周辺環境、必要な広さも含めて探します」
レオンが郁へ笑いかける。
「さっそく秘書らしいね」
「これは各部門補佐の仕事です」
「どっちでも、俺のそばにいてくれるならいいよ」
「社長」
郁が少し低い声で呼ぶ。
「はい」
レオンは楽しそうに姿勢を正した。
マルコが呆れたように息を吐く。
「本当にこの社長で大丈夫か?」
「郁がいる」
ルカが答える。
「なら何とかなる」
ノアも頷いた。
「問題ない」
ヴィクトルは新しい仕事の山を見つめながら、苦笑した。
「私たちが何とかするの間違いでしょう」
戦うための拠点だった屋敷に、笑い声が響く。
この場所は、これからも変わらない。
彼らが帰り。
食事をし。
家族として過ごすための家。
そして街には、新しい未来を作る場所が生まれる。
ヴィンチェンティは今。
戦う組織から、人々と共に働く会社へ。
ゆっくりと、その形を変え始めていた。




