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マフィアのボスが私を男だと思っている。  作者: puni0023
第三章 平穏な日々

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第68話 初デート

誕生日の朝。


郁はいつもと変わらず、早朝からランニングをしていた。


風を切る音だけが静かに響く。


一時間。


二時間。


汗が額を流れる。


「……よし」


今日は休み。


それでも、朝の鍛錬だけは欠かさない。


それがもう習慣だった。


――――――


早めにシャワーを浴びる。


昼食を済ませる。


時計を見る。


十三時。


あと一時間。


郁は部屋へ戻ると、大きく深呼吸した。


「……」


ベッドの上には、昨日ソフィアと一緒に買った服が丁寧に並べられている。


グレーのワンピース。


落ち着いた色合いでありながら上品な一着。


その上から羽織る、同色のジャケット。


ソフィアは笑いながら言っていた。


『明日はこれがいいわ』


『少し良いレストランでも浮かないし、郁らしくてすごく似合うもの』


郁はそっとワンピースを手に取った。


――――――


鏡の前。


昨日教えてもらったことを思い出す。


「まずは……」


髪をゆるくまとめる。


毛束を少しねじって。


ヘアクリップで留める。


最後に少しだけほぐす。


「……できた」


ソフィアほど上手ではない。


それでも昨日と同じ形になっている。


次は化粧。


ノートを開く。


『下地』


『ファンデーション』


『アイラインはここまで』


『リップは薄く』


一つずつ確認しながら丁寧に進める。


数十分後。


鏡の中には、昨日とは少し違う自分が映っていた。


郁は首を傾げる。


「……」


「変じゃないかな」


鏡へ近付く。


右を見る。


左を見る。


少し離れて見る。


「……大丈夫かな」


急に不安になってきた。


その時。


コンコン。


部屋の扉がノックされた。


郁の心臓が少しだけ速くなる。


「はい」


扉を開ける。


そこには。


レオンが立っていた。


「迎えに来たよ」


いつものスーツではない。


白いシャツに濃紺のジャケット。


グレーのスラックス。


少しだけラフ。


それでも品があって、とてもよく似合っている。


郁は思わず見惚れてしまった。


レオンも同じだった。


扉が開いた瞬間。


時間が止まる。


「……」


「……」


ゆるくまとめた髪。


グレーのワンピース。


同色のジャケット。


昨日覚えたばかりのメイク。


いつもの“かっこいい郁”ではない。


柔らかく笑う、一人の女の子がそこにいた。


レオンは小さく息を漏らす。


「……かわいい」


郁の頬が赤くなる。


「ありがとうございます……」


少し照れながら。


今度は郁がレオンを見る。


昨日までなら。


きっと言えなかった。


でも今日は。


勇気を出して、小さく笑う。


「……レオン」


「ん?」


「……かっこいいです」


レオンが止まる。


「……」


「……」


「…………」


郁は思わず苦笑した。


「またですか」


レオンは顔へ手を当てる。


「……」


「ごめん」


「今日だけで三回目」


郁はくすっと笑う。


「まだ慣れないんですね」


レオンも照れ笑いを浮かべた。


「郁が褒めてくれるのは」


「まだ反則」


郁は少しだけ嬉しくなる。


「そんなにですか?」


レオンは真剣な顔で頷いた。


「うん」


「嬉しすぎる」


「心臓に悪い」


郁は思わず笑ってしまう。


「それは」


「いつも私が思ってることです」


レオンは目を丸くした。


「え?」


郁は照れながら視線を逸らす。


「毎日」


「好きとか」


「かわいいとか」


「言われるので……」


「心臓がもちません」


一瞬。


レオンは固まった。


そして。


嬉しそうに笑う。


「じゃあ」


一歩近付いて。


そっと右手を差し出した。


「今日も」


「手、繋いでいい?」


郁はその手を見る。


少しだけ照れて。


でも。


今度は自分から。


そっとその手を重ねた。


「……はい」


レオンは優しく握り返す。


「ありがとう」


二人は手を繋いだまま屋敷を後にした。


窓の外では、こっそり覗いていた四人が笑っていることなど、二人はまだ気付いていなかった。


屋敷の玄関を出ると、駐車場には一台の車が用意されていた。


郁は繋いでいた手を離し、いつものように運転席へ向かう。


「では、私が運転しますね」


けれど、運転席へ手を伸ばすより先に、レオンが郁の肩を軽く引いた。


「今日はこっち」


レオンが開けたのは、助手席の扉だった。


郁は目を瞬かせる。


「私が運転しないんですか?」


「うん」


レオンは当然のように笑う。


「だって、デートだよ?」


「……デートだと、運転しないんですか?」


「今日は俺が郁を連れていきたい」


そう言われてしまえば、断る理由はなかった。


郁は少し照れながら助手席へ座る。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


レオンは郁のシートベルトを確認してから、運転席へ回った。


普段のレオンは、移動中も書類へ目を通したり、後部座席で指示を出したりしている。ボスという立場もあって、自ら運転する姿を見る機会はほとんどなかった。


けれど、ハンドルを握るレオンの動きには迷いがない。


周囲を確認し、滑らかに車を発進させる。


無駄のないハンドル操作。


穏やかな加速。


助手席に座っていても、少しも不安を感じなかった。


(運転も上手なんだ……)


信号で止まる横顔へ、つい視線が向く。


少しだけラフなジャケット。


ハンドルに添えられた長い指。


仕事中とは違う、どこか柔らかな雰囲気。


(……かっこいい)


そう思った瞬間、郁はそっと窓の外へ顔を向けた。


(私、重症かもしれない)


付き合う前なら、運転しているだけでこんなに意識することはなかった。


今は何を見ても胸が騒ぐ。


話しかけられるだけで嬉しくて。


笑いかけられるだけで、頬が熱くなる。


「郁」


「はいっ」


少し大きな声が出てしまった。


レオンが楽しそうに笑う。


「どうしたの?」


「なんでもありません」


「そう?」


「はい」


郁が平静を装って前を向くと、レオンの左手がそっと伸びてきた。


信号待ちの間だけ。


郁の手を包み込む。


「……レオン?」


「繋ぎたくなった」


あまりにも素直な答えだった。


信号が変わると、レオンはすぐに手を離し、再びハンドルを握る。


危なくない時にだけ。


信号で止まるたびに。


何度か自然に郁の手へ触れてくる。


そのたび、郁の心臓は忙しく跳ねた。


「どこへ行くんですか?」


気を紛らわせるように尋ねる。


レオンは前を向いたまま微笑んだ。


「秘密」


「まだ教えてくれないんですね」


「着いてからのお楽しみ」


郁は少しだけ唇を尖らせた。


「今日は秘密が多いですね」


「初めてのデートだから」


「かっこつけたいんだよ」


さらりと言われ、郁はまた窓の外へ顔を向ける。


その横顔を見て、レオンは楽しそうに笑っていた。


――――――


一時間ほど車を走らせると、建物の少ない静かな道へ入った。


木々の間を抜けた先。


視界が一気に開ける。


「……わあ」


郁は思わず声を漏らした。


目の前に広がっていたのは、大きな湖だった。


太陽の光を反射して、水面がきらきらと輝いている。


遠くには山々が連なり、湖畔には小さな店や遊歩道が並んでいた。


「きれい……」


「気に入った?」


レオンが隣で尋ねる。


郁は素直に頷いた。


「はい。とても」


「よかった」


レオンは心から安心したように笑った。


まだ夕暮れには少し早い。


二人は湖畔にある小さなカフェへ入った。


窓際の席からは、湖がよく見える。


レオンはいつも通りコーヒーを。


郁も同じものを注文した。


二人きりで向かい合う。


それだけなのに、仕事の合間に図書室で過ごす時とはまるで違った。


「二人きりって」


レオンが嬉しそうにカップを持ち上げる。


「新鮮だね」


「そうですね」


「いつも誰かいるから」


「幹部のみなさんがいますね」


「だいたいマルコが騒いでる」


郁は思わず笑った。


「帰ったら、何をしたか全部聞かれそうです」


「言わなくていいよ」


「ボスが一番話しそうですけど」


「……たしかに」


二人で顔を見合わせ、また笑う。


窓の外では、湖の水面が穏やかに揺れていた。


レオンがその景色を眺めながら言う。


「ここ」


「夕日がすごくきれいらしいよ」


「夕日ですか?」


「うん」


郁へ視線を戻し、柔らかく笑う。


「楽しみだね」


郁も頷いた。


「はい」


その言葉だけで、これから見る景色まで特別なものになる気がした。


――――――


カフェを出たあとは、湖畔をゆっくり歩いた。


水辺を渡る風が、郁の髪を揺らす。


レオンは自然に車道側を歩き、段差があれば手を差し出した。


歩く速さも郁に合わせている。


店へ入れば扉を開け。


風が強くなれば、郁の肩へそっと手を添える。


その一つ一つがあまりに自然だった。


(デートって、初めてだけど……)


(レオン、慣れてるのかな)


少しだけ気になった。


けれど、それ以上に。


大切に扱われていることが嬉しかった。


「郁」


「はい?」


「今日、ずっとかわいい」


「……朝から何回目ですか」


「数えてない」


レオンは本当に楽しそうだった。


「髪もかわいいし」


「服も似合ってるし」


「少し照れてるのもかわいい」


「もう……」


郁は耐えきれず俯いた。


「言いすぎです」


「思うたびに言ってるだけ」


レオンは悪びれもせず笑う。


郁は困りながらも、その隣を離れなかった。


――――――


空が少しずつ橙色へ染まり始めた頃。


レオンが湖の桟橋を指差した。


「さて」


「船、乗ろうか」


「船?」


桟橋には、小さなクルーズ船が停まっていた。


レオンが事前に手配していたらしく、乗客は二人だけだった。


船長が笑顔で迎える。


「お待ちしておりました」


郁は驚いてレオンを見る。


「貸し切りですか?」


「うん」


「落ち着いて見たかったから」


船がゆっくりと桟橋を離れる。


水面を滑るように進み、湖の中央へ向かっていく。


町の音は次第に遠ざかり。


聞こえるのは、水を切る音と風の音だけになった。


船長は夕日が最も美しく見える場所まで船を進めると、少し離れた操縦席へ戻った。


二人は船の後方へ並んで立つ。


やがて。


太陽が山の向こうへ沈み始めた。


空は金色から橙色へ。


そして淡い赤へと変わっていく。


湖面にも同じ色が映り、世界全体が夕日に包まれているようだった。


「……すごい」


郁は目を離せなかった。


「本当にきれいです」


「うん」


レオンは夕日ではなく、郁を見ていた。


その視線に気付き、郁が顔を向ける。


「レオン?」


レオンは少し照れたように笑った。


「ちょっと」


「かっこつけすぎたかなって思ってる」


「え?」


「湖に連れてきて」


「船を貸し切って」


「夕日を見せて」


自分で言いながら、少しだけ恥ずかしそうに頬をかく。


「初めてのデートだから」


「郁に喜んでほしくて」


それから、いつもの柔らかな笑顔に戻る。


「でも」


「今日は郁とデートできて」


「すごく嬉しい」


郁の胸が温かくなる。


「私も」


自然に言葉がこぼれた。


「レオンと来られて」


「嬉しいです」


今度はレオンが少しだけ固まった。


けれど、すぐに嬉しそうに笑う。


「そっか」


「よかった」


夕日が二人の横顔を赤く染める。


風に揺れた郁の髪へ、レオンがそっと手を伸ばした。


頬へかかった髪を、優しく耳へ掛ける。


指先が触れただけで、郁の身体が少し強張った。


レオンは急がなかった。


郁の瞳をまっすぐ見つめる。


「郁」


「はい」


「キスしてもいい?」


心臓が大きく跳ねた。


郁は反射的に船長の方を見る。


船長は二人に背を向け、遠くの景色を見ている。


こちらを見る気配はない。


もう一度レオンへ視線を戻す。


緊張していた。


それでも、嫌ではなかった。


郁は頬を赤くしながら、小さく頷いた。


「……はい」


レオンがゆっくり距離を縮める。


逃げる時間を与えるように。


確かめるように。


そして。


そっと唇が触れた。


ほんの短い口づけ。


柔らかくて。


温かくて。


離れたあとも、郁は動けなかった。


レオンも少し顔が赤い。


それでも、幸せそうに笑っていた。


「……かわいい」


「今は言わないでください……」


郁は両手で顔を隠す。


「ごめん」


「でも」


「嬉しくて」


レオンは笑いながら、郁の手をそっと握った。


二人は手を繋いだまま。


夕日が沈み切るまで、静かな湖を眺めていた。


――――――


船を降り、車へ戻る頃には。


二人ともまだ顔が赤かった。


郁は助手席へ座り、シートベルトを締める。


レオンも運転席へ座ったものの、少しだけ動きを止めた。


「……」


「どうしました?」


「思い出した」


「何をですか?」


「さっきのキス」


「……!」


郁は窓の外へ顔を向けた。


「運転に集中してください」


「はい」


レオンは楽しそうにエンジンをかける。


「夕飯食べて帰ろう」


――――――


到着したのは、湖畔から少し離れたレストランだった。


落ち着いた照明。


静かな音楽。


ソフィアが選んでくれたグレーのワンピースとジャケットがよく似合う、上品な店だった。


窓際の席へ案内され。


料理が運ばれてくる。


どれも丁寧に作られた、美しい料理だった。


けれど。


郁は緊張しすぎて、ほとんど味が分からなかった。


「おいしい?」


レオンに尋ねられ、郁は一瞬止まる。


「……はい」


「今、考えた?」


「考えてません」


「本当に?」


「……少しだけ」


レオンが吹き出した。


「俺も」


「え?」


「味」


「あんまり分かってない」


郁は驚いてレオンを見る。


レオンも少し照れたように笑っていた。


「今日は」


「嬉しすぎて」


「ずっと落ち着かない」


郁は思わず笑う。


「私もです」


二人は顔を見合わせた。


それだけで、また頬が熱くなる。


初めてのデート。


初めての夕日。


初めてのキス。


何を食べたのかは、きっと明日にはほとんど覚えていない。


それでも。


隣でレオンが笑っていたことだけは。


きっと、ずっと忘れないと思った。

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