第44話 動き出す影
夜。
街外れに建つ古い屋敷。
外観は歴史ある貴族の館。
しかし、その中には血と暴力で築かれたディ・ネーロ・ファミリーの本部があった。
重厚な扉の奥。
広い執務室には静かな空気が流れている。
壁には歴代当主の肖像画。
大きな机。
高級な酒。
窓の外にはイタリアの夜景が広がっていた。
一人の男が椅子へ深く腰掛けている。
ドン・サルヴァトーレ・ディ・ネーロ。
六十代。
裏社会でその名を知らぬ者はいない。
麻薬。
武器。
恐喝。
人身売買。
金になるものなら何でも扱う。
“古きマフィア”を最後まで貫こうとする男だった。
煙草を灰皿へ押し付ける。
「ニコは死んだか」
低い声が部屋へ響く。
幹部の一人が静かに頭を下げた。
「はい」
「潜入は失敗しました」
サルヴァトーレは表情一つ変えない。
「そうか」
それだけだった。
一人の駒が失われた。
その程度の反応だった。
「最後まで情報は流していたようです」
「なら十分だ」
部屋の空気がさらに冷える。
その時だった。
部屋の隅から、小さな声が聞こえた。
「……ボス」
十四歳ほどの少女。
肩まで伸びたアッシュブラウンの髪。
泣き腫らした瞳。
どこかニコによく似た面影がある。
ルチア。
ニコの妹だった。
サルヴァトーレは静かに視線を向ける。
「どうした」
少女は震える声で尋ねる。
「お兄ちゃん……」
「帰ってきますよね……?」
静寂。
サルヴァトーレはゆっくり立ち上がる。
少女の前まで歩き、その頭へ手を置いた。
「ルチア」
「お兄さんは」
「レオン・ヴィンチェンティのファミリーに殺された」
少女の瞳が揺れる。
「……え?」
「家族を守るため」
「最後まで戦った」
「立派だった」
ルチアの頬を涙が伝う。
「お兄ちゃん……」
「そんな……」
「私、一人になっちゃう……」
サルヴァトーレは静かに少女を抱き寄せた。
「安心しろ」
「お前にはまだ私がいる」
「ディ・ネーロがお前の家だ」
ルチアは震えながら服を握る。
「……はい」
「私には」
「もう」
「ボスしかいません……」
サルヴァトーレはゆっくり頷いた。
「それでいい」
その目に情はなかった。
利用価値を確かめるような冷たい光だけが宿っていた。
「今日は休め」
「明日から訓練だ」
「……はい」
ルチアは深く頭を下げ、部屋を後にした。
扉が静かに閉まる。
その瞬間。
幹部の一人が口を開いた。
「ボス」
「よろしかったのですか」
「真実を話さなくて」
サルヴァトーレは新しい煙草へ火をつける。
「真実?」
「家族の件です」
煙をゆっくり吐き出す。
「父親は失敗した」
「母親も口封じが必要だった」
「だから始末した」
幹部は黙って聞いている。
「妹は」
「生かした」
「情けですか」
サルヴァトーレは小さく笑った。
「違う」
「十四だ」
「まだ使い道はいくらでもある」
部屋の空気が凍りつく。
「戦えるようになれば兵士にする」
「頭が良ければ情報屋でもいい」
「それでも役に立たなければ」
一拍置いて、冷たく言い放つ。
「別の金の稼ぎ方はいくらでもある」
幹部は何も言わない。
それがこの男のやり方だと知っているからだ。
サルヴァトーレは灰を落としながら続ける。
「人は」
「生きているだけで価値になる」
「使える間は使う」
「使えなくなれば捨てる」
それが当たり前のような口調だった。
「憎しみは最高の燃料だ」
「兄を殺した相手を教えてやれば」
「勝手に育つ」
そして机の上の写真を一枚手に取る。
そこに写っていたのは――郁。
「如月郁」
「ニコを見抜いた坊主か」
幹部が答える。
「非常に優秀です」
「レオンのお気に入りとも」
サルヴァトーレは写真を見つめたまま笑った。
「殺すだけでは面白くない」
郁の写真を机へ戻す。
「壊す」
その一言だけで、部屋の温度がさらに下がる。
「レオンは人を守りすぎる」
「だから弱い」
誰も反論しない。
サルヴァトーレは窓の外へ目を向けた。
「まずは」
「レオンから、大切なものを一つずつ奪ってやろう」
夜の闇は静かに街を覆っていた。
その闇はもう。
レオンたちのすぐ近くまで迫っていた。




