第42話 恋愛って難しい
夜。
郁は一人、中庭を歩いていた。
夜風が頬を撫でる。
自然と今日の出来事を思い出してしまう。
『俺、郁のことが好き』
『ちゃんと口説くことにした』
思い出した瞬間。
「……」
耳まで熱くなる。
「もう……」
思わず両手で頬を押さえた。
(あんな真っすぐ言われたの)
(初めて……)
胸が少しだけ騒ぐ。
でも。
郁はゆっくり首を振った。
(落ち着こう)
(考えすぎ)
そう言い聞かせながら歩く。
自然と昔のことを思い出していた。
――――――
小学生の頃。
郁は髪が腰まである女の子だった。
勉強は何でもできた。
テストはいつも満点。
学校では『天才少女』なんて呼ばれていた。
ある日の帰り道。
知らない男に声を掛けられた。
「お父さんの友達なんだ」
「車まで案内するよ」
幼かった郁は、一瞬だけ足を止めた。
男の手が、無造作に腕へ伸びてくる。
指先が触れた、その瞬間だった。
「郁ちゃん!」
近所のおばさんが大きな声を上げる。
男は舌打ちをして、腕を掴みかけた手を離すと、そのまま逃げていった。
後から聞いた。
誘拐されかけていたのだと。
その日の夜。
父が静かに言った。
『郁』
『髪を切ろう』
母は少し寂しそうに郁の長い髪を撫でる。
『せっかくここまで伸ばしたのにね』
少し悲しそうに。
『でも』
『命には代えられないもの』
翌日。
郁の髪は肩より短くなった。
それからだった。
父は護身術を教えてくれた。
合気道。
柔道。
護身術。
「もしもの時」
「自分の身は、自分で守れるようになりなさい」
父は何度もそう言っていた。
――――――
中学生になる頃には。
「可愛い」
よりも。
「かっこいい」
と言われることの方が多くなった。
男の子から告白されたこともある。
女の子から真剣に想いを伝えられたこともある。
でも。
郁は誰とも付き合わなかった。
医者になりたかった。
もっと勉強したかった。
命を救える人になりたかった。
やりたいことが多すぎた。
恋愛は。
いつも後回しだった。
友達によく聞かれた。
『郁って恋愛興味ないの?』
その度に笑って答える。
『時間がなくて』
それは嘘ではなかった。
本当に。
恋愛を考える余裕なんてなかった。
――――――
「……」
郁は空を見上げる。
今まで。
誰かを好きになったことはない。
誰かにここまで真っすぐ想いを伝えられたこともない。
『可愛い』
『かっこいい』
レオンの言葉が蘇る。
見た目だけじゃない。
自分の生き方まで見てくれていた。
胸が少しだけ苦しくなる。
思わず耳元のピアスへ触れた。
「……」
嬉しかった。
本当に。
嬉しかった。
でも。
郁はゆっくり首を振る。
(だめ)
(考えちゃだめ)
自分には戸籍がない。
この世界の人間ですらない。
普通ではない。
もし。
レオンの想いに応えたとしても。
いつか。
傷付けることになるかもしれない。
郁は小さく息を吐く。
ふと、ある人の顔が浮かんだ。
ソフィア。
初任務で出会った、美しく気品のある女性。
レオンの元婚約者。
(綺麗で)
(強くて)
(頭も良くて)
(同じ世界で生きてきた人)
(……お似合いだったな)
契約だったと言っていたけれど。
並んでいる姿は、とても自然で絵になっていた。
(ボスには)
(きっと)
(ソフィアさんみたいな人のほうが似合う)
同じ世界で生きてきた人。
この世界で当たり前に笑って、当たり前に年を重ねていける人。
そのほうが。
きっと幸せだ。
だから。
(私は)
(返事はできない)
郁は耳元へ手を伸ばす。
昨日もらった幹部のピアス。
指先でそっと触れる。
「……」
嬉しい。
本当に嬉しい。
だからこそ。
この気持ちは胸の奥へしまっておこう。
――――――
「よし」
仕事をしよう。
訓練をしよう。
余計なことを考える暇がないくらい、いつも通り過ごそう。
それが今の自分にできることだった。
郁は小さく息を吐いた。
考えを振り払うように歩き出す。
向かう先は。
いつもの訓練場。
「……よし」
余計なことを考えるくらいなら。
体を動かそう。
銃を握ろう。
本を読もう。
いつもの自分に戻ろう。
そう思って扉を開けた。
「こんばんは」
そこには、すでにノアが立っていた。
「来ると思った」
郁は少し驚いて笑う。
「分かってたんですか?」
ノアは短く答えた。
「ああ」
「考え事すると」
「お前は訓練場へ来る」
郁は苦笑する。
「癖ですね」
「そうだな」
ノアは銃を一本放り投げた。
「付き合う」
郁はそれを受け取る。
「ありがとうございます」
余計なことは考えない。
そう決めたはずなのに。
引き金を引くたび。
頭の片隅には。
あの優しい笑顔と。
『ちゃんと口説く』
という言葉だけが、何度も何度も浮かんでいた。




