第36話 幹部の仕事
幹部になって最初の朝。
郁の一日は、今までと変わらず訓練場から始まった。
「構え」
ノアの声が響く。
「はい」
銃を構え、呼吸を整える。
引き金を引く。
乾いた銃声。
標的の中心へ穴が開く。
ノアは静かに頷いた。
「悪くない」
「ありがとうございます」
続いて体術。
肩を痛めないよう、まだ以前より軽めのメニューだ。
ノアは様子を見ながら言う。
「無理はするな」
「はい」
訓練を終えると、そのまま執務室へ向かった。
――――――
会議室には、すでに幹部全員が集まっていた。
郁は少し緊張しながら席へ座る。
「よろしくお願いします」
レオンが穏やかに笑う。
「そんなに緊張しなくていいよ」
会議が始まる。
ヴィクトルが資料を配った。
「まず一件目です」
「北地区でディ・ネーロの動きが確認されました」
部屋の空気が少し引き締まる。
ルカがモニターを操作する。
「人数」
「五人」
「まだ偵察」
ノアが地図へ視線を落とした。
「こちらも見張りを増やす」
レオンが頷く。
「接触は避けよう」
「向こうが動くまでは静観」
「了解」
続いてヴィクトルがページをめくる。
「次です」
「孤児院の屋根修理が完了しました」
ルカが小さく笑う。
「子ども」
「喜んでた」
郁も自然と笑顔になる。
「よかったです」
レオンも穏やかに頷いた。
「これからも続けよう」
会議は三十分ほどで終わった。
思っていたよりずっと落ち着いている。
(もっと怖い話ばかりだと思ってた……)
そんなことを考えていると。
レオンが笑う。
「どう?」
「初めての幹部会」
郁は正直に答えた。
「思っていたより……」
「皆さん真面目でした」
一瞬の沈黙。
マルコが吹き出した。
「おい!」
「俺まで不真面目みたいじゃん!」
部屋に笑いが広がった。
――――――
午後。
書類仕事をしていると、ドアがノックされた。
「失礼します!」
若い部下が顔を出す。
「郁さん!」
「少し相談いいですか?」
「もちろん」
部下は困った顔をしている。
「新人教育なんですけど……」
「教え方が分からなくて」
郁は少し考えた。
「怒るより」
「まず一緒にやってみるのはどうですか?」
「できたら褒めて」
「できなかったところだけ教える」
部下は目を丸くする。
「なるほど!」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに帰っていく。
その五分後。
「郁さん!」
また別の部下だった。
「書類ってどこまで書けばいいですか?」
「ここまでですよ」
「ありがとうございます!」
さらに十分後。
「郁さん!」
「今いいですか!」
「はい」
そのまた十分後。
「郁さん!」
そのまた五分後。
「郁さん!」
「……」
気付けば机の前には順番待ちの列ができていた。
郁は思わず苦笑する。
「皆さん」
「そんなに私で大丈夫なんですか?」
一人の部下が笑う。
「郁さん」
「聞きやすいんです!」
「ノアさんだと緊張しちゃって」
その瞬間。
「何の話だ」
低い声。
全員が固まる。
ノアだった。
「……」
部下たちは一斉に姿勢を正す。
「い、いえ!」
「相談を!」
ノアは郁を見る。
「困ってるのか」
郁は慌てて首を振った。
「いえ」
「皆さん頑張っているので」
「私も力になれたらと思って」
ノアは部下たちを見る。
「相談するのはいい」
「だが」
「一人に集中するな」
部下たちは慌てて頷く。
「はい!」
ノアは郁へ向き直る。
「幹部は」
「一人じゃない」
「困ったら」
「俺たちを使え」
その言葉に。
郁は少しだけ目を見開いた。
「……はい」
嬉しそうに笑う。
――――――
夕方。
レオンが執務室へやって来た。
「どう?」
「初日の感想は」
郁は少し疲れたように笑った。
「幹部って」
「思っていたより忙しいですね」
レオンは声を出して笑う。
「でしょ?」
「でも」
「今日一日見てたけど」
「郁らしかった」
「え?」
「相談に来た子」
「みんな笑って帰っていった」
「それが君の強み」
郁は照れくさそうに笑う。
「そんな大したことは……」
レオンは首を横に振る。
「あるよ」
「だから」
「幹部になっても」
「今までの郁でいて」
郁は静かに頷く。
「はい」
レオンはドアの前で振り返った。
「でも」
「一人で抱え込まないこと」
「困ったら」
「幹部のみんなを頼って」
「俺もいるから」
郁は自然と笑顔になる。
「ありがとうございます」
「ボス」
幹部としての日常は、こうして少しずつ始まっていった。




