第32話 夢
レオンが病室を後にしてから、しばらく。
郁は本当に久しぶりに穏やかな気持ちで目を閉じた。
窓から差し込む午後の日差しが暖かい。
意識がゆっくりと沈んでいく。
――気が付くと。
真っ白な世界に立っていた。
空も。
地面も。
何もない。
「……ここは」
その時。
遠くから、小さな足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
ゆっくりと近付いてくる。
郁は目を見開いた。
「……あなた」
白いワンピースを着た少女。
長い黒髪。
どこか不気味な笑み。
前世で。
交通事故の直前。
自分が助けた少女だった。
少女は郁の前まで来ると、笑わなかった。
ただ。
本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「……ごめんね」
郁は思わず一歩近付く。
「待って!」
少女はゆっくり顔を上げた。
その瞳は涙で濡れていた。
「私」
「ずっと謝りたかった」
「……?」
少女は静かに話し始める。
「私は」
「世界と世界の狭間に縛られていたの」
郁は息を呑む。
「どこにも行けなくて」
「誰にも見つけてもらえなくて」
「何百年も」
「ずっと」
少女は寂しそうに笑った。
「でも」
「郁が私の代わりになってくれた」
「だから」
「私は解放された」
郁は固まる。
「……え」
少女は目を伏せる。
「利用したの」
「あなたを」
静かな言葉だった。
「本当に、ごめん」
郁は何も言えない。
少女は続ける。
「でも」
「それだけじゃ終われなかった」
少しだけ笑う。
「だから」
「今度は私が助けた」
「……助けた?」
「うん」
少女は頷く。
「あの時」
「銃で撃たれた時」
「本当なら」
「もっと深く入ってた」
「少しだけ」
「ずらしたの」
郁は自分の胸へ手を当てる。
「……」
少女は優しく微笑んだ。
「あとね」
一歩近付く。
「あなたを」
「一番必要としてくれる世界へ送った」
郁は目を見開く。
「だから」
少女は少しだけ悪戯っぽく笑う。
「おあいこ」
その笑顔は。
事故の日の不気味な笑みではなかった。
年相応の。
少し照れくさそうな笑顔だった。
少女の身体が少しずつ光になっていく。
「待って!」
郁は手を伸ばす。
「あなたの名前は!?」
少女は振り返る。
少しだけ笑う。
「もう」
「大丈夫だから」
「幸せになってね」
その言葉だけを残し。
少女は光となって消えた。
「待って!」
郁が叫んだ瞬間。
――――――
コンコン。
病室の扉を叩く音が響いた。
郁はゆっくり目を開ける。
夢だった。
胸はまだ少し早く上下している。
「入る」
聞き慣れた低い声。
ノアだった。
両腕いっぱいに本を抱えている。
医学書。
歴史書。
小説。
辞典まで混ざっている。
郁は思わず目を丸くした。
「……そんなに」
ノアはベッドの横へ本を積み上げる。
「ボスが」
「全部持っていけって」
郁は思わず笑った。
「ボスらしいですね」
ノアはようやく郁の顔を見る。
そして。
ほんの少しだけ。
肩の力を抜いた。
「……よかった」
その一言だった。
郁は首を傾げる。
「?」
ノアは視線を逸らす。
「目が覚めて」
「安心した」
短い言葉。
でも。
ノアがそんなことを口にするのは珍しかった。
郁は少しだけ笑う。
「ご心配をおかけしました」
ノアは鼻を鳴らす。
「本当に」
「心配した」
郁は思わず目を丸くする。
ノアは照れ隠しをするように机へ視線を向けた。
「だから」
「もう」
「無茶はするな」
郁は静かに頷く。
「……はい」
ノアは山積みになった本を指差した。
「全部読むまで」
「退院禁止だ」
「えぇっ!?」
郁は思わず笑う。
「それ、一生退院できませんよ」
病室に。
久しぶりの笑い声が響いた。
――――――
夕暮れ。
ノアは屋敷へ戻ってきた。
玄関の扉を開ける。
ヴィクトルが帳簿を片付けながら顔を上げた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
レオンはふとノアを見る。
「郁、どうだった?」
その一言だった。
ノアは少しだけ目を細める。
「本を見た瞬間」
「嬉しそうに笑ってた」
レオンも自然と笑う。
「そっか」
「よかった」
その笑顔を見て。
ノアはコーヒーを一口飲む。
「……」
レオンは執務室へ向かおうと歩き出す。
ノアが静かに口を開いた。
「レオン」
プライベートのときの呼び方だった。
「ん?」
「一つ聞く」
レオンが振り返る。
ノアは真っ直ぐ見た。
「もし」
「今日撃たれたのが俺だったら」
「三日も病院にいたか?」
レオンは少し考える。
「……」
答えが出ない。
ノアは続ける。
「仕事」
「病院へ持ち込んだ」
「毎日付き添った」
「寝不足」
「飯も適当」
「全部」
「郁だからだ」
レオンは苦笑した。
「君だって心配してたじゃない」
「した」
ノアはあっさり認める。
「部下だから」
「俺は全員心配する」
レオンも頷く。
「俺も同じだよ」
「違う」
ノアは即答した。
「俺は」
「心配はした」
「でも」
「仕事は止めない」
「病院にも毎日は行かない」
「お前は違った」
レオンは困ったように笑う。
「それは……」
「ボスだから」
ノアは小さく首を振る。
「違う」
少し間を置く。
「無自覚か」
「?」
レオンは首を傾げる。
ノアはコーヒーカップを置いた。
「郁のことになると」
「お前」
「冷静じゃない」
「そんなことないよ」
レオンは笑って否定する。
ノアはレオンを見つめたまま。
「じゃあ聞く」
「郁」
「優秀か?」
レオンは何も考えず答えた。
「うん」
「素直だし」
「努力家だし」
「人を支えるのがうまい、放っておけないし」
「可愛いよ」
そこまで言って。
レオンは止まる。
「……」
ノアは少しだけ口元を緩めた。
「今」
「自分で言った」
「え?」
「……何を?」
本気で分かっていない。
ノアは肩をすくめる。
「まあいい」
「そのうち気付く」
そう言って立ち上がる。
「今日は寝ろ」
「寝不足だ」
レオンは首を傾げたまま執務室へ向かう。
「……何だったんだ?」
本気で分かっていない。
その背中を見送りながら。
ノアは小さく笑った。
「……鈍い」
誰にも聞こえないほど小さな独り言だった。




