第29話 最後の願い
車は静かに住宅街へ入っていく。
目的地まであと数百メートル。
ハンドルを握るノアが低く口を開いた。
「郁」
「はい」
「もう一度言う」
赤信号で車が止まる。
ノアは前を向いたまま続けた。
「これは罠かもしれない」
後部座席のレオンも静かに言う。
「ニコの家族じゃなく」
「手紙を届けに来る人間を狙っている可能性もある」
郁は膝の上の封筒を見つめ、小さく頷いた。
「……はい」
「それでも」
「届けたいです」
レオンはしばらく郁を見つめたあと、小さく笑う。
「分かった」
「行こう」
――――――
目的の家へ到着する。
古びた二階建ての家。
人気はない。
静かすぎる。
ノアは拳銃を抜いた。
「警戒」
三人はゆっくり玄関へ向かう。
鍵は壊されていた。
ノアがドアを押し開ける。
軋む音。
部屋へ入る。
「……」
郁の足が止まった。
家具は倒れ。
食器は割れ。
壁には弾痕。
そして。
床一面に乾いた血痕が残っていた。
「そんな……」
レオンも静かに部屋を見渡す。
「誰もいない」
郁は震える足で部屋の奥へ進む。
棚の下。
割れた写真立てが落ちていた。
そっと拾う。
ガラスは砕けている。
そこには。
父。
母。
幼い妹。
そして。
笑顔のニコ。
郁は思わず膝をついた。
「……ニコ」
写真を抱き締める。
「間に合わなかったの……?」
涙がぽたり、と写真へ落ちる。
その瞬間だった。
郁の視界の端で。
二階の窓ガラスが、一瞬だけ光を反射した。
(……スコープ)
ノアに何度も教わった。
ガラス越しの反射。
狙撃。
考えるより先に身体が動く。
「ボス!!」
郁はレオンへ飛び込んだ。
パンッ!!
乾いた銃声。
鈍い衝撃が肩から胸へ走る。
「っ……!」
郁の身体がレオンへ倒れ込む。
「郁!!」
赤い血が一気に広がる。
レオンはすぐに郁を抱きかかえた。
ノアは一瞬で窓を見る。
「二階」
「右」
そのまま外へ飛び出す。
壁を利用しながら素早く移動する。
敵は次弾を装填していた。
その一瞬。
ノアは窓の隙間に人影を捉える。
パンッ。
パンッ。
二発。
窓ガラスが砕け散る。
人影が崩れ落ちた。
「制圧」
短く呟く。
すぐに踵を返した。
――――――
「郁!」
レオンは傷口を強く押さえる。
血が止まらない。
「郁!」
呼吸が浅い。
意識が遠のいている。
ノアが駆け戻る。
「車だ!」
――――――
三人は急いで車へ乗り込んだ。
ノアは運転席へ飛び乗る。
エンジン始動。
アクセルを踏み込む。
タイヤが悲鳴を上げた。
「ボス!」
「止血を!」
「分かってる!」
レオンは郁を後部座席へ寝かせる。
傷口へ布を押し当てる。
強く。
強く。
圧迫止血。
「止まれ……」
「頼む」
血は指の隙間から滲み続ける。
「郁」
「聞こえるか」
返事はない。
ノアは片手でハンドルを握りながら無線機を取った。
普段の冷静な声ではない。
「こちらノア」
「系列病院へ繋げろ」
数秒後。
『繋がりました』
「救急受け入れ要請」
「五分後到着」
「患者一名」
「銃創」
「右肩から胸部付近」
「出血多量」
「輸血準備」
「手術室確保」
「外科医を集めろ」
言葉がいつもより速い。
レオンはその横顔を見る。
ノアが。
焦っていた。
『了解!』
『すぐ準備します!』
通信が切れる。
ノアはアクセルをさらに踏み込んだ。
「……間に合え」
思わず漏れた一言だった。
――――――
レオンは圧迫を続ける。
血が止まらない。
「郁」
「目を開けて」
反応がない。
傷口を確認するため、レオンは震える手で服を切り開いた。
下着が血で赤く染まっている。
布を外し、止血位置を探す。
その瞬間。
レオンの手が止まった。
「……」
女だったのか。
以前から違和感はあった。
でも。
そんなことはどうでもよかった。
(関係ない)
(助かってくれ)
レオンはすぐに意識を切り替え、再び強く傷口を押さえる。
「郁」
「約束しただろ」
「一緒に生きようって」
「だから」
「帰ってこい」
郁の手が、ほんの少しだけ動いた気がした。
レオンはその小さな温もりを握り返す。
車は街を駆け抜け、病院へ向かっていた。




