第24話 決別
静寂が会議室を包んでいた。
誰も言葉を発しない。
ニコだけが静かに立っている。
レオンは苦しそうに目を伏せ、それでも最後に問いかけた。
「……ニコ」
ゆっくりと顔を上げる。
「こちらへ来る気はないか」
部屋の空気が止まる。
誰もが、その答えを待っていた。
長い沈黙。
ニコは小さく笑った。
その笑顔は、どこか寂しかった。
「……」
胸元へ手を伸ばす。
ゆっくりと拳銃を抜く。
金属音が静かな部屋に響いた。
郁は息を呑む。
「ニコ……」
銃口がゆっくりと上がる。
その先にいたのは――レオンだった。
けれど。
郁には分かった。
撃つ気なんてない。
その目は、悲しいほど穏やかだった。
ノアの手が、無言のうちに腰の得物へ伸びる。
一瞬だけ、ノアの視線がレオンへ向いた。
問うような、確かめるような視線だった。
ボスへ銃口が向けられた以上――それがたとえ本気でなくとも、見過ごせることではない。
ここにいる誰もが、そのルールの中で生きている。
レオンは、ほんのわずかに顎を引いた。
それだけで、十分だった。
ニコは小さく笑う。
「……ない」
その一言だけだった。
次の瞬間。
パンッ――。
乾いた銃声が会議室へ響いた。
ニコの身体が小さく揺れる。
胸元から赤い血が滲んだ。
ゆっくりと膝をつき、そのまま床へ崩れ落ちる。
銃を撃ったのは――ノアだった。
ノアは静かに銃を下ろす。
そして、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
それだけだった。
「……」
誰も動けない。
郁は目の前の光景を理解できなかった。
昨日まで。
一緒に笑っていた。
一緒にご飯を食べて。
一緒に市場へ行って。
服まで貸してくれた人が。
今。
目の前で動かなくなっている。
耳鳴りがする。
呼吸が浅くなる。
足に力が入らない。
視界が白く霞んでいく。
「郁!」
マルコが慌てて肩を支えた。
郁は返事ができない。
震える唇が小さく開くだけだった。
ノアがゆっくり近付く。
その表情は変わらない。
けれど、その瞳だけは深く沈んでいた。
「今日は終わりだ」
郁は震えながら顔を上げる。
「……助けられなかったんですか」
小さな声だった。
ノアは静かに答える。
「助けようとした」
一拍置く。
「だが」
「ニコは、自分で選んだ」
もう一度、静かに続けた。
「ボスへ銃を向けた。それだけで、俺に選べる道はなくなる」
「たとえ、あいつに撃つ気がなかったとしても」
その言葉だけが、重く胸へ落ちた。
その夜。
郁は眠れなかった。
部屋へ戻る。
扉を閉める。
静かだった。
いつもなら聞こえてくるはずの声がない。
『郁!』
『腹減ったー!』
『風呂行くぞ!』
何も聞こえない。
ベッドは二つ。
でも。
一つは空っぽだった。
机の上には、ニコが使っていたマグカップが置かれている。
朝までそこにあった日常は、もうどこにもなかった。
郁はゆっくりベッドへ腰を下ろす。
笑顔が浮かぶ。
市場で笑っていたニコ。
チェスの話で笑ったニコ。
「ここ、いい場所だよ」
そう笑ったニコ。
「ここで生まれたかったな」
あの日、小さく呟いたニコ。
「……」
涙が止まらなかった。
何度拭いても。
次から次へと溢れてくる。
その時。
コンコン。
小さく扉が鳴った。
「入るよ」
レオンだった。
郁の隣へ静かに腰を下ろす。
何も言わない。
慰めもしない。
二人の間には長い沈黙だけが流れていた。
やがて。
郁がぽつりと呟く。
「……普通には」
言葉が途切れる。
涙を拭う。
「もう、戻れませんね」
レオンは夜空へ目を向けた。
「そうかもね」
静かな声だった。
「一度知ってしまったものは」
「知らなかった頃には戻れない」
優しい嘘はつかなかった。
郁は黙って聞いている。
レオンは少しだけ笑う。
「でも」
「前には進める」
郁はゆっくり目を閉じる。
深く息を吸う。
涙を拭う。
長い沈黙のあと。
静かに顔を上げた。
その瞳には、まだ涙が残っていた。
それでも。
しっかりとレオンを見つめる。
「私は」
一度言葉を飲み込む。
「この場所で生きると決めました」
レオンはその言葉を静かに受け止めた。
小さく頷く。
「……うん」
一拍置く。
穏やかに微笑んだ。
「一緒に生きよう」
その一言だけで十分だった。
郁は小さく頷く。
「はい」
レオンが部屋を出ていく。
扉が静かに閉まった。
郁は立ち上がる。
もう一度、部屋を見渡す。
空っぽのベッド。
使われることのない机。
置かれたままのマグカップ。
郁は静かに灯りを消した。
暗闇の中、小さく呟く。
「……おやすみ、ニコ」
返事はもう、どこからも返ってこなかった。




